暗闇の闘争
「これは、アレックス閣下」
広場に続く大通りに、臨時の警吏詰め所が作られていて、その前を通った時にアレックスはそう呼び止められた。
「おう。マーティン。なんだ、今日は夜警当番か」
「はい。明日の朝までの徹夜勤務です」
マーティンと呼びかけられた若い騎士は、そう丁寧に返答した。
警吏は本来、軍とは少し違う警邏隊という職種だが、何せこの時期は人手が足りず、軍の騎士達も総動員されて街の警備に当たっている。特に、こういった詰め所や、街壁警備などに、軍の騎士達が動員されていた。
「そちらは…」
「客人だ。マルシェを案内している」
「そうですか。ご苦労様です」
マーティンは、すっぽりとフードを被ってアレックスの脇に立っていたリサにも、丁寧に挨拶をした。
「何か、特別面白い物を売っているストールとかは?」
「そうですね…大方例年とは変わりないですが…今年は、天使の子供を見せてくれる見せ物小屋があるそうですよ。あ。少し暖まって行かれますか?ちょっと今、落とし物を届けにこられたご婦人がおられますが…中へどうぞ」
彼はそう言って、二人に中に入るように促した。
詰め所の中は比較的広くて、奥に作られた暖炉で部屋中が暖められていた。
「天使の子供?」
「えぇ。まぁ、こちらへどうぞ」
促されるまま、二人は詰め所の奥へと足を運んだ。
「なんでも、ガラス瓶に入った子供だそうでしてね。ある神父が神から賜った物なんだそうです。でも地上の汚れた空気に触れてすぐに死んでしまって、それで不腐の液体に入れて保存しているそうなんですよ」
「そんなバカな」
真剣に天使の子供の話をしているマーティンにアレックスは半ば呆れたような調子で応えた。
「いや、でもほんとみたいなんですよ。なぁ、ケイン」
マーティンは同僚の騎士に話を振った。
「あ、えぇ。なんでも一度見るのに10万コルネットも取られるとかで。みなからお金を集めて、大聖堂のビショップが代表で拝謁したらしいんだけど、本当に天使の子供だったって言うんですよ。このくらいの瓶に入っていて、ちゃんと羽も生えていた、って」
ケインという若い騎士は、そう言いながら手で、20センチ位の瓶の形を示してみせた。
「その噂を聞いて、街の金持ち達が、こぞって見に行っているそうです。なんでも、拝めば病は治り、幸せになれるとかで。町外れのオランジュリー広場の見せ物小屋ですよ」
マーティンは散らかっていたテーブルを片づけて、空いていた椅子を2脚揃えて持ってきた。
「どうしました?」
入り口付近で立ち止まったままのリサを振り返り、アレックスはいぶかしげに彼女に尋ねた。彼女はじっと、老婆と担当の警吏とのテーブルの間におかれている物に視線を注いでいる。
「すいません。それ…」
リサは、警吏に話しかけていた。
「あぁ、これですか?」
「ちょっと、見せてもらって良いですか?」
「えぇ、どうぞ」
警吏から差し出されたその金属を手にとってまじまじと見つめた。5センチくらいの小さなその十字架のペンダントは、ルミナリオの宗教儀式で使うロザリオのようだった。創造主の神と自然の精霊とを崇拝するルミナリオ教は、この世界の多くの人が信仰している宗教で、ドレイファスでもカイザースベルンでも、もちろんキールでも国教とされている。その儀式には、聖なる光を示す十字架をかたどったロザリオが用いられる。リサが手に取ったそれは、そのロザリオのようだ。だいぶ年代物らしく黒く汚れていて、鎖はすり切れて途中で切れていた。
「この方が、通りで拾われたそうなんですよ」
「通りで?」
「はい。突然飛び出してきたみすぼらしい身なりの少年が、落としていったんです。呼び止めたんですが、行ってしまって…」
