飛龍の皇子
果てしない蒼天の下、渺渺たる大地の上。
ローヤン帝国軍とガルシャワ帝国軍、二つの軍勢が真正面から激突していた。
両軍の兵士たちは、冑の下で目を血走らせ、獣性を剥き出しにして刃をぶつけ合う。
激しい干戈の響きと渦を巻く怒号と悲鳴の中、鮮血が舞い上がり、原野が赤黒く染まって行った。
一見すると、両軍は互角に見えた。
だが、ローヤン軍の兵数は、明らかに敵のガルシャワ軍より少なく、やがて徐々に押されて行った。
ローヤン軍を率いるのは、若い部隊長、バーレン・ショウ。目元涼やかな青年武将であるが、長身で屈強な体躯を持つ豪勇の士である。
バーレンは自ら前線に立って豪槍を振り回し、自軍の劣勢の中にあっても一人でガルシャワ兵を蹴散らしていた。
そのバーレンに、部下が走り寄って叫んだ。
「将軍、思ったよりも敵の勢いが凄まじい。このままでは壊滅は必至です」
「わかっている。だが、殿下が言う"時"までもう少しだ。もう少し堪えろ」
「もう少し、と言いましても……」
部下は焦れた。敵のガルシャワ軍はおよそ五千、それに対してこちらは二千人だった。
バーレンが前線で豪勇を振るっているおかげで全軍潰走を免れているものの、それでも数の上での不利はどうしようもない上に、敵将の指揮が巧妙を極め、自軍の兵士たちが倒れて行く速度は思ったよりも速い。
「敵将はあのシーザー・ラヴァンです。見てください、あの動き。まるで包み込むように押し寄せて来ます」
だがバーレンは、まるで意に介さない。
「だからどうした。俺達を率いているのはリューシスパールだ。心配するな」
「しかし……」
「まあ……だがもうそろそろいい頃か。よし、退くぞ!」
バーレンは頃合いを見て退却命令を下した。
残っている兵士らをまとめ、後方へと退いて行く。
ガルシャワ帝国軍の総大将、シーザー・ラヴァンは、その退却の様子を見て眉根を寄せた。
「追撃は止めよ! 追うな!」
追撃戦に移ろうとする自軍を止めた。
部下のヨルク・ゲーベルが逸るように迫った。
「ラヴァン将軍、何故追わぬのですか? 今こそ絶好の機と見えますが」
「あの退き方はおかしい。奴らの退いて行く先を見てみろ。両脇に小高い丘がある。あそこに伏兵がいるのではないか?」
「なるほど、言われてみれば……」
「敵の総指揮官はリューシスパールだ。きっと何か罠がある」
シーザーは、緑色の瞳を光らせた。
彼は、美しい金髪と、緑玉のような瞳を持つ美青年で、今年の八月で二十七歳になる。近年ガルシャワ帝国内で急速に頭角を現している智将で、多士済々のガルシャワ軍内においても若手の筆頭格である。
「もう十分に奴らは叩いた。これ以上追ってみすみす奴らの罠にはまる必要はあるまい。陣へ戻るぞ」
シーザーは、退いて行ったバーレンの部隊の動きに注意するよう命じた上で、全軍に引き上げを命じた。
しかし、本営へ戻る途中、深い森の脇を通過している時であった。
馬上のシーザーはわずかな殺気を感知した。緑の瞳が鋭く動いた。
「備えよ、伏兵がいるぞ!」
大声で叫んだ。
同時に、鬨の声が響いて森が揺れたかと思うと、その木々の間から一団のローヤン兵が飛び出して来た。
(ここで奇襲だと? さっきここを通過した時に探らせたが、伏兵はいなかったはずだ)
シーザーは唇を噛んだ。
だが、飛び出して来たローヤン兵の数を見ると、すぐに落ち着いた。
「ざっと見てわずかに五百と言うところか。物の数ではない、蹴散らせ!」
シーザーは長剣を抜いて命令を下した。
それを受け、ヨルクが先頭に立ってローヤン兵らに突撃して行く。
しかし、奇襲に来たはずのローヤン兵らは、森を飛び出して来たまま、そこから動かなかった。
――うん? 何故動かない?
シーザーは眉根を寄せた。
と、十数人のローヤン兵が槍を捨て、胸の前で印を組んだ。
――天法術士か? しかし、あんなわずかな天法術士がいたところで何にもなるまい。
だがそこで、シーザーは、足元の土に違和感を覚えた。
土が固まっておらず、上から撒いたように見えるのである。
――まさか?
さっと顔色を変えた。
その瞬間であった。
印を組んでいたローヤン兵が、そのまま両手を突き出すと、そこから灼熱の火炎が噴射された。
「狼狽えるな、大したものではない!」
ヨルクは兵士達に叫びつつ、自らも飛んで来た炎波を避けた。
だが、その避けた炎波が足元の土に落ちた瞬間、大地が轟音を立てて燃え上がった。
ヨルクを始めとして、兵士達が吹き飛ばされ、あるいは炎に焼かれた。
火炎はたちまちに燃え広がって行き、ガルシャワ軍を恐怖と混乱に包み込んだ。
――あちこちに火薬を埋めていたか!
