電車内恋愛
僕は恋をしている。
でも、これが恋なのかと聞かれると、胸を張ってその通りだとは言えない。恋をした経験が無いから、コノ気持ちが恋なのか、分からない。
僕はそう思いながら、吊革に掴まり景色を眺めるお姉さんを見つめた。やはり、お姉さんを見ると顔が火照る。特に、目が合うと心臓まで ドキン と跳ねあがる。
僕がこの気持を「恋かもしれない」と思ったのは、僕がいつも通学中の電車の中、約一時間の自由時間を楽しむ為の愛読書に、似たような描写があったからだ。
「……やっぱり、恋なんでしょうか」
学校が終わり、近所に住んでいる高校生のお兄さんに言ってみた。駅から家までは徒歩だから、部活帰りのお兄さんとよく一緒に帰る。いつもは優しいお兄さんだけど、その時ばかりは夕焼けと蝉の声が響く夏の声に紛れてため息が聞こえた。
「……僕、余計なこと言っちゃいましたか、先輩」
先輩が本気で怒ることろなんて、見たことが無い。でも、見たことが無いからこそ怖い。いつもニコニコ顔の先輩に、急に真顔で胸倉を掴まれると思うと、なんだか急に怖くなって、不安な顔と震える声で先輩の顔を見上げた。
先輩は僕の泣きそうな顔に気づくといつものニコニコ顔で「違うよ」と言った。
「夏は恋の季節だな、皆似たような話を持ってくるよ。俺の親友が、彼女と海に行くんだって。……ちょっと妬けた」
「妬けた……? 先輩もその人の事、好きだったんですか?」
「いんや。そうじゃ無くてな。……中学の頃、いっつも一緒にバカやってた親友に、一足先に大人になられた気がしたのさ」
そう言って笑った先輩の笑顔は、少し寂しそうだった。夏休みの補習と部活が立て続けにあったからか、先輩は更にため息をついて、紺色のバッグから黄色と黒の水筒を取り出し、一気に飲んだ。そして、 プハァ と、蝉の声よりも小さいような声を出す。
「お前の話聞いて、ちょっと思い出しただけだ。気にすんな」
先輩はそう言って、僕の頭を コツン と、まるで卵を割るようにノックした。背負うタイプのバックなので、両手でバッグの持ち手を握っていた僕はよけれるわけでもなく「ひぐっ」という変な声が出てしまう。
「で、お前の恋はどうなんだよ。もう告ったのか」
先輩はいたって真面目な顔だったが、僕は顔が熱くなるのを止められなかった。湯気が出るように赤くなって下を向き、二人で歩いているアスファルトを見つめて小さく「まだです」と言った。我ながらこういう女々しい事を言ってしまったあとが一番恥ずかしい。
蝉の声で極力気づかれないようにしていたが、先輩は聞こえていたらしく「そっかそっか」 と、いつの間にか取り出していた、ラップにくるまれたおにぎりをほおばりながら言った。
「クラスの子か? その子」
「い、いえ。通学中に一緒の電車に乗ってる人……かも」
まだ「これは恋です」という確信を得たわけじゃないもの。この言い方であっていると思う。先輩にそんな変な配慮しなくてもいい事は分かっているけど、口が勝手に動いてしまう。僕は別におしゃべりなわけでもないのに、口が勝手に動くのはなんだか不思議だ。
それと、未だに重大発表をした所為で、先輩の顔を直視できない自分も不思議でならない。
先輩はキョトンとした顔で僕を見た。横目で見ただけだからハッキリとは分からないけど、多分そうだと思う。
「なんか、どんどん周りの奴が青春していくな」
先輩はさみしそうにそう言った。先輩はチビの僕より背が高いし、テニス部なんだから、やろうと思えばいくらでも青春はできると思う。でも、僕からそんなことを言うのは止めておいた。
「れ、おまえのふきなひとってのはられなんら?」
おにぎりを食べながら喋っているので、先輩の声は変な呪文みたいになってしまっている。でも、僕の好きな人がどんな人なのか聞いていることは分かった。
「えっと……。スーツ姿の女の人です」
おにぎりを飲み込んだ先輩は「OLさんか、なんかお似合いだな」と笑ってくれた。でもよく考えると、それは僕が小さいから、背の高いお姉さんと並んで歩くと親子のように見える、ということなのだろうか。
先輩の家に着いたので、そこで僕は先輩と別れた。先輩は軽く僕に手を振ると、玄関をくぐった。
「ま、その人が困ってるときは助けてやれよぅ」
先輩がそう言い終わるのと同時に、ドアは閉まった。僕はドアの向こうで靴を脱いでいるであろう先輩に軽くおじぎして、家路についた。
告白、か。
先輩に言われてから、そのキーワードがいつまでも頭の中で くるる くるる と回っている。話したことも無い人、それも中学生相手に、まさかOKしてくれるわけない。それに、いざ告白をするとなると、絶対に顔が ボッ と熱くなり、一言もしゃべれなくなるに決まってる。
