リューシスの投獄
リューシスは自身の宮殿を出て、色とりどりの花が咲き乱れる広い中庭を通り、父皇イジャスラフの宮殿に向かった。
イジャスラフは、広々とした部屋の奥、豪奢な天蓋のついた床の上で横になっていた。側には、皇后のナターシアと、二人の侍女が控えていた。
リューシスは、ナターシアを見ると微笑して軽く頭を下げた。こう言う時、ナターシアも大体微笑みで返すのだが、この時だけは少し硬い表情でわずかに口端を上げたのみだったのが、リューシスは少し気にかかった。
「どうしたリューシス?」
扉前の護衛兵がリューシスの来訪を告げると、イジャスラフは怠そうに身体を起こした。
「すみません。お邪魔でしたか」
「いや、構わん。眠ってはおらん。ナターシアの薬湯を飲んだ後、横になって休んでいただけだからな」
イジャスラフが病に倒れて以後、ナターシアは侍医らの治療の他に、自ら調べに調べ、夜を徹して研究をし、薬を調合した。
現在イジャスラフは、朝昼晩と、ナターシアが調合した薬や薬湯を飲むのが習慣となっている。
「そうでしたか。お身体は如何ですか?」
「ナターシアもこれだけ頑張ってくれているのだが……良くはないのう。わしももう長くはないかもしれんな」
イジャスラフは寂しそうに笑った。かつては皮膚も血色良く、目にはぎらつくような覇気を湛えていたが、今では顔はかさついて皺が増え、めっきり老け込んだように見える。それが、リューシスの心を寂しくしめつけた。
「そのような弱気を言わないでください。このローヤンにはまだまだ父上が必要です」
「うむ。ガルシャワとの争いはますます激しくなり、南方のザンドゥーアとも揉めておる、北東のマンジュの動きも気になるしのう……ここでわしが倒れるわけには行かん……だが、戦場で如何なる強敵が現れようとも遅れを取るわしではないが、病だけはどうにもならん」
「お気を強く。父上ならば病にもきっと打ち勝てます」
「はは……まあ、しっかりと養生していくしかないのう。で、どうしたリューシス?」
イジャスラフが改めて聞くと、リューシスは持って来た梨の大皿を差し出した。
「見舞いに参ったのです。絶品のドーファン産の梨を手に入れました。父上は梨が好きだったので差し上げようと思いまして」
「ほう、良いのか?」
イジャスラフは嬉しそうに目を細めた。
「ええ、是非。この梨を食べて体力をつけ、病に勝ってください」
「うむ、ではいただこうか」
イジャスラフは、侍女に顎をしゃくった。
侍女がリューシスの前に歩み寄り、大皿を両手で受け取ってイジャスラフの前に運んだ。
だがその時、側の皇后ナターシアがそれを制した。
「お待ちください」
「どうした?」
イジャスラフが不審そうに聞くと、
「外より持ち込まれた物、すぐに食べてはいけませぬ。まずは毒見をしなければ」
「何を言っておる。これはリューシスが持って来たのだぞ」
「リューシスが毒を入れていないと言い切れますか?」
ナターシアが冷ややかな顔で言った。
瞬間、先程ナターシアが見せた不自然な表情が脳裏を走り抜け、リューシスの中でずれていた何かがぴたりと合わさった。
「継母上、何をおっしゃられますか? これは元々は継母上が差し入れてくれた……」
リューシスは顔色を変えながら言うと、
「私が? 何を言っているのですか?」
ナターシアは冷ややかに言い放つと、侍女の手から梨を一つ取り上げて窓から放り投げた。
窓の外の庭には、イジャスラフが可愛がっている犬がいる。犬はすぐに梨に駆け寄って匂いを嗅いだ後、齧った。
すると、数口齧った後、犬がばたっと倒れた。そしてしばらく苦しそうに痙攣していたが、その後に大量に血を吐くと動かなくなってしまった。
それを見たイジャスラフは、たちまちに顔色を変えて怒鳴った。
「リューシス、どう言うことだ!」
「いえ、これは……違います」