シーザーは悔しげに歯を噛んだ。
だがそれでも、
――冷静に炎から逃れれば大事はない。
「落ち着け! ここから逃れよ!」
シーザーは長剣を引き抜き、馬を乗り回しながら兵をまとめた。
しかし、彼は何かを感じ取って顔色を変えた。
東の空を見上げた。
そこに、こちらへ飛翔して来る飛龍の一団があった。
野生の群れではない。頭に猛々しい二本の角を持ち、勇壮な翼を持つ龍たちの背には、それぞれ武装したローヤン兵が乗っているのが見える。
龍騎兵、飛龍兵、とも言われる、ローヤン帝国軍自慢の飛龍隊であった。
「あれはまさか……」
シーザーは悔しげな色を浮かべながら、兵士達に絶叫した。
「備えよ! リューシスパールの飛龍隊だ!」
シーザー軍を目掛け、蒼天の下を翔ける飛龍隊の先頭。
一際目立つ白い龍の背に、白銀の鎧兜と紅い戦袍を纏った一人の青年が乗っていた。
青年の名を、リューシスパール・アランシエフと言う。
通称はリューシス。ローヤン帝国の第一皇子である。そして、今回のローヤン軍の総指揮官である。
リューシスは、眼下の炎の輪から逃れようと右往左往するシーザー軍を見て、不敵に笑った。
「シーザー、今日こそガルシャワ一の男前と言われるお前の首を拝んでやる」
そしてリューシスは、跨っている白龍の頭を撫で、
「バイラン、頼むぞ」
と、優しく話しかけると、長剣を引き抜いて陽光に煌めかせた。
「行くぞ、降下突撃!」
リューシスは、シーザー軍の側面を目がけて空を翔け降りて行った。
見る見るうちに地上が迫り、狼狽えているシーザー軍の兵士らの姿が大きくなる。
リューシスは両脚で白龍バイランの腹をしっかりと締めると、左手を上げて気を込めた。周囲より光の粒が集まり、たちまち雷気を纏った大きな光の塊が掌に出現する。
兵士らの顔と表情がはっきりと見え始めた時、リューシスは左手を振って光の塊を放った。金色に輝く光の弾は、狂ったような唸りを発しながら飛び落ちて行き、敵兵数人を纏めて吹っ飛ばした。
そしてリューシスは更に降下して地上に迫った時、右手の長剣を大きく下に振った。眼下に迫った敵兵の冑を叩き割ると、リューシスと白龍バイランは再び空に舞い上がった。
そして、他の飛龍たちも続けて上空よりシーザー軍を襲った。
飛龍の全速力の降下は、飛龍自体の自重による落下の勢いも加わり、馬の比ではない速度となる。
そして、その勢いに乗った突撃は、騎馬突撃を遥かに超える衝撃力を持っている。
あっと言う間に数百人の兵士らが倒れた。
そこへ、更に後方より馬蹄の響きが迫る。
先程退却して行ったバーレンの部隊が、脚の速い軽騎兵を率いて引き返して来たのである。
バーレン・ショウは、猛然とシーザー軍の背後に肉薄すると、その勢いのままに突撃した。
更に、先程のローヤンの奇襲隊が隊列を整えて突撃した。
その先頭を駆けるのは、バーレンと同様に筋骨隆々たる大男。
「リューシスパールが家来、ネイマン・フォウコウ! 敵将シーザー・ラヴァンはどこだ? 勝負しろ!」
ネイマン・フォウコウは、長さ150セーツ(cm)、幅15セーツはあろうかと言う大刀を振り回してシーザー軍の兵士らを薙ぎ倒して行く。
さながら嵐の如き猛勇であった。
これで、シーザー軍は完全に戦意を失った。
大狂乱のうちに絶叫しながら逃げ惑う中を、リューシス軍に三方から斬り立てられる。
「致し方ない。退け、退け! 逃げられるならば逃げよ!」
シーザーは叫びながら、自らも槍を振り回し、馬を乗り回しながら、手早く残兵をまとめ、血路を開いて退却して行った。
戦はリューシス率いるローヤン帝国軍の勝利となった。
しかし、敵将シーザー・ラヴァンは打ち漏らした。のみならず、シーザーの手腕は見事なもので、あのような混乱の中にあっても被害を最小限に食いとどめ、まとまった兵を率いて鮮やかに退却して行ったのであった。
赤黄色くなった空の下、ローヤン帝国の首都アンラードに帰還すべく進むリューシス軍。
「おい、シャオミン、何食べてるんだ」
リューシスは、自分の右肩上で羽ばたきながら何か食べている猫をたしなめた。
その生き物は、見た目は完全に豹柄模様の猫である。だが、背に翼が生えて宙を飛んでいた。
遥かな北方にしか棲息していない、不思議な力を持ち人語まで解する 神猫と言う生き物である。
「よくわからないけど、敵兵が持ってた干果物」
神猫シャオミンは、美味しそうに両手で抱えたそれを齧りながら答える。