「まぁ、だいぶ古い物みたいですし鎖も切れちゃってますから、いらなかったのかも知れませんが…」
落とし物として調書を作っていたその警吏は、半ば投げやりな言葉でそうリサを見上げた。
しかしリサは真剣だった。何度もひっくり返したりしながら、食い入るように見つめている。
「それ、なんです? 何か気になることでも?」
「これは、ゲールクロスです」
「ゲールクロス?」
聞いたことのない単語に、アレックスはリサの瞳をのぞき込んだ。
「三百年前に滅んだとされる、ゲール民族の紋章ですよ。ここに、ちゃんとゲール文字も彫られている」
彼の疑問にリサは即座に応えを告げて、老女の方に向き直った。
「奥さん。これを落としていった少年のこと、もう少し教えてもらえませんか?」
「それは構いませんよ」
「そして、できれば、拾った場所まで案内していただきたいのですが」
リサフォンティーヌとアレックスは、老婆を連れ立って再び街に出た。マーティンと、巡回に出る予定だった警吏も他に二人同行している。老婆が少年と出会ったという運河近くの路地をめがけて石畳を行く。
「ということは、かなり身分の低そうな格好だったと…」
「えぇ。薄汚い、ボロみたい服を着てねぇ。なにより素足だったし」
「この寒いのに素足? あり得ない、そんなこと」
いくら身分の低い使用人でさえ、この寒空の下、素足で街を歩くなんてことはあり得なかった。カイザースベルンでは奴隷は禁止されており、使用人に対してそのような不当な扱いをすることさえ禁じられていた。もちろん、ドレイファスやキール、スードラなど他の大陸の国々でも同様だった。
「マーケットに来ている商人の関係者でしょうか?」
マーティンがアレックスに質問した。
「しかし、いくら隣国からの入国者だとしても、そんな奴隷同様に扱う人間を連れてきたりはしまい。しかも子供だという」
最後の言葉に、あからさまな不快感を込めて彼は応えた。
「ほら、あそこですよ。あそこの路地を、ものすごいスピードで走ってきたんですよ」
角を曲がるとすぐに、老婆は、先ほど自分が歩いてきた道を指差しながら、しわがれた声で言った。
「それでどちらに行きました?」
「あそこの石段から運河の方へ。運河の脇の道を走って行きましたよ」
リサは橋のたもとに駆け寄って、下を流れる運河をのぞき込んだ。薄暗い通りだが、細い路地が運河伝いに伸びている。
その時。
「いたぞ!捕まえろ!」
路地の前方の薄暗がりから、男達の怒鳴り声が聞こえてきた。そして、ドタバタと石畳を走る音。
リサは、反射的に走り出していた。
「追うぞ、マーティン。向こうへ回り込め」
アレックスはマーティン達警吏に指示を出すと、自身はリサを追って暗闇に走り出していた。
運河沿いの細い道を、ボロを着た少年は必死に走っていた。それを追っていたごつい男達は、二手に分かれて、両側からその子を追いつめていた。
少年は、薄暗い道を懸命に走った。しかし、子供の足で逃げ切れるわけもない。程なく男達に追いつめられていた。
「もう逃げられないぞ。まったく、手間ぁかけさせやがって!」
ドスの利いた低い声が、夜の闇の中に響いた。
「ほら、盗んだ物を出せよ」
男がそう言って詰め寄ると、少年は小さく首を振りながら後ずさりした。運河にかかる水門の部分は半円形に少し広くなっていて、少年はその狭いレンガ造りの壁へと追いつめられていく。
「いつまでもふざけていると痛い目に遭うぞ」
男がさらに追いつめて、そして少年を羽交い締めにした。
「ったく。ふざけたガキだ。ほら、そいつをよこせ。放せよ」