リューシスは青い顔で何か言おうとしたが、何も言葉が無い。
(毒の梨……迂闊だった……神猫のシャオミンは毒が効かないから気付かなかった。俺が梨を嫌いで、シャオミンは毒が効かないことを利用した謀略か。いや、それより何てことだ。これは……)
リューシスは唇を震わせながらナターシアを見やった。
(まさか継母上が……)
呆然として、それまで見せたことのないような冷ややかな表情のナターシアを見つめた。
沸々と、悲しみと怒りが入り混じったどうしようもない暗い感情が沸き起こって来た。
イジャスラフが言った。
「何が違うのだ?」
「罠です……これは陰謀です。継母上が私を陥れようとする陰謀です」
リューシスは、胸を食い破ろうとして来るような暗い感情を必死に抑えながら言った。
「ナターシアが? ナターシアが何故そのようなことをする必要がある」
イジャスラフが眦を吊り上げたまま言うと、ナターシアは冷たく笑った。
「何を言っているのです、リューシス。私が何故あなたを陥れるのですか? 証拠は?」
「それは……私がバルタザールの敵になるかも知れないと恐れてのこと、違いますか?」
「私はそんなこと考えたこともありませんよ。証拠があるのですか?」
「それは……」
リューシスは歯を噛んだ。
「リューシス、お前はわしを毒殺しようとしたわけだな」
イジャスラフが激しい怒りを宿した目でリューシスを睨んだ。
「違います、父上。私は何もしておりません」
「黙れっ! 先日の手紙の件もやはり本当なのであろう。リューシスを縛り上げよ!」
イジャスラフが命令すると、内外の護衛兵らが駆け寄って来てリューシスを捕えた。
「地下牢に入れい!」
「父上! どうかお話を!」
リューシスは必死に叫んだが、完全に頭に血が上っているイジャスラフは聞く耳を持たない。
リューシスは護衛兵に引きずられて行った。部屋を出て行く時、リューシスは振り返ってナターシアを見た。
「継母上……あ、貴女は……」
リューシスの心中には怒りが沸き始めていたが、その目からは悲しい涙がこぼれていた。
ナターシアは何も言わなかった。美しい顔に冷たい表情を浮かべてリューシスを見るのみであった。
リューシスが皇帝イジャスラフを毒殺しようとした。
この知らせは瞬く間に広がり、宮中は俄かに騒然とした。
ただちに、宰相マクシム・ワルーエフによって主だった重臣たちが大広間に集められた。
玉座の上にはイジャスラフの姿もある。だが、先程の騒ぎが心身に障ったのか、一際怠そうな様子で顔色も悪かった。
マクシムは、イジャスラフの玉座の下で、重臣たちを見回した。
「さて、皆すでに聞き及んでおろうが、第一皇子でありランファン王でもあるリューシスパール殿下が毒の梨を使い、陛下を暗殺しようとした。だが、その浅はかなる陰謀は陛下の慧眼により見破られることとなり、リューシスパール殿下は今、地下牢に入れられておる」
立ち並ぶ重臣たちの間にどよめきが走った。
マクシムは続けて言った。
「陛下のお子でありながら、父でありこのローヤン帝国の皇帝である陛下を暗殺しようなどとは言語道断。皇帝暗殺は即刻処刑が許されている最も重い罪である。それはたとえ皇子であろうと絶対に許されぬ。よって、すぐに処刑するべきであると思うが、諸君らはどう思われるか」
すると、一部の重臣らから、
「異論は無い」
「何人であろうと、皇帝陛下を暗殺しようとするなど決して許されん。死罪が当然である」
などと、異口同音に声が上がった。
それらは皆、特にマクシムの息がかかっている者達である。
他の者達は同調しなかったが、特に反論もしなかった。宰相マクシムはローヤン最大にして絶対的な権力者である。ここで何か言えば、後でどんな仕打ちを受けるかわからない、と恐れてのことである。
だが、ただ一人、声を上げた者があった。
ローヤン帝国軍部、七人いる最高幹部、七龍将軍の一人、ビーウェン・ワンである。