ソレイリューヌマルシェの賑わい
ボロ雑巾のような薄汚い麻のスモッグを被った少年が、石畳の路地を走っていた。
裸足だった。
まったく手入れのされていない肩くらいの長さの髪はボサボサに乱れて、汗で額に張り付いていた。黒く汚れた小さな手で、しっかりと胸元に何かを大事そうに抱えている。
イルミネーションで明るく照らされている通りも、一本路地に入れば夜の闇に支配されている。少年はその暗がりを選んで走っているように思われた。誰かに追われているのか、時折後ろを振り返りながら、息を切らせて必死に走っている。何度か転んだようで、すりむいた膝に血が滲んでいた。
緩やかに流れる運河の上に架かる橋を、一人の老女が渡っていた。マーケットからの買い物帰りで、手に提げた小さな籠の鞄から、ツリーの飾り用の青いガラス玉がのぞいている。
路地を曲がって橋の袂に飛び出てきた少年は、スカーフを被ったその老女とぶつかりそうになって、慌てて身をひねった。
チャリン
固い金属音を立てて、小さな何かが石畳の上を転がった。
「おや」
ちょうど橋を渡り終えたばかりの老婆がそれに気がついて、
「ちょっと、坊や。落としたよ」
脇を走り抜けていった影に呼びかけた。
「坊や」
少年は、少し行ったところでその声に気がついて振り返り、一瞬の逡巡の後再び走り出した。
「ちょっとお待ちなさい。落としたよ! 落としましたよ」
老婆は先ほどより少し大きな声でもう一度呼びかけたが、少年はもう二度と立ち止まることなく、橋のたもとから運河の縁を巡る道へと降りていき、すぐに姿が見えなくなった。身をかがめて足下のそれを拾いあげ、
「これは、どうしたものかねぇ」
人の良さそうな老婆は、困ったようにそう呟いた。
*****
「すごい人出ですね」
街中の軍の詰め所に馬を留めて、歩いて中心街に入ったリサは、マルシェのあまりの賑わいに感嘆の声を漏らした。キョロキョロしながら、行き交う人達を眺める。
「えぇ。この時期は、各国から人が集まりますからね」
ぴったりと横を歩きながら、アレックスが応える。
噴水のテラスで「退屈しのぎにマルシェを歩いてみましょう」、と彼がリサを誘い、今こうして、二人は街の中を歩いているのだ。
王宮内で着ていた正装から、二人とも私服に着替えている。リサは、こういう時のためにと、こっそり軍服と私服をドレスのケースに忍ばせてきていて、それが早速役に立っている。パークデイルの目を盗んではさすがに剣までは持参できなかったが、部屋の窓から抜け出して待ち合わせ場所に行くと、アレックスがフード付きの軍用マントと剣とを持って待っていてくれたのだ。後は王子が「急用でこの者と一緒に街に出る」と門番に告げて終了だ。誰にも怪しまれずに、二人は馬に跨って街に下りてきた。
「ソレイリューヌのマルシェの時期にカイザースベルンを旅したことはあるのですが、やはり王都の賑わいは一番ですね。羨ましい」
「へぇ…いらしたことが? どちらへ?」
「イーストゲートです」
「あぁ。東の国境近くの」
「えぇ、国境に近いだけあって、ドレイファスと混ざったような独自の雰囲気でした」
リサは、まだドレイファスにいた頃に、バルディスと共に何度か、国内やカイザースベルンへの旅をしているが、その時に立ち寄ったのがイーストゲートの街だ。オーディンの森に続くハイランドという高原の端の街で、貴族の別荘などが多い。カイザースベルンとドレイファスが戦争をしていた頃は、何度か激戦の舞台になったところでもある。そのため、両方の国の文化が混じり合った、独自の文化圏が形成されている。
「それは羨ましいな。俺は、ソレイリューヌの時期には行ったことがないよ。ハイランドには別荘があって、子供の頃は、夏の間にはよく滞在してましたけど」
アレックスはそう言いながら「あ、こちらに行きましょう」と人混みの中、リサをエスコートする。
街は浮き足立っていた。
この季節は、大陸の多くの国が一番賑わいをみせる季節でもある。
キールもドレイファスも、そしてもちろんカイザースベルンも。
12月23日から3日間に渡り開催されるソレイリューヌの祭りのために、1ヶ月前からマーケットが街を彩るのだ。
ソレイリューヌの祭りは、太陽の復活祭であり、この時期もっとも力が弱くなる太陽にパワーを取り戻してもらうように捧げものをする祭りだ。どの街でも、広場の中央に針葉樹の大木で作られた「アルシエル」が立ち、その下に人々が集って歌って踊り、心臓を意味する真っ赤なリンゴと血を意味する赤ワインを捧げる。
「すごい大きなツリーですね」
二人は広場に出て、巨大なアルシエルの前に立った。フードを少し上げて、ツリーのてっぺんまでを眺めた。
「今年のは18メートルで過去最大だそうです」
アルシエルの木は、いくつものガラス玉や動物や家のおもちゃなどで飾り付けられている。下で絶えず焚かれている焚き火の光や、祭壇のキャンドルの灯りを受けて、ガラス玉がキラキラと輝いて見える。巨大なツリーを支えるために頑丈にロープで固定されていて、木の根本には、盛り土がされ、その隅にお供え用の祭壇が作られていた。
「本当にきれい!こんな巨大なツリー、初めてです。マロニアのは、3メートルくらいですから。それが、広場に何本も立つんです」
「それはそれできれいでしょう。俺は、ドレイファスのソレイリューヌは見たことありますが、キールのはないんです」
