第八話 使い魔は見た
帝国の裏の世界では知らぬ者とてない密偵コンビ「影の姉妹」の片割れには、「不可視のファーレ」という大仰な異名がついている。
そのファーレの使い魔が、豪奢な柱の装飾の上にちょこんと乗り、話している人々を見下ろしていた。
ここは王城の最奥。タレシオス国王ハーラミスト八世の私室だ。
「……うむ、行かぬわけにいかんというのはもっともだ。だから余も、行くなと言う気はないんだぞ」
しゃべっているのは国王だ。少々薄くなってきた金髪に丸顔、汗っかきなのか右手にハンカチを握り、時々顔をぬぐっている。いと高き御方という雰囲気はなく、豪奢な服をのぞけば商店街の店先で働いてそうな感じの親父さんだ、とファーレは思っていた。
「テーバー家のパーティー、出るのはかまわんから、余計なことは言わずおとなしくしておれ、と言っておるのだ。わかってくれるな、ミノリル」
「でも父上、国を支える柱となるべき者たちに、お互いの主張の相違を越えて協調しましょう、と呼びかけるのは……余計なことでしょうか?」
穏やかな声で答えたのは、第三王子ミノリル。黒に近い茶色の髪に垂れ目、来年には成人の儀式を迎える十四歳。いかにも育ちがよさそうでおっとりしている。
彼のすぐ右斜め後に、寄り添うようにまだ小さな少女が立っている。腰近くまで真っ直ぐ伸びた黒い髪に、ちょこんとまとまった小づくりの顔立ち。エリンギーナ十二歳、通称エリン。テーバー公爵の四女であり、ミノリルの正室候補といわれている。
ファーレが見ている限り、起きている時間の大半、エリンはこのポジション……ミノリルの右腕のすぐ後にいる。時には両腕で王子の右腕にしがみついている。ベタ惚れ、と噂では言われているが、依存しているという感じにも見えた。
「なにも、強引に説得をしたりするつもりはないのです。いまの僕に説得力などありませんし……。でも、協調を呼びかけるちょっとしたスピーチを、お許しいただけませんか、父上」
「やれやれ……どうしてそこまで、急な協調にこだわるのだね。議会と王室の意見対立など、わが国の政治では日常茶飯事だ。そしてだいたいは、お互いに撃つべき弾を撃ったらそれなりの落とし所に落ち着くのだよ」
「その、撃った弾によって、悲しむ人も出るのではないでしょうか……」
ミノリルがエリンをちらりと見ると、エリンはうつむいた顔をさらにうつむける。その身体は細かく震えているようにも見えた。
「……まあ、気持ちはわかるぞ、ミノリル」
国王の斜め後ろに立っている第一王子カーシーが、うなずきながら口を開いた。
「好きな女の実家と自分の家族が争っているのは、気分的に耐え難いだろう。何かあったら、と思ってしまうものだしな。おまえが王族として将来政治に関わるなら、そのへんも呑み込んで動けるようになってほしいのだが、いまはそこまで求めるのは酷だな」
「いやあの、そういうことじゃなくてですね……」
「ん? そういうことじゃない、とは?」
からかうようなカーシーの問いに、国王もニヤニヤしはじめる。
「好きな女、とかですね、そういう俗な話でなく……」
「おや、エリン嬢が嫌いなのかね?」
「違います! 兄上、父上、真面目な話をしてるんですよー!」
ミノリルが憤慨する傍らで、エリンは可哀想なぐらい真っ赤になっている。護衛の女騎士ピーマが、励ますようにその背中に軽く掌を当てていた。
ミノリルに睨まれて、国王は軽く手を振る。
「すまんすまん。まあ、そこまで言うなら、よかろう。あまり過激な発言は許さんが、常識の範囲で好きなようにやってみなさい」
「父上は、やはり……?」
「うむ、現状では宴席に出るという選択肢はない。余が出ても騒ぎが大きくなるだけだ。なに、事がおさまったら公爵と宰相には何か贈り物をするよ」
「俺も出ないことにする。世継ぎだからな、この立場ではどちらに味方する姿勢を見せるのもまずい。窮屈なことだよ」
