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荒野模型のネバーランド

作者: 橘こっとん

 見上げる空は青く青く、どこまでも高かった。

 視界を真上へと固定すれば、端には眩く自己主張する太陽がちらつく。雲はない。肌と髪をあぶる日光の匂いが、鼻腔に流れこんで溶けていく。薄く浮いた汗をぬぐおうとは、なぜだか考えなかった。

 少し目線を下方へ戻す。カラフルにペイントされた壁が諸々の奥にちらりとのぞいた。四方を見渡せばどれもそう。外のものを遮り阻み、かすかにグラデーションがかる青しか、向こうには存在してないように思わせる。

 せめてビルのひとつ、電線の一本でものぞかないものだろうか。そう軽い気持ちで爪先立ちしてみてももとより矮躯、壁の何分の一にも満ちはしない。手を伸ばせばもっと高くなれる気がして腕を差し出しかけたあたりで、肉厚の大きな手が気安い動作で頭に乗っかった。穏やかで優しげな声音がそこに加わる。ほらお前、土産なんて後で決めなさい。この子も待ちくたびれてるじゃないか。なあアザド。

 振り返れば、恰幅のよい髭面が肩をすくめて妻に呆れを示している。それも苦笑じみたものが大半を占めているのは明らかで、見られていることに気がつくと、こちらに朗らかな微笑みを投げかけてから髪を撫ぜてきた。

 自分は相手の笑みを真似して浮かべて、されるがまま。彼の妻もやってきてようやく足を運びはじめた。壁の内へ、内へ。

 歩めば歩むほど、人ごみと喧騒の中に潜りこむ形となる。進めば進むほど、周囲にはよく分からない何かが増えていく。それらの多くは人間を振り回したり落下させたりするもののようで、悲鳴がどこかしこから飛んできた。……どこか、違和感はあったが。

 見慣れぬもので構成された場所、連れてこられたここ。遊園地だと彼は言った。人々が遊びに訪れる、楽しいところだと。ならあの悲鳴も遊びなのだろうか。違和感の原因もそれなのだろうか。よく分からない。自分が――アザドが知る悲鳴とは少なくとも、喜色の混ざる余地があるものではなかった。

 足を前へ、前へ。夫婦の後ろ姿にただついていく。時折話しかけられ、記憶に残らない答えを返し、笑いを見せる。それだけでも彼らは嬉しそうに頷いて、三人で一丸になったかのように幾十の他人とすれ違う。しかしアザドもこの二人とすれ違う、それを想像しても、なぜか結構しっくりくる。とりあえずあの悲鳴にちらつく違和感はなかった。

 あれにしましょう。そう妻が指差す声。色づけされた爪の示す先には、人を乗せた作り物の馬がぐるぐる回る、煌びやかな装飾を施された何かがある。まだ昼なのに電飾が瞬いて、逆につかみどころのない陰影を際立たせていた。夜になれば、この影ももっと濃く鋭くなるのだろうか。

 爆破の光に灯される、最後の一瞬のモスク。それをふと連想した。


***


 思い出すのはいつだって、粉塵と群衆と与えられたルート、それから断続的に鳴る銃声。砂煙舞う、太陽に灼かれた荒野が、目をつむれば一瞬映った。

 アザドはある地方のある国の、ある武装組織に属していた少年兵だった。AKをはじめとする銃器を握り、構え、敵を撃つ。気がつけばそれが日常を構成し、自分を形成していた。恐怖と緊張と痛み。それらが絶えず心をむしばみ、身体を怯えに震えさせる。街でゲリラ戦を行うときは特に。民衆にまぎれて都市を動き、素早く目標を見つけ、相手に気取られる前に殺す。こんな戦場をくぐり抜けて生き残ったことが幸運といえばそうなのか。ひとまず恐れの感情が麻痺したことは、素面である限りはそうそうなかった。周囲の仲間はそんなもの捨ててしまっていたにもかかわらずだ。それを思えば運は半々といえる。

