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闇に咲く

 船がポート・アーベンの基地内に入ると、ポート・アーベン駐留軍の司令官が直々に出迎えに来てくれていた。冷たい海風が皆の髪を揺らす。一年で一番昼の短い時期だ。まだ3時頃だというのに、すでに日は地平線に沈もうとしていた。

 水面すれすれに飛ぶラルスの群れが、ピューピューと甲高い声をあげながら森の方へと向かっていく。

 船からおろされた小さな布の塊は、小さな棺に入れられ基地内の礼拝堂の祭壇に静かに安置されている。

 ほどなく神職が呼ばれて、夕食前に小さな葬送のミサが開かれた。基地内のほとんど全ての騎士がそのミサに出席した。

 オレンジ色のキャンドルの明かりが、冷え冷えとした堂内を仄かに照らし、騎士達の長い影を石畳の堂内にゆらゆらと映している。

「リース!」

 黙って礼拝堂を出ていくリースを追いかけようとしたアレックスの腕を、バルディスが引いた。

「バルディス卿……?」

 キャンドルの陰になって、彼の表情は読み取れない。ただ無言でアレックスを見下ろして、小さく、しかし力強く頷いた。

「あ、あぁ……」

 アレックスは、小さく返事をして道を譲った。

 ここから先は、まだ彼の踏み込める領域ではない。礼拝堂を出ていく大きな背中を、アレックスは黙って見送った。


   *****


 礼拝堂のすぐ脇の塔を上ると建物の屋上に出られる。そこからは、ポート・アーベンの港が一望できる。前方を海、左手を大河に挟まれた位置に立つ基地のため、実に視界幅の200度以上が水面で覆われる。

 少し先の岬の突端に灯台があって、左舷標識を示す緑色の光が、海に向かって放たれていた。

 リサフォンティーヌは、海が望める西側の石塀の上に頬杖をつき、プラタ川から大海原へとわずかずつ流れていく輸送船の明かりを目で追っていた。夜の漁に出かけるのだろう。集魚灯を付けた船の群れが、その向こうに見える。黄泉の国への門が閉じていくかのように、オレンジの光が徐々に消えて空と海を繋いでいく。現実感を見失いそうになる海は、ほんのわずかな明るささえも残さず、闇に沈もうとしていた。

 屋上の四隅に立つガス灯が、物憂げな彼女の姿をかすかに照らし出していた。

 不意に、一陣の風が光の前を横切った。

 キン!

 激しい火花が目の前に散る。

 背後の殺気に反射的に体が反応し、鍔元でそれを受け止めていた。

 足音も立てずに彼女の背後に回り込んだ影が、いきなり上段から斬りつけたのだ。石畳を歩いて彼女の背後で剣を抜くまで、まったく気配はなかった。

 剣を抜くと同時に放たれた殺気に、リサは本能的に自身の剣を引き抜いて応じた。振り向きながら、その反動でなんとか相手の剣を防ぐ。防がれることを想定していたのか、間髪入れずに次の剣戟が降ってくる。

体重の乗った重い剣だ。

 リサは体を入れ替えて切っ先をかわしながら、右下から切り上げる。刃同士がぶつかり合いギリギリと音を立てる。

 黒い影は、受け止めたリサの剣をそのままぐっと押し込んでくる。強引に体ごと間合いを詰めて、リサが怯んだ隙に思い切り横に薙いだ。

 咄嗟に横に飛び退いて切っ先をかわそうとした彼女の左腕を、影の剣先が捉えて一文字に切り裂いた。

「っつ」

 その一瞬の隙に容赦なく2歩踏み込んで、左上段から斬りおろす。

「バルディス?」

 刃を咬み合わせて、リサはようやく呼びかける余裕を得た。灯りを背にした彼の表情が見えない。いきなり背後から斬りつけられ、彼女は混乱していた。

「いったい、どうし……」

「問答無用」

 低く、夜の闇よりも更に深い腹に響くような声でバルディスは冷たく言い放ち、手首を返してリサの剣をはねのけると、言葉の通りに問答無用で斬り込んできた。

 リサは、後ろに下がりながら彼の剣を受けるのが精一杯だ。

 キン

 キン!

 キンキン!

 冴えた金属音が、夜の風に乗る。

 キン!

 カキン!!

 ぶつかり合うたびに、火花が飛び散る。

 リサは混乱していた。事態を受け入れられないまま、間合いを取ろうと後ろに下がる。バルディスの剣はそれを許さず、前へ前へと切り込んでくる。

「くっ!」

 唐突に前足を払われて、リサはその場に片膝をついた。

 ギリッと奥歯を噛みしめて、バルディスの重い剣を体に触れる寸前のところでようやく防ぐ。

 体中に力が入る。全力で押込められる剣を、眼前で必死に受け止める。

 先ほど斬りつけられた左腕の剣跡は、厚いコートと軍服、そしてインナーまでをも紙のようにあっけなく切り、皮膚にまで達していた。腕に力を込めればこめるほど、一文字に走った線のような傷口から、血がじわじわとしみ出してくる。