「そうですか……。わかりました。なんとか歩み寄りの余地ができるよう、僕なりにがんばってみます」
「できれば、中立派のネギマール伯の息子も一緒に行けば、いらぬ解釈をされる余地も減るのだがな……。ツークだったか、彼はまだ復帰しないのかね?」
国王は、やや眉をひそめてたずねた。
「はい。体調がまだ戻らないようで……大事な幼馴染ですから、僕もいまは無理をさせたくありません」
「仲違いしたんじゃないのか?」
「違います。僕らは赤ん坊のときからの友達ですよ。政治に関しても、喧嘩したことはありません」
続いて、エリンがこの部屋に来てはじめて、まともに口を開いた。か細い声でゆっくりと話す。
「……とても、優しいお方です。私や、ピーマさんも、仲良くしていただいていました……」
ピーマもエリンの後で軽くうなずいている。
「ふむ……。一度、余からも見舞いの手紙を送ろうかの。わかった、では今度のパーティーには、三人で行ってくるがよい。悪いが、いろいろ勘ぐられるのでな、余から護衛をつけることはできん」
「はい、わかっています!」
ミノリルは元気よく、エリンは深々と一礼し、ピーマを従えて王の私室を出てゆく。ファーレは一瞬迷ったが、残って王たちの話を聞くことにした。
「……しかし父上、ミノリルはずいぶんしっかりしてきましたね」
そう言うカーシーは二十一歳、ミノリルとは七つ離れている。普段あまり接する機会がないのか、驚きを表に出していた。
私室に残っている側近の貴族や執事なども、その意見に賛成して笑顔になった。
「小さい頃はやる気がなくてものぐさで、母上などずいぶんと嘆いておられましたが……。変わるものだ」
「お年頃というやつだろうな。あの年頃はいろいろ考えて、大人の事情に首を突っ込みたくなるものだからな。もう少しすると落ち着いてくるのだろうが……」
「しかし、ミノリル殿下が明晰な資質をしだいにお見せになっているのは確か。将来カーシー殿下を支える大きな柱におなりになるでしょう」
側近の貴族が得意のお世辞を放つ。
「うむ、期待するとしよう」
国王もうなずき、室内はよかったよかったという雰囲気に包まれた。
そこまで見届けてから、ファーレは王子のほうを追いかけることにした。使い魔を操って壁伝いに扉まで行き、メイドが扉を開け閉めするのに合わせて廊下に走り出る。
ファーレが世界屈指の密偵と呼ばれているのは、彼女がネズミの使い魔を操り視野を共有できる特異な体質を持っているからだ。小さな使い魔は周囲に合わせて色を変える性質があり、よほどのことがないかぎり見つからない。
だが、それは特技でも祝福でもなく、呪いだ、とファーレは思っている。
狂った魔術師によってかけられた永遠の呪い。深刻なのは、その狂人が自分の母だ、ということだった。
ミノリル王子たちは私室に向かって歩いているところだった。下級貴族や官僚とすれ違うたび深く頭を下げられ、それに目を細めニコニコと応えながら進んでゆく。人がよく誰にでも優しいミノリルは、ごく自然に振る舞い王宮で人気を集めていた。
(なんの問題もないよね。この王子様が偽物なんて……ちょっと思えない。)
壁の装飾の張り出したところを使い魔に走らせながら、ファーレは考える。何かおかしなところはないだろうか。注意ぶかく観察し、何度も考えて見たが、何も思いつかなかった。
(やっぱりあたし一人じゃダメだ……お姉ちゃんの頭がないと。なんで分かれちゃったんだろうなあ、あたしたち……。)
見て報告するのがファーレの役目、整理して考えるのはファルネの役目。一日一度報告は送っているが、綿密にやりとりできない現状は、ファーレにとっては片翼をもがれたようなものだった。
(ていうか、お姉ちゃんはいまゴルと一緒に仕事してるんだよね……。ずるい。あたしもゴルと仕事したい!