 出自は知らない。学校に通っていた覚えはないので、親は殺されたかそれとも親に売られたか。どちらにせよ親がアザドを迎えに来てはいないし、死んでいることを前提に考えていいくらいではある。アザドが『孤児』として保護された以上、そう考える方が自然だった。

 そう、保護された。紛争は終わったのだ。アザドら少年兵は組織よりも大きい『なにか』によってあれよあれよという間に解放され、AKを奪われ、施設に入れられて。そして今このときに至っている。

 あの頃には夢にも見なかった生活。施設入りしてしばらくして、覇気のない性格のせいか『模範生』の扱いをされていたアザドは、里親の誘いを受けたのだ。名前に覚えのある大きな国の、アザドとは違う肌の色の夫婦、彼らの子供になるかと問われて、どこか遠い出来事のように首をかしげた。心地はまるで、仲間の仕掛けた作戦の成否を何キロも後ろから眺めているようなもの。自分がそれに首肯したと気づいたのは引き取られる前日、餞別にささやかな品をもらった時だった。

 アザド。今日からあなたは、私たちの子。

 今までつらかったでしょう。けれどこれからは奪われたぶんだけ、ううんそれ以上に、ここで新しい子ども時代を送ってね――。

 彼らの家の玄関先についた際、妻の方――「おかあさん」が涙声で語りかけた言葉。次いでふたりに抱擁され、愛情を惜しみなく与えられた。

 学校にも通わせてもらっている。学がなく共通語も喋れないアザドは仲間外れになることが多いが、特に苦ではない。勉強についても言葉についても、夫婦と教師のおかげで、なんとか生活に支障ない程度になった。話を交わす者も、いないわけではなくなった。こちらに馴染めてきたんだね、と夫婦は親身になって喜んでくれる。紛争で傷ついたらしいアザドの心をケアすることを第一にしてくれる。

 そしてアザドが来た日から一年と少し経ち、それを記念してのこの遊園地への小旅行だ。一転した生活、夫婦の笑顔、裕福な何もかも。アザドの手に入れたものは多すぎて、両腕にはきっと抱えきれないくらい。自分は幸福だ。きっと、幸福だ。

 幸福なんだと、信じようとして――、


「なぜだろう。ずっとずっと胸に詰まってるものがある。それが取れない。どころか増える。息苦しくて仕方ない。死ぬんじゃないかと、そう思う」


 ベンチの隣に座る少女は、そう唇を真一文字に結んで、つまらなさそうに囁いた。

 言葉はあまりにも独白じみていて、だから一瞬、誰に言ったものか分からなくて。だがその風貌を目にすれば、そのまま無視するなどという選択肢は生まれなかった。

 メリーゴーランド、というらしいあの乗り物からはじまり、様々な器具に振り回される。さすがに疲れてベンチにへたりこんだアザドを見かねて、夫婦は飲み物を買いに離れた。夏の陽ざしが日影の内でも身体を焦がし、眠気にも似ためまいが襲う。だが、隣に誰かが座った気配にまぶたを上げると、すべての倦怠感は吹き飛んだ。

 少女がいた。影を透かした濃褐色の肌と、黒い縮れ毛。タンクトップからのぞく引き締まった体躯にはところどころに傷跡が散らばっていた。片膝を立ててうつむいて、横目でこちらを見つめる。黒目がちな瞳が愛嬌を誘うが、そこに宿る光は例えようもなく冷めていた。まるでその眼光こそが、アザドの熱を収めたかのように。

 確信があった。彼女は同族だ。ただ同じ民族だという意味ではない。あの遠い地で、銃を振り回して屍を重ねてひたすら駆けた、いつかの同胞。そうだと何を賭けてでも断言できた。なぜなら、かつての彼女をアザドは知っていたのだから。

 ――ナワラ。ナワラ・ミシュアル。アザドが戦った武装組織にともに属していた、数少ない少女兵。アザドに限らず、同じ部隊に回された中で、彼女の存在を知らない者はきっといなかっただろう。