 彼女の細い腕では、全力で体重を乗せてくるバルディスの剣を受け止めきることはできない。

 徐々に下へと押し込められていく。

 彼の瞳は鋭く銀色に輝き、獲物を狙う鷲の目をしていた。相手の命を奪うことに対する覚悟。本気で斬るという意志が、体中から殺気となってあふれ出していた。

 その視線を受け止めることができずにリサは目を閉じた。

 (このまま時が止まってもそれでいい)と、リサは思った。自分の人生がここで終わっても、それはそれで。

 港に入ってきた船が、大きくひとつ汽笛を鳴らした。その時、

「お前が死んだら、誰が世界を変えるんだ」

 腕にかかる圧力は少しも揺るぎないが、それ以上に揺るぎない力のある声が、彼女の上に降ってきた。

 リサは慌てて目を開けた。

「俺になら切られてもいいと、今お前はそう思ったな」

 銀色の瞳が、彼女の瞳の中から、逃げようとしていた彼女自身を引きずり出そうとしていた。

 深い暗闇に沈み込もうとしていた彼女を、強引に引っ張り上げようとしている。

 いや違う。

 全てを忘れ去る光の彼方に逃げ込もうとしているところを、苦しみ蠢く闇夜の現世に引き留めようとしていると言うべきなのかも知れない。

「お前が死んだら、誰があの子達の悲しみを伝えてやれるんだ。お前がやらねば、誰がその悲しみに報いてやれるんだ。お前はキールの王だろう。龍の後継として、キールを昔のように強い国にするんじゃないのか? 世界の秩序を守れるほどに強い国に、戻すんじゃないのか? そのためにお前は、剣を握っているんじゃないのか!」

 最後の言葉を叫ぶように言い放ち、一気に両腕に力を込めた。

 シャーッー!!!!

 風を切るような金属質の固い音が闇に響いた。

 低い位置から、リサの剣が黒衣の騎士を捕えようと宙を斬る。

 オレンジ色の火花が、激しく海風に舞う。

 数度、剣同士が擦れ合う音が聞こえて、神業のような早さで剣を返し、リサの剣がバルディスの剣を逆に上から押さえつけていた。

 そして、まるで羽のような軽やかさでリサは大きく後ろに飛び退っていた。

 間合いの外へと舞い降りた彼女を、バルディスはもう追わなかった。何事もなかったように踏み込んでいた足を戻す。

 バルディスは、静かに剣を鞘に収めた。

「ありがとうございます」

 構えを解きながら、リサが小さく頭を下げる。

「私は、大切なことを忘れるところでした」

「あなたには、やらねばならないことがある。立ち止まっている時間はないはずです。あなたはまだ、死ぬわけにはいかない人です。無駄なことに神経を向けていると、このくらいの斬り合いでも命を落としますよ」

 バルディスはリサの元まで歩いてきて、その足下に跪いた。

「ですから。この怪我のことは謝りませんよ」

 彼女の左手の甲を、流れ出した赤い血が伝って地面に落ちた。

「分かっています」

 こういう形でしか愛情を表現してくれない厳格な師匠は、いつも一番近くで自分を守ってくれる忠臣でもある。

「失礼します」

 リサの腕を取って、袖口のボタンをはずしてまくり上げる。

「軽く触れる程度を予想していたのですが、思った以上に深く切ってしまいましたね」

 冷静に傷の程度を確認してから、

「すみ……」

思わず謝りそうになった言葉を慌てて飲み込んで、バルディスは自身の上着のポケットに手を入れた。

「いつものあなたなら、余裕でかわせる間合いでしたよ」

 ポケットから取り出したハンカチを、未だ出血が続いている彼女の傷口にあてきつく縛って止血する。

「……反省……してます」

「忘れないで下さいよ。その言葉」

 下から見上げるバルディスの瞳は、先ほどとは一転して、穏やかなぬくもりを湛えていた。

 冷え切った体が急激に温かいお湯の中に浸かったような心地よい波が、全身を走った。一生懸命堪えようとしていたものが、堰を切ったようにあふれ出す。

 リサは、こみ上げてくる涙を、もはや抑えることができなかった。

 痛んでいるのは左腕の傷ばかりではない。

「人前で泣くなと言ったはずだぞ」

 荒い口調でそう言いながら、バルディスは、リサの体を包みこむように抱きしめていた。

 リサは、無言で「うんうん」と頷きながら、バルディスの胸に顔を埋めて泣いていた。

 世界は、彼女が簡単に変えていけるほど小さなものではない。それでも、変えていかなくてはいけない運命が彼女の肩にのしかかっている。一度滅んだキールを、かつて世界の調整者として大陸を支配していた頃の強国に戻していくのは、容易なことではないのだ。

「忘れないで下さい。あなたは、一人ではない」

 精一杯強がって困難に立ち向かっている主の細い体を優しく抱く。

「リース閣下? バルディス閣下?」

 下から、二人を呼ぶ兵士の声がした。そろそろ夕食の時間だ。それを知らせるための呼び声だろう。

「さぁ」

 大地のぬくもりのような安心感をもたらす声が、直接体に伝わってくる。

「戻って傷の手当てをしましょう」

 バルディスの大きな手が、リサの頬に伝う涙を拭う。

 192センチのバルディスの巨体が、今日はより一段と大きく見えた。

「ねぇ、バルディス」

 狭い階段塔の石段を下りながら、前を下っていくその大きな背中に問いかけると、ほんの少し首を動かして答えがくる。

「なんです?」

「さっき……本気で斬ろうとしてたでしょう?」

 それから数段。バルディスは黙って階段を下りてから立ち止まり、

「当然です。剣を握ったら、いつでも本気で相手を斬る覚悟をしています。よもや、お忘れでは?」

「ま、まさか……忘れてなんて……」

 暗い階段塔に響いた最後の言葉に、リサは言葉を濁して苦笑を浮かべることしか、対処法を思いつかなかった。

天使の涙編はいよいよクライマックスです。

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