そしてゴルの上に乗せてもらって、あのお馬さんごっこで遊ばせてもらうのだ。お姉ちゃんはものすごく嫌がるが……あれは楽しい。
思考がそれている間に、王子は廊下の向こうに遠ざかろうとしている。ファーレは我に返ると追いかけた。
ミノリル、エリン、ピーマの三人は黙って廊下を進んでゆく。エリンはミノリルの右手を小さな両手で握っている。ピーマ以外の人の目がなくなるやいなや、二人は手をつなぐのが常だった。
たったひとつ、ファーレがずっと不思議に思っているのは、手をつなぐ体勢になると、ミノリルとエリンはほとんど口をきかなくなることだった。二人とも表情が消え、お互いのつないだ手に集中しているように見える。ピーマはその数歩後ろから、やはり無表情でついてゆく。
正直、恋する二人ならもう少し楽しそうにしてもいいのではないか、とファーレは思う。が、なにしろファーレには恋愛のことは何もわからない。
(馴染みきったカップルって、こんな感じなのかなー? 今度おねえちゃんに聞いてみよ。おねえちゃんならオトナだからわかるよね……。)
ミノリルの私室に入った三人が優雅にお茶を飲み始めるのを梁の陰から見ながら、ファーレの思考はまたふらふらと逸れていった。
☆★☆★☆
「脱獄じゃあ! 脱獄されてしもうた……」
ブルストは嘆き悲しんだ。なんてことだろう。朝、目が覚めたら自分が牢屋に入っていた。囚人はどこにもいなかった。
恥をしのんで、報告しなくてはならない。ブルストの、兵士としての経歴は、どん底までおちるだろう。しかたない。しかたないのだ。ごまかしは、できない。ブルストは、誇りある公爵家の兵士なのだ。
だが、誰に報告すればいいのだろう。
そこに思い至ると、ブルストは困惑して考え込んだ。
いつからかはっきりしないほど、長いこと、誰かと仕事の話をしたことがない。命令されたことも、相談されたことも。
ブルストの上にいるのは、誰だろう。頭をひねっても、誰ひとり、名前も顔もうかばなかった。
仕方ない。息子に相談しにいこう。息子のギューカは屋敷で、薬を作っている。とても頭がいいやつだ。もうずいぶん会ってないから、どこに行けば会えるのかはわからないが、とにかく会いにいこう。
そう決めて、ブルストは地下牢を出ようとした。
「あら! 起きましたか、ブルストさん」
ちょうどその時、扉が開いて、メイド姿の若い女が顔を出した。たしか、ファルネとかいったか。
すごい美人だ。亜麻色というか、うすい茶色のきれいな髪を、後ろでくるくるとまとめてある。灰色の瞳に、きれいな卵型の輪郭。細い銀縁の眼鏡。すごい。賢そうで、色っぽくて、上品だ。正直、死んだ婆さんの二倍半ぐらい美人だと思う。いや、三倍あるかもしれない。婆さんは怒りそうだが、もう死んでるからな。
でも、この人は、あの逃げた囚人の仲よしなのだ。信用できない。
「…………」
「ん? どうしましたか?」
どうしましたか、もないものだ。ブルストは怒りたくなった。
「……ああ! ゴルがいなくなったのを、気にしてるのね」
「あんたの手引じゃろう……!」
「いえ、あの、えーと……あのですね、ゴルはまた戻ってきますから。ちょっと用事があって出かけただけで」
「囚人は、ちょっと用事があって出かけたりせん」
「う、それはその通りなんですけど。……まあ、ゴルは特別ですから、ね。……ああ、そうそう、これを預かってます」
美人メイドが差し出したのは、干からびた紐のようなものが数本だった。
「ほら、例のイカです。塩気がきついので、いっぺんにたくさん食べちゃダメですよ。ゴルがそう言ってました」
「おお……!」
すっかり大好物になった、あのイカの干物だ。贈り物自体も嬉しいが、それ以上に、あの囚人の気持ちが嬉しい。
「あと、チェスの本も何冊か、預かってます。……あいつ、どうやってこれを手に入れたんだろう……?」
メイドが、本を差し出す。
「おおお!」
なんという気づかい。
やっぱり、あの囚人は、人の気持ちがわかる奴だと思う。
そんな奴が、ブルストに黙って脱獄するだろうか?
「脱獄は……してない?」
「ええ、してませんよ。また戻ってくると、ゴルはたしかに言ってました」
「……そうか。なら、いい」
ブルストは牢の奥に戻ると、椅子に腰掛けた。チェスの本をぱらぱらめくる。すごい。これで、あと数年は充実した時間がすごせそうだ。
「納得していただけましたか。では、わたしは仕事に戻りますね」
メイドは優しく微笑むと、軽く一礼する。ブルストもうなずき返したが、ひとつ、言っておかなくてはいけないことがあるのに気がついた。
「あの囚人は見どころがあるやつだが、惚れたら苦労するぞ」
「惚れません!」
メイドは大声で否定すると、憤然とした足取りで階段に消えていった。
第九話は十一月十九日中に投稿予定です。