 美しかった。孤高だった。上司との強制的な『結婚』を経てなお実践兵になった、物珍しい物好き。だがその名が広く部隊内に知れ渡っていたのは、それだけが原因ではない。

 彼女は強かった。敵を殺すのにあまりにも長けていた。女子供だてらに多くの命を葬り去り、果ては隊長補佐という、少女兵にしては異例の地位にまで上りつめたのだ。彼女が関わる作戦が失敗に終わることはまずなく、稀にあろうと、彼女だけは戻ってくる。眉ひとつ動かさず平然とした顔つきで。

 そんな彼女を恐れていなかったと言えば嘘になる。もはや違う次元の人間を見ている気分にはなっていた。何回か同じ班で組んだことがある。そのうちのひとつ、不意を突いての強襲、乱戦。そんな混乱のさなかでも、彼女だけは薄く笑みを浮かべて引き金を引いていて。一度きりの笑顔が、見とれたその一瞬が、記憶に焼きついて離れない。感嘆すると同時に憧れると同時に、どこか怯えていた。

 だがなぜだろう。いま彼女に強烈に感じるのは、静かな胸の高鳴りだ。冷気を帯びた視線が投げかけられるのに、散じたはずの熱は再び脳に集まりつつあった。

「……どういう、こと、だよ」

 彼女に返すのは母国語。最近はずっとこちらの言語を使うよう言われていたから、発するのも久しぶりだ。心なしか発音がおぼつかなくなっている気がする。形容しがたい気持ちの悪さが、腹の底に沈殿した。

「分からないから聞いてる。境遇が似てそうなキミなら、って考えただけ。そういうの、ないの」

 横顔は紛争時代のイメージと変わらずに淡白だ。それが華やかなワンピースを着せられてアクセサリーまでつけているのだから、変態じみたパロディかコラージュのようにも見える。それでも目線を逸らせないのは、何らかの力が作用しているからなのか。熟考する判断力も削られ、謎めいた質問に首を振る。

「ないことも、ない……多分。でも、あんたのことなんて、知らないさ」

「そう」

 吐息のような返答。ささやかすぎて、本当にそう言ったかどうかも怪しい。

「でも諦めないから、そっちも考えて。期待してる」

 呟いたきり黙りこむ。ずいぶん身勝手な言い分だが、少年少女兵のもと頂点と思えば多少の理不尽は特権のうちか。むろん、それを大人にまで求めれば、待っているのは良くてリンチだけども。

 それにしても、一体なんなのだろうか。胸のつまり、息苦しさ、その正体を探れ。正直なところ、わけが分からない。

 確かに、アザドにもそういったものがある。最初は異国での生活のせいかとも思ったが、それが原因ではきっとない。夫婦に引き取られたそのときには、もうその感覚ははじまっていた気がする。大元はやはり分からず、ましてナワラの……性別も強さも精神性も違う人間のそれを、分析できるはずもない。期待されても困る。

 夫婦はまだ帰ってこない。ナワラはアザドを放す様子がない。そしてアザド自身、彼女とこのまま別れることにひどい抵抗感があった。仕方なく、腰を浮かせるのはやめた。

 こういった時、どうすればよいのだろうか。あいにくアザドは尋問や拷問を担当したことがない。唯一資料になりそうなのは、施設で受けさせられたカウンセリングだけだ。二言三言で会話を切るアザドに、粘り強く質問を繰りだしてきた白衣の女。その内容を曖昧ながらも思い出しつつ、口火を切る。