登下校でいつも見かけるだけの存在だから、「恋」ではなく「顔見知り」の方が正しいのかも。
と、心の奥で頭を抱える自分に言い聞かせて見たが、一向に首を振るばかりだ。長い人生の中、出会う人間で一番面倒くさいのは自分だと、初めて分かった気がした。夏の蝉は、そんな日はとても五月蠅く、鬱陶しかった。
2
明日は文化祭。だから僕は、下校するのが遅くなる。クラス皆で、自由に描いた絵を展示することにしたんだけど、美術部となんだかかぶってるから、多分人は来ないと思うな。
そうは思ったけど、僕に手を上げて意見を言う勇気なんて無いから、黙っておくことにした。僕は何をするにも遅くって、絵を描くのも人一倍時間がかかった。別に、背景にこだわっているとか、筆の使い方が繊細と言うわけでもない。ただただ僕がとろいんだ。
とろい僕が、普通の人でも時間のかかる絵を描いたわけだから、当然時間はもっとかかる。先週、先輩と話しながら帰ったような時刻はクルリと過ぎて、とっくに暗くなっていた。
暗くなった駅は苦手だ。怖い人がいるから。
トイレには絶対行きたくない。タバコの匂いや、虎みたいに鋭い眼で睨まれたら、僕は一歩も動けなくなってしまう。僕はさっさとホームに降りて、丁度来ていた電車に乗る。
電車の中はそれなりに空いていて、僕は入ってすぐの席にすわれた。いつものように縮こまった様にに座り、カバンの中に手を突っ込んだ。そしてしばらく ガサゴソ と探したところで、はっとした。
――……本、学校に忘れてきちゃった。
今から取りに行くわけにもいかないし、既に電車は進んでいる。必然的に、僕は駅に着くまでの間、ボーっとすることしかできなくなった。チョコンと座ってボーっと座席に座った人の靴を眺めていた僕は、どれだけ滑稽だったかな。周りからどう見られているかを考えると、自分がどれだけ変な奴か分かるよね。
今は中学生がうろつく時間じゃないし、僕は見た目弱そうで本当に弱いから、よく絡まれる。この間も、ホームを出たところで変な髪形の人に捕まって、お金を取られそうになった。僕は猫みたいに小さくなってたけど、運よく駅員さんが見つけてくれたんだ。
「……おぉい、坊主ぅ」
ボーっとしてそんなことを考えていただけに、僕はその声が聞こえなかった。同時に、座っている僕を上から睨んでいる、スーツ姿のおじさんにも気づかなかった。
「聞いてんのかごらあっ!!」
「ひゃ、ひゃいッ!?」
変な声を出したのが恥ずかしかったけど、それを恥ずかしがっている場合ではないことくらいわかった。顔が真っ赤になった酒臭いおじさんは、僕のすねを蹴飛ばした。
「若ぇクセに、偉っそうに座ってんじゃねえ!! 年よりに譲れ!!」
普通なら、ブツクサ言いながらも譲ってあげるところだろうが、僕はすでにその時、ビビってしまって一歩も動けなかった。足はガクガク、歯はガチガチと震え、目には涙が浮かんできた。先生や親に叱られるのとはわけが違う。自分が悪いと反省することもできず、理不尽な社会の場で静かに泣いた。
「男が泣くなッ! 気持悪ぃ!!」
おじさんはそう言って、僕の頭上に拳を振り上げた。僕は咄嗟に頭をかばう。
痛い。絶対に痛い。
そう思うと、自分の頭をガードする手の平まで震えてきた。でも、いつまでたっても「痛い」はやってこない。不思議に思って恐る恐る目を開けると、おじさんの振り上げた腕を、ガッシリと掴んでいる白くて綺麗な手があった。
「子供を脅してまで席を譲ってもらおうなんて、あなたそれでも大人ですか?」
そこには、いつも静かに見ていたお姉さんが、怖い顔をして立っていた。周囲の目が驚きの目に変わる。それは僕も例外じゃなかった。あの綺麗なお姉さんが、凄い剣幕で怒っていたんだから当然だ。でもそのおじさんは、今度はお姉さんに当たりだした。
「うっせえよッ 年よりには席を譲ることって、習っただろうがッ!!」
「そんな怒鳴り散らせるほど元気な年寄りに譲る席なんてありませんッ」
お姉さんの言葉に、周囲の数人が吹きだした。新聞で顔を覆い、笑い声を絞り出している人もいる。僕も少し、クスッと笑ってしまった。それにはおじさんもイラッとしたのか、お姉さんの腕を掴み返した。お姉さんは、まさかの反撃に「キャッ」と声を上げた。そして、おじさんがお姉さんの顔を殴ろうとした時、僕は気づくと、おじさんに向かってタックルを食らわせていた。タックルと言っても、お腹にしがみついただけだけど。
おじさんと僕はそのまま電車の床に転がり、お姉さんは手すりに捕まった。
「このガキッ!」
おじさんはそう言って、何度も僕の頭を殴ったけど、僕は離さなかった。その直後、騒ぎを聞きつけた駅員さんが、駆け足でやってきて、僕とおじさんを止めてくれた。
「な、何があったんですか!?」
駅