男に羽交い締めされても、少年は胸に抱えた袋をギュッと握りしめていた。男は、それを強引に奪おうと力を込める。
「痛っ!」
男が吐き捨てる。少年が、男の腕に思い切り噛みついたのだ。男の腕が緩んだ一瞬の隙をついて再び走り出した。
その背中を、男の剣がいきなり袈裟懸けに斬りつけていた。
少年は、声も上げずに、人形のようにその場に倒れ込んだ。
「兄貴」
路地の反対側から追いかけていた一団も合流して、その場に倒れ込んでいるボロ雑巾のような少年を一瞥した。
「ブツを奪えばガキには用はねぇ。親方もそう言っていた。後は、このガキをそれとわからねぇように処分しちまえばいい」
男は、少年の血が滴る剣をカチャリと音を立てて握り直し、舌なめずりをした。
「ったく、手間かけさせやがって、ふざけたガキだ。こんな役立たず、いつまでも飼っているからこんなことになるんだよ。親方も、早々に処分しちまえばよかったのによ」
男は罵声を浴びせかけながら、少年にとどめを刺そうと剣を構えた。
それが振り下ろされる寸前。男の手から、剣が宙を飛んでいた。
「な、何?」
男は腕を切られていた。
それを手で押さえながら、目の前の黒い影を凝視した。上から舞い降りてきたその黒い影は、少年と男達の間に立ち、その手には、冴え冴えとした剣が握られていた。
「てめえ!!」
腕を切られた男が、獣の咆吼にも似た叫び声を上げた。
「野郎ども、そいつを叩き切れ!」
叫んだ声は、怒りに震えていた。
男達は一斉に剣を抜き、黒マントの影に斬りかかっていた。
勝負は一瞬だった。
男達の間に、黒い風がさっと吹き抜けた。
ある者は剣を持つ手の腱を、ある者は踏み込んだ足を斬られて、その場にうずくまっていた。
「てめぇ、よくもやりやがって…」
「この野郎…ってぇ」
「いてぇ…」
呻き声をあげながら男達はその場を転げ回る。斬られた傷口からは、どんどん出血が続いていた。
平然とした様子で黒い影は背後に残った数人の男達を振り返った。黒マントのフードが外れて、柔らかな金髪がのぞいていた。少し離れたところから差し込む外灯の灯りが彼女の鋭い眼光を照らし出していた。男達は、その眼光に死の影を見た。
「逃げるぞ!」
誰からともなく叫び声が上がり、後ろに後ずさっていく。
「ぐわっ」
方向転換して逃げ去ろうとした一団の背後から、新たな呻き声がいくつか響いた。
「逃がさぬ」
逃げだそうとした男達の前にもう一つの影が立っていた。そちらも抜剣している。
「閣下!」
反対から回り込んでいた警吏達が走り寄ってくる。応援を呼んだのだろう。反対の路地からもバラバラと人の走り寄ってくる気配がした。
「こいつらを捕らえろ!」
「はい!」
アレックスの命令に、警吏達はその場の全員を捕縛して、呻いている男達にも手際よく縄を打っていく。
「大丈夫ですか?」
リサフォンティーヌはすでに剣を鞘に収め、斬られた少年の元にうずくまっていた。
「それほど深くはない。大丈夫だろう」
答えは自分のことではない。足下に倒れている少年のことだ。
少年の背中をなでるように触っていたリサの手が一瞬止まり、
「アレックス…」
と小さく呼びかけた。声が少し緊張していた。
「これを…」
リサは破れた服の間から少年の肌をほの暗い光に照らし、指先で感じた違和感を目で確認した。
「う…」
アレックスが、言葉を飲み込んだ気配がした。
よほど切れない剣だったのか、男の腕が悪かったのだろう。傷自体は大して深くはない。
「急いで医者に見せないと」
リサは自分のマントを脱いで少年に被せ、少年を包みこむようにした。
「軍病院がすぐそこだ。俺が」
アレックスはそう言って、リサの代わりに少年を抱き上げた。