「一応聞く。名前は?」

「……ナワラ・ミシュアル。カウンセリングの真似ごとなら、前置きは飛ばしていい」

 ばれていた。どことなく気まずさを味わいながらも、ありえそうな事柄を頭の中で列挙する。……ほとんどが、自分にも投げかけられそうな問いだった。

 そんなものがあのナワラに当てはまるとは思えなかったが、聞くだけ聞いてみる。

「引き取られた家族が、嫌になったのか?」

「違う。はじめから今まで、特に何も感じてない」

「じゃあ、今の生活に不満があるのか?」

「あまり。強いて言えば、さっき言った息苦しさ。どこにいても何をしても、変わらない」

「それは……いつからだ?」

「施設に入れられたあたりから。ここまで一緒なら、もう完璧に同志だと思うんだけど。そのへんどう、キミは」

 まったくだ。どこからどこまで、自分の代弁のような受け答えばかり。この女、人の心を読み取っているのではないかと、本気で疑った。

 そう、夫婦が「いいひと」であることはわかるのだ。彼らだけではなく、ケアに携わるすべての人々。アザドを大事に思い、尊重し、愛そうとしてくれる。それ自体はありがたいのだ。きっとそう。少なくとも、溶けこめないことに罪悪感を得るくらいには。

 ……溶けこめない。ふたりの談笑に組みこまれながらも、無意識のうちに一歩引いている。慣れたには慣れたが馴染めない、というのが素直な感想だ。そしてそれを改善したいとも、どうしてだか思えない。「ありがたい」というのも実のところ、どこかふわふわしていて捉えようがなかった。

「……じゃあ、その前は苦しくなかったのか」

 言ってから、愚問だったと気がついた。かの子供兵の頂の、ともすれば大人でさえ恐れかねない冷酷無比の少女が、そんな感覚抱くものか。

 だから彼女が即答したこと自体は当然だった。しかしその内容が、予想を真っ向から裏切ってくる。

「苦しかった。……怖かったし、痛かった」

 耳を疑った。目を見開いたアザドを、ナワラがちらりと捉える。が、次には視線を正面に戻し、淡々と語りはじめた。

「だけど違う。今感じてる、こんなのじゃなかった。もっと、刺すみたいに鋭くて、避けないと死ぬ弾みたいな感じ。今のこれは……肺が潰れて息ができない死に損ない」

 そこまで言うと、首を回すような動作で頭を傾げ、天を仰ぐ。

「最近、この空を見上げて思う。私はあの場所に、なにか大事なものを置き忘れてきたんじゃないかって。もう間に合わないけど、それでも全部捨ててでも取り戻したいなにか。そういうの、キミはある?」

 彼女の言葉で、仕草に倣う。さんさんと光を矢射る空はあの日々と何も変わらなかった。汗と泥と諸々にまみれて密林を行軍し、あるいは都市を駆け回ったいつか。火薬の匂いがつうんと嗅覚を刺激した気がした。

「……だったら、戻ればいいんじゃないか」

 ふと、言葉が口をついてでた。

「え?」

 薄い疑問符はナワラのもの。それでアザドも、自らの発言を顧みる。……そんなことするまでもないくらい明らかな、馬鹿の返しだった。

 悪い口が滑った今のはなしだ。そう否定し、撤回しようとするものの、

「構わない。……続けて」

 そのたった二言に、抗う意気が湧いてこようはずもなかった。

「いや、なんというかだ、忘れてきたんだったら、落とした場所に戻ればいいんじゃないかって……思った、だけだよ」

「あそこに?」

「あそこ……っていうか、戦いに。施設でも駄目だったんならその前に返れば、それも解決しそうだし、さ……」

 顔が火照る。単純極まりない上に無茶な言い分だと、自覚はあった。ひどく自分が子供じみている気がして恥ずかしい。だから続けたくなかったのだ。足元に奈落が開けばいいのに。

 一方、ナワラはと言えば、特に馬鹿にするでもけなすでもなく、

「もどる……」

 そう反復し、うつむきがちに沈黙した。

「……」

「……」

 暑気の中、連なるふたり分のだんまり。彼女の横顔を一瞥する。その無表情からは内面を読み取れず、かえって悪く考えてしまう。呆れられたのでは、失望されたのでは。こちらも平静を装うが、内心かなり焦っていた。