「そうですね、ツリーの間を巡るのは、結構ワクワクします」
リサは、お供え用のワインをアルシエルの根本の土にかけた。
キールのアルシエルは、小さなツリーを何本も広場に立てて、その間を歩いてお祈りするような仕組みになっている。ドレイファスはカイザースベルンのように巨大なツリーを立てる方式だが、10メートルがせいぜいで、こんな大きなツリーが立つのを見るのは初めての経験だった。
祭壇への貢ぎ物が済んだ後、二人はマルシェの中へと足を踏み入れた。
街で1ヶ月に渡り開かれるソレイリューヌマルシェと言われるそのマーケットは、家庭でソレイリューヌを祝うためのモミの木や、アルシエルのためのオーナメントや捧げものを販売するストールが軒を連ねる。その街独自のサングといわれるスパイス入りワインやパウンドケーキなどを売る露店もあったり、歌や踊りを披露する巡回の旅芸人達が来たりして連日にぎわっている。特にソレイリューヌの祭りが始まる7日前からは、深夜まで店が開く。多くの人々が、寒い中マルシェを歩き、屋台の前で談笑する。
特にカイザースベルンのマルシェは、大陸一の大国であると言うこともあって、熱狂的な賑わいをみせる。この時期、どの宿も満員御礼で、学校の寄宿舎までもが空き室を解放したりして対応するのだ。
「これ、知ってます?」
アレックスが指差した屋台を見て、リサは「いいえ」と首を振った。
「じゃぁ、ひとつ」
素早く2つ注文して、ひとつをリサに差し出した。
「エクリプスって言うんです。まぁ、要するにただのドーナツなんですが、この時期にしか作らない、独特のスパイス配合でね。結構不思議な味がするんです。ラム酒漬けのドライフルーツなんかがふんだんに入ってます。この街の名物ですよ。やはりディアトゥーヴに来たら食べて帰らないとね」
リサは、手渡された白い物体をまじまじと見た。半月がだいぶ膨らんだようないびつな形をしたドーナツの生地の上に、白い砂糖がふんだんにかけられている。
「本来は、半月から徐々に満ちていく段階の月。13夜の月をモチーフに作られているんですよ。太陽も月のように徐々に力を取り戻すように、ってね」
「へぇ…おもしろい」
「食べてみて」
「えぇ」
二人は歩きながら、そのいびつな形のドーナツを口に運んだ。予想よりもしっとりして香りがよい。
「ほんと。変わった味ですね。でも思ったよりも甘くなくて美味しい」
「それは良かった」
リサが気に入ったと言ってくれたので、アレックスはうれしそうに微笑んだ。
「ドレイファスやキールのソレイリューヌ名物はなんです?」
「ステラボンボンというのを作りますね」
「ステラボンボン?」
「星の形をした砂糖菓子です。中にアニスの種を入れるんです」
「へぇ…」
「これはドレイファスでもキールでも同じですね。小瓶が、街ごと絵柄が違うんですよ。毎年違うから、それを集めている人もいます。キールオリジナルというと、やはりドラゴンズハートでしょうね」
「あ、それ俺も知ってますよ。ハートの型に入れて焼いたアップルプディングでしょう?」
「そうそう!」
すっかりドーナツを食べ終えて両手の砂糖をはたきながら、二人は大きく頷きあった。
晩餐会で豪華な食事を終えたばかりの二人だったが、案外いろいろな物が『別腹』に納まった。ソーセージやキッシュなど、庶民が口にしている食べ物は特にリサのお気に入りで、サングのカップを片手に持ちながら、屋台を食べ歩いた。
「リサ、ちょっと待っていて下さい」
屋台前のテーブルで、各街名物のソーセージを食べ比べていた途中で、突然思い出したようにアレックスが声をかけた。
「なに?」
「俺、大事なこと思い出しました。ちょっとここで待っていて下さい。すぐに戻りますから」
彼は爽やかな笑顔を浮かべて、リサの返事を待たずに人混みの中へと消えていった。
程なく彼は戻ってきた。別段変わった様子もない。
「すいません、お待たせして」
アレックスは、すっかりぬるくなってしまったテーブルの上のサングを一気に喉へと流し込んだ。それからポケットをまさぐって、
「はい、これ」
と、小さな金色の塊をリサの手のひらに乗せた。
「オルドゥグラン。金のドングリです。ソレイリューヌの時に男性からこれを貰うと、幸せになれるんですよ」
「これをわざわざ?」
「そう。そこのイグラシオ教会でしか扱ってないんです」
広場の向こうに少しだけ見えるイグラシオ教会の建物を指差しながら、彼は微笑んだ。
「ありがとう…」
リサは手の平に乗った小さなドングリをコロコロと転がした。可愛いキャップを被ったドングリは、ころんとしていてとても可愛かった。
「ごめんなさい、なんだかいろいろ頂いてばかりで」
「そんなことないですよ。こんな屋台のジャンクフードばかりしかご馳走してませんから」
皿に残っていたソーセージをスティックで刺して口に運びながら、申し訳なさそうに笑った。
「ソレイリューヌの時には、女性は男性に何を贈るの?」
「うん?」
「このオルドゥグランの代わりに、何か」
「何も」
テーブルの上の空いた皿を手早く重ねて片づけながら、
「女性からはお礼の言葉と心を。それで充分なんです」
辺りを一気に花園にしてしまうかのような笑顔を浮かべて、
「さぁ、行きましょうか」
とリサを促した。