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薔薇を抱く獅子

 リサフォンティーヌは、自分とバルディスにあてがわれた客室のベッドに腰掛けてじっとしていた。先ほどまで逡巡していたいろいろ、もやもやとした黒い雲はすっかり晴れている。その代償に支払った腕の傷は、出血量こそ多くはないが、じわじわと鈍い痛みを発していた。

「まだまだだな、私も」

 王として未熟な自分に、リサはため息をついた。

 固いノックの音をさせてから、バルディスが部屋へと入ってきた。

「アレックス?」

 その後ろから入ってきたアレックスの姿を見て、リサは驚きの声を上げた。

「よろしいですか?」

「え、えぇ」

「怪我をされたとおっしゃるからどうされたのかと伺えば……切創だそうですね」

「あぁ、いえ……すみません。ご心配おかけして」

 心配そうに声をかけてくれるアレックスに、彼女は小さな声で「申し訳ない」と謝った。

 バルディスはベッドの横に椅子を引き寄せると、そこにドカッと腰をかけた。

 それから、サイドテーブルに置いた薬箱を開いて、彼女の左腕を引き寄せた。リサは、抑えていた右手を離して、彼の手に自らの腕を委ねる。赤く染まったハンカチをはずして傷を露出させる。

「しかも、結構切ってますね」

 彼の手元をのぞき込んだアレックスが心配そうな顔をした。

「大丈夫、かすっただけです」

 彼を心配させまいと、リサは精一杯にこやかに微笑んだ。

「っつ……」

 その顔が痛みに歪んだ。消毒液が滲みたらしい。反射的に腕を引こうとする。

「もう少し。我慢して下さい」

 彼女の左腕をがっちりと握っているバルディスは、容赦なく、消毒液を染みこませたコットンで彼女の腕の傷跡を拭っていく。

「いつもそのような感じなのですか? お二人は」

「すみません。ご心配おかけして」

 今度は、バルディスが代わりに謝った。

「切創だというので、そうだとは思いましたが……」

 アレックスは苦笑を浮かべながら二人の顔を交互に見た。

「護衛のはずが、怪我をさせてしまっていたら本末転倒ですな」

 傷の上に化膿止めの軟膏を塗って薄い傷用シートをその上に乗せながら、バルディスは落ち着いた声でアレックスの方に軽く顔を向けた。一瞬の間を空けてから、

「しかも、自分でね……」

自嘲気味にそう言葉をつなげた。

「私が避け損なっただけですよ。痛い目に会わないと学習しない(たち)のようです」

 リサは、まるで人ごとのようにからりと笑った。

 アレックスは、彼女の変化を感じていた。表情にいつものような輝きが戻っている。ほんの数十分前まで愁いに沈んでいた彼女の姿との違いを、改めて感じ取ったのだ。少しも変化がないと思われた彼女の様子も、やはりこうして比べてみると明らかに違っている。心の奥にくすぶっていた何かをすべて吐き出したような、そんな軽やかな彼女が目の前にいる。リサのことを幼い頃から知っているバルディスが、彼女の変化に気がついたのは当然なのだ。

「まじめなんですよ。陛下は。いつも、なんでも一人で抱え込んでしまわれます。誰かが傷つくくらいなら自分が傷つく方がいい、と。そもそもこうして剣を握っておられるのだって、誰かが命懸けで自分を守ることがないようにと」

 包帯を巻きながら、バルディスは低い声で呟いた。

「バルディス卿、あなたの存在がだいぶ支えになっているようですね。俺は、彼女の苦しみに気がつかなかった」

 アレックスの言葉は、心からの感想だった。

「付き合いが長いですからね。でも、俺の役割はもう終わりでしょう。俺に出来るのはこの程度のことです。我々が陛下を外からお支えしているだけでは、不十分なのです。命を捧げて陛下のお命をお守りすることはできても、それだけでは、キールの王としての陛下のお心を支えられない。これからの陛下には、そのお心を支えて下さる優しさが必要です」

「バルディス?」

「終わりましたよ、陛下」

 黒騎士は、怪訝そうに名を呼んだ主の顔を何事もなかったように見上げる。

「ですからアレキサンドロス殿下。陛下を……リサフォンティーヌ姫を、頼みます」

 立ち上がったバルディスは、王子に軽く頭を下げてドアの方へ出て行こうとする。

「バルディス?」

 硬い声でリサがもう一度呼び止めた。

「フレデリック卿が、上着を一式手配してくれていますから受け取って参ります。そのままでは、食事に行けないでしょう」

 ドアに手をかけた状態で振り返って、「すぐ戻ります」と二人に頭を下げてバルディスは廊下へと出て行った。

 室内には、偶然にしてはできすぎたタイミングで、リサとアレックスが取り残された。

 気まずい沈黙が二人の間に生まれた。

「やはりバルディス卿には敵いませんね」

 沈黙を破って、アレックスが小さく苦笑した。

「あなたのことを誰よりも大事に思っている」

「まったく、大したことないって言っているのにね」

「俺では、リサ、あなたの助けになりませんか」

「アレックス?」

「俺では、あなたの支えにはなれませんか?」

 リサは、気まずさに堪りかねて立ち上がった。

 アレックスが彼女の前に立った。彼の、吸い込まれそうに澄んだ瞳が上から見下ろしていた。

「アレックス……」

「俺は、あなたのために生きたいと思っています。あなたがキール王リサフォンティーヌだと知ったあの夜から、俺は、ずっとそう考えてきました。あなたがキールの王だからではない……俺は、あなたという一人の人間に惚れたんです。俺ではまだ頼りないかも知れませんが、いつかきっと、あなたに心を開いていただけるような、あなたに信頼していただけるような男になります。ですから……」

「アレキサンドロス殿下」

 アレックスが、さらに一歩歩み寄って、手を伸ばして彼女の右手を握った。

 リサは、一旦伏せた目を静かに上げる。

「そのようなお言葉、なんともったいない……私は、あなたにそんな風に思っていただけるような立派な人間ではありません」

 胸の鼓動が嫌に早くなって耳に響く。

「私は……悩んで戸惑って、いつも逃げてばかり。私は臆病なのです。ですから、あなたに甘える勇気を持ちませんでした……」

 リサフォンティーヌの青い瞳が、真っ直ぐにアレキサンドロスの瞳を見上げていた。

「リサ」

 アレックスの右手が、優しくリサの背中に回される。

「でも私も、あなたに、ずっと側にいて欲しいと思っています」

 二つの視線はぶつかって絡み合って、融合した。

 アレキサンドロスは、無言でリサフォンティーヌの体を抱きしめて、そして優しく口づけを降らせた。

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