 しかし、先にその静寂を破ったのはナワラの方だ。

「なら、ここで戻ってみるのはどう」

 その呟きとともに、彼女は提げていたピンクのショルダーバッグをおもむろに開いた。

「……なに?」

 問うが、首を振ってバッグの中を改めるよう促すばかり。仕方なく視線を下げ、チャックの合間からのぞく諸々を見渡す。

 えらく乱雑に詰め込まれている。分かるだけでも、ハンカチに携帯にポーチにペットボトルに……ほとんどが適当としか言えない具合に配置されている。もしやこの少女、片付けは苦手なのだろうか。銃の分解と組み立ては誰より早かったくせをして。

 服装といい里親の意向があるのだろう、小物も彼女には似合わないパステル色が多い。それらがごちゃまぜに放りこまれた結果、混沌とした色の坩堝ができている。散漫なチェックをしていくが、ふいに、違和感を覚えた。

 視界の端、バッグの奥に、ひとつだけ文字通りの異色がある。ちょうど影になっていて見づらいが、暗がりに溶けこむそれは暗色。目をこらして、形を辿って。ようやく理解したとき、脳がかち割れそうなほど大きな鼓動が、ひとつ心臓に木霊した。

 分からないはずがない。なじみ深い質感に、細いフォルムと手ごろな大きさ。何度となく手に取り、ともに駆けた。思わず手を伸ばしてしまいそうになるそれは。

 わずかにのぞく――黒々とつやめく、見覚えのある鋼。

「……っ!」

「……分かった?」

 アザドの反応を確かめると、ナワラはすかさずチャックを閉じる。同時に飴をふたつ取り出して、バッグを開けた意図を悟らせないようにしていた。ひとつをこちらに手渡しながら、軍規をそらんじるように補足する。

「あとはダガー一本。まともに行動するには不安だけど、贅沢言えない。AKとか、さすがに無理だし」

「……これを、どこで?」

「銃は親からくすねた。ダガーは、後ろ暗いところで」

 どうでもよさげにさらりと言う。色々と問題のある発言だが、事実そこは重要ではない。

「それで?」

「これで戻るのはどう……違う、ここを戦場にするのはどうってこと。そうすれば、私はそれを取り戻せると思う?」

 相も変わらず、その横顔には冷えた無表情。だが、バッグに手を置き訊ねるその姿には、どこか真摯なものがあって。こちらに向ける瞳にもわずかな生気が宿っていた。

 瞬く間だけ彼女に見とれて、けれどすぐに目を逸らす。このまま答えていれば安請け合いしてしまいそうだった。

「分からない。そんなの、あんたの問題だし」

「じゃあ聞き方を変える。キミがここで前みたいなことをやったら、何かが変わると思う? それを望む?」

 それこそもっと分からない。第一、そんなことをしでかせば大騒ぎではすまない。

 仲間の助けもないこの国で銃を振り回せば、間違いなく警察に捕まる。今の平穏だってなくしてしまうし、夫婦にも迷惑をかけるだろう。与えられたこの平和は、豊かさは、二度と返ってこない。

 だが――今この手の中にあるうちに。

「……」

 そうやって失って惜しいものなど、あるのだろうか。

「これ、貸すから」

 早業でリュックに鞘入りのダガーをねじこまれる。見れば、彼女は立ち上がるところだった。

「銃声が鳴ったら、私が始めた合図。それからどうするかは任せる。なんなら警察を呼んでもいい。さすがにナイフだけじゃ、できることなんて知れてるし」

「……本気か?」

「冗談は苦手」

 言って、アザドの向こうを顎でしゃくる。人ごみの中にちらほらと、夫婦の影が見え隠れしていた。

「じゃあ」

 背を向けられる。止める間もない。サンダルの音が積み重なるごと、小柄な体が遠ざかる。ただひと時だけでも呼び止めたくて、聞こえないことを承知で、それでも声を張り上げた。

「っ、目標はっ!?」

 周囲の幾人かが、奇異の感情もってこちらを見つめてくる。構うものか。たとえ届いていなくても、彼女の姿が消えるまで、こうして待ち続けてみせる。

 けれどナワラは歩みをぴたりと止めて。この喧騒の中でもまるで啓示のように、彼女の声ははっきりと鼓膜を震わせた。

「……あれ」

 細い指が、差す。空を、いや、そこにかかる、ここで一番大きなものを。

「ここを都市だと仮定する。敵は警備員、それか職員。ここを混乱に陥れて彼らを倒して……だけどあれの機能停止は避けること。制限時間は銃声が十回ぶん。それだけ経ったら、私はあれに乗る」

 それだけ聞けば、十分だった。

 再びナワラは歩き出す。アザドももう止めはしない。ベンチに座り直し、夫婦と合流する。その笑顔をなんだか真似する気が起きなかった。

 スポーツドリンクを渡される。ここ一年で知った味。

 ……あまり、好きな味ではなかった。


***


 次は何に乗りましょうか。妻が言う。

 こら、アザドが疲れていたのにまたお前は。夫が言う。

 アザドは無言。彼らのすべての言葉が、身体をすりぬけていく。八割方余ったペットボトルを手に遊園地を漂っていた。

 背のリュックは異様なほど重くも軽くも感じられる。足元はおぼつかない。視界は夫婦に固定されて、心臓が震えていた。

 不安。ずっと抱いていた虚無感が、心に穴を穿つかのような。

 期待。この先になにかがあるのか、心待ちにするかのような。

 ただ耳を澄ませる。いつか来る始まりを聞き届けるために。そして彼女らしいと言えばいいのか、唐突にそれはやってきた。

 ――銃声。

 風鳴りと間違えそうな、ざわめきの中の一瞬の音。幻聴かもしれない。それでも聴覚が捉えたかすかなそれに、顔を上げた。

 仰いだ先には空。雲の一片もない、まぶしいほどの青。あの戦場にもあったもの。銃声が鳴り響いた先。

 悲鳴が遠く聞こえる。他のものと混じって分かりづらいが、アザドの知っているニュアンスのものだ。

 そのまま、どれほど立ち尽くしていただろう。夫婦が笑顔でアザドの肩をたたき、アイスクリーム屋を示す。手が引かれ、踏み出しかけて、

 ――銃声が聞こえる。

 大きな手を振り払った。驚きに満ちた表情を一瞥してから、彼らの腕をすりぬける。駆ける。走る。名前を呼ぶ声には振り向かない。人ごみへと、突っこんでいく。

 ペットボトルは投げ捨てた。買い与えられた帽子とジャケットはゴミ箱に。人波に押される、素知らぬ顔で擬態する。リュックに手をやり、さりげなくあさり始めて。

 人垣の隙に警備員がひとり映る。

 つかんだ確かな感触に、全身が狂おしいほど打ち震えた。


***



 九発目が鳴ったころには、あれの真下にいた。

 息は荒い。銃声のペースはまちまちで、それに合わせて行動するのは難しかった。さすがに計画の詳細を聞かさないでの連携は無理がある。だが、できることはやったつもりだ。

 手の中のナイフは濡れて重く、羽のように軽く、身体と一体化している。

「……来ま、した……」

 震える声が頭上から。柔らかな背に当てた刃はそのままに、ほんの少しひざを伸ばして窓から外をうかがう。待ち望んだ人は、確かにそこにいた。

「そうか。ありがとう」

 囁くが、構えは解かない。まだ遠い。彼女がもっと歩んでくるのを待つ。まっすぐに進む姿が、記憶の中、武骨な戦闘服のあの日とぴったり重なった。ほんの少し表情が緩んだ気がする。

「……来たんだ」

 受付にやってきた彼女と、窓を開いて視線を交わしての第一声がそれだった。

「そっちこそ。まだ十発撃ってないのに。それとも、ここにいる間に聞き逃したかな」

「ひみつ。それより、キミも乗るの、これ」

「じゃないと、こんなことしてないって」

 苦笑する。動作係の職員にあてがったナイフを、ようやくここで収める。途端にくずおれかける若い女。半泣きのまま、だが浮かんだ安堵は、瞬く間に再び凍りついた。

「まだ。もうひとつだけ、やってもらう」

 ナワラが向けた銃口が、まっすぐに彼女をのぞきこむ。

「何も言わず、騒がず、何の異常もないような顔で、私たちをこれに乗せる。……できない?」

「で……でき、ます……っ」

 涙声で返した健気な答えに、今度こそ一筋の雫がこぼれる。それらをナワラの絶対零度の指示が拭わせてのち、職員とアザドは、ともに受付を出た。ひとりの受付嬢の刺殺体を中に残して。