「お前な。見境なく敵兵の物を食べるのはよせ。何があるかわからないぞ」
「大丈夫だよ。僕たち神猫は毒が効かないから」
「毒は効かなくても腹は壊すだろ。この前酷い下痢になったのは忘れたか」
そのやり取りを見て、リューシスの背後の部下達は笑った。
「しかし勝てて良かった。あの崖の間に入って行った時は俺も流石に緊張したが、見事に殿下の読み通りにシーザーは追って来なかった」
バーレンは蒼い冑の下、涼やかな笑みを見せた。
「シーザー・ラヴァンは用心深い男だ。加えて一年前のセーリン川の戦いで俺の戦い方を知っている。ああすればきっとあの先に伏兵があると思うはずだろうからな。そして、あそこに伏兵があると読んだならば、他の場所、ましてや元々通って来た場所に伏兵があるとは思いもしないはずだ」
リューシスは笑いながら言うと、返り血が付着した銀の兜を脱いだ。
長い赤毛混じりの褐色の髪が揺れた。顔立ちはなかなかに整っている。シーザーほどではないが、美男子の部類に入ると言えよう。だが、毛髪と同じ褐色の瞳の奥に、どこか虚無的な色が見え隠れしていた。
「しかし殿下、私は不満です。またしても私を戦わせてくださいませんでした」
背後でそう言ったのは、普段はリューシスの親衛隊の隊長を務めるイェダー・ロウ。リューシスらと同じく、まだ若者であったが、実に真面目そうな雰囲気が特徴的であった。
彼は、今回、リューシスの命令で輜重隊を守らされていた。
リューシスは振り返って言った。
「お前は子供が生まれたばかりだろう。そんな奴を戦わせられるか。万が一お前が討死にでもしたらお前の嫁さんと子供に会わせる顔がねえよ」
「しかし……」
「まあ、今は安全なところで働いておけ。そのかわり、お前の子供が三歳になったらお前を一番危険な最前線で戦わせるからな」
リューシスが笑いながら言った。バーレンとネイマンも笑った。
「しかしリューシスもそろそろ二十二だ。いつまでも女遊びなんかしてないで、そろそろちゃんと妻を娶ったらどうだ?」
ネイマンは続けて言った。
すると、リューシスは一瞬無言になった後、首を横に振った。
「俺はいいよ」
「しかし、皇子がいつまでも独り身と言うのもおかしいと思います」
真面目な顔で言ったのはバーレン・ショウ。
「妻なら四年ぐらい前に一度娶っただろ。滅ぼしたフェイリン国の姫」
リューシスは笑ったが、そこには空虚なものが漂っていた。
「すぐに離縁してしまったではありませんか」
「まあな……でもとにかく、俺は妻はいらねえ。独り身でいいんだ」
リューシスは真顔で呟くように言った。
「それにしても……今回もまた派手に勝ちました。これで殿下の名声はますます高くなります」
その言葉とは裏腹に、バーレンは表情を曇らせた。
「…………」
「近頃、民の間では、"やはりリューシス殿下の方が皇太子のバルタザール様より次の皇帝にふさわしい"との声が高くなっております。皇太子様の傅役であり、今も後見人であるワルーエフ丞相らカザンキナ部の者たちは、それを聞いて面白くない様子。今回の勝利で、ますます殿下を危険視するでしょう」
バーレンは深刻そうな顔で言った。
リューシスは、現ローヤン皇帝の第一皇子であるが、皇太子ではない。
元々出生当初は皇太子であったのだが、諸事情により、腹違いの弟のバルタザールが生まれると、その地位を弟と交代させられ、ただの皇子に格下げされた。リューシス自身は、そのことを全く気にしていない。元々、玉座や帝位に何の興味もないからだ。だが、バルタザールの周辺にいて様々な利権を得ている者達は、リューシスの器量を恐れ、いつリューシスが再びバルタザールに取って代わって皇太子の地位に返り咲こうとするか、と警戒していたのである。
「全く……だからあまり戦には行きたくないんだが……セーリン川の戦い以後、父上がやたらと俺を戦場に行かせたがるからな」
リューシスは原野の彼方を見ながら嘆息した。
「あの戦いで殿下に優れた戦術の才があることが明らかになってしまった。仕方ありませんね」
イェダーが、どこか少し得意気に言った。
「まあ、とにかく今後は徹底的に用心して行かねばならないでしょう」
バーレンはそう言ったが、その時はすぐにやって来た。
勝利を収めた凱旋の将であり、帝国の皇子と言う身分であるにも関わらず、リューシスは凱旋帰還してすぐに、謀反人として捕えられてしまったのである。
時に公暦1127年、ローヤン暦160年の4月初めのことであった。