 ごうんごうんと、駆動音を鳴らして回り続ける鋼鉄のカゴ。傍からは見えないように銃を職員の方へやったまま、ふたりは彼女の両脇を固める。震える手が扉を開き、ふたりが中に入ったと同時、逃げるように扉とバーが閉められた。

「ありがとう」

 気が触れかけたような動作で踵をかえした女を、ナワラが十発目の銃声でもって終わらせる。

「……すごいな」

 正直なところ、改めて驚嘆した。こんな動くものに乗っていながら、別の方向に動く的へ的中させるなんてアザドには無理だ。大人でもできるのはどれだけいたのだろう。

「こっちも、助かった。先に乗り場を固めておいてくれて。どうやった?」

「避難誘導が終わるころに、はぐれたふりして泣きわめいてさ。ふたりがかりで受付に案内されたあたりで片方刺して、もう片方を脅したんだよ。避難指示がこの辺に伝わったみたいだから、まずいと思って。と言うかだ、僕が来なかったらどうするつもりだったんだよ」

「だいたい同じ手。こっちまで騒ぎが伝わらないようにするつもりだったけど、スピーカー潰しきるのは無理だった。無線なんてもっと無茶」

 だから、ほんとに助かった――。そう正面から言われるとこそばゆい。どういたしまして、とだけ返答して肩をすくめる。その様子にナワラはわずか瞳を瞬かせた。

「……なんか、感じ変わった。何か、あった?」

 やはり彼女は鋭い。いや、自分でもかなり気持ちが高ぶっている自覚はあったから勘付かれるのも当たり前か。なんだか気恥ずかしさが湧いて出て、頬を掻く。

「うん。こうやって戦って、殺して、それでやっと分かったことがあってさ。ちょっと、すっきりした」

 あんたは? 問う。つい数十分前とは真逆の立場だ。自分に起こったことを、相手にも当てはまるかどうか聞く。彼女は首をふった。

「気持ちは高揚した。息苦しさも、すごくまし。だけどどうしてかは分からない。だから……聞かせて」

 言われずとも。真正面からの真剣な瞳に頷いた。一拍だけ思考をまとめ、ナイフに手を沿わせながら、ゆっくりと語り始める。

「……僕らは、ずっとあの戦いの中で育ってきて、戦って生きてきてさ。あんたと同じで、それはつらかったし痛かったし、苦しいことで。それはさっきだってそうだった。警備に見つかって撃ち殺されるんじゃないかとか、こんなのやったら逃げ切れないだろうなとか。そういうのばっかり考えて、すごい怖くて。だけど……それでやっと気づいたんだ」

 ナイフの柄を握り、掲げる。粘着質にぬめった刃が、まだ強い日光をてらてらと反射した。

「僕ら、そういうとこで生きてたんだって。密林で都市で村で廃墟で、手榴弾でAKで拳銃でナイフで、人を殺して。そんなとこでも、生きて育った場所だったんだ。さっきさ、戦ってて思ったんだよ――」

 へにゃり、と笑う。

「『ああ、懐かしいなあ』って」

 人ごみにまぎれてただの子供のふりをして、そして殺す。その過程で味わった、恐怖、緊張、痛み。どれも鋭い、この身を貫くほどのもの。けして良い思い出ではない。

 それでも。これらすべては胸が締めつけられるほどに懐かしく、叫びそうになるほど郷愁をかき乱している。ぽっかりと空いた穴に、並々と温かい湯が注がれる。全身が満たしていく。そんな気がしたのだ。

「ここはすごい豊かで、幸せな国だと思う。けどさ、僕らが生きた場所はあんな戦場にしかなくて、それを捨てる覚悟もないまま奪われて。それで納得なんてできるか? 新しい子供時代を送るなんて、できるか? そんなの、」

「無理」

「だよな」

 ナイフを下ろした拍子に視線がかち合う。そのまま相手の眼に焦点を据え、言葉を続けた。

「納得なんてするもんか。こんなところで大人になんてなってやらない。全部忘れて、何事もなかったかのように生きろなんて、ひどすぎるだろ? だってさ、」

 たとえどんなに痛くても。

 たとえどんなに血反吐を吐いても。

 たとえどんなに死に近づかせられようと。

「僕らの子供時代は――あそこにしかなかったんだから」

 拒絶なんて、忘却なんて、できるはずがない。

 何よりも尊い、いつかの思い出。清濁ひっくるめて自分を構成する過去。

 それを無理に上書きして消そうとしていたのだから、息苦しいのは当然だった。つまるところ『自分』を否定されていることと等しい。耐え続けていればいつかは麻痺するか、心が壊れるか。このふたりの場合はきっと後者だったのだろうと、漠然と推測できた。

「……そう」

 ナワラの呟き。瞳は閉じられ、ひとつだけ息を吐く。そんな、妙に気の緩んだ動作の後に形作られたのはまぎれもない、

 薄い、微笑み。

「そう、か。ああ、だから……私はずっと、戻りたかったんだ……」

 笑みは、あの初めての笑顔とそっくり同じだった。硝煙の中浮かび上がった、たった一度の綺麗な表情。彼女があの日に回帰した証。

 ナワラが自分の子供時代を取り戻した、証。

 きっと彼女は、無意識下で直感していたのだろう。自分がこのいたずらに続く苦しみから逃れるには、戦場に戻るしかないのだと。だから銃やダガーを入手して持ち歩いていた。いつか来たる時を待ち望んで。

 光の灯ったあたたかい瞳が、アザドを見つめる。ナワラはそのまま口ずさむように言葉を紡いだ。

「キミに託して、正解だった。いつも表情が死んでないキミ、誰よりも怯えて怖がって、子供時代を精一杯生きてたキミ。アザド。巻きこんでごめん。それから――本当に、ありがとう」

 彼女が自分の名前を知っていたことに、少しだけ目をみはった。だが驚きより何より嬉しさの方が遥かに勝る。緩んだ顔は、きっとはにかんでいた。

「ごめんはいらない。僕も本当に同じ境遇だったし……お互い、似た者同士だったんだな、僕ら」

「かもしれない。私も心は殺さないまま、あそこで全力で生きようとあがいてた」

「じゃあこっちこそごめん。あんたを誤解してた」

「いい、本当に。それよりも」

 ……思えば、彼女との関係はなんなのだろう。同胞、仲間、同族。どれも今では、似つかわしくない気がする。

 親しみこもった連帯感と距離感。これをきっと、例えて言うなら。

「一緒にいてくれて、ありがとう」

 はじめての友達はそう柔らかな表情で、手を差し出した。


***


 カゴが、頂上に達した。

 見えるのは、混乱のさなかの遊園地、その壁の遥か向こう。町の群、遠い海、懐かしさを誘う空の果て。

 戦場は――まだ、どこかにあるのだろうか。

「アザド。どうする、キミは。ここで大人になる?」

「まさか。僕はずっと子供でいるよ。こんなとこで大人になるのは、まっぴらだしさ」

「同感。でも、それならこれを降りて捕まったら終わりだけど」

「そうなる前に手は打つ。ところで、ずっと不思議だったんだけど……その銃、装弾数は?」

「聞く?」

「もちろん」

 ナワラの行動からすると、もともと銃にフル装填していたのだろう。それで十発撃っていたのだから、期待通りなら――。

 ナワラが笑う。黒い鋼を、優しく握る。そして悪戯の種明かしのように声を潜めて囁いたのは、

「じゅう、に」

 ――十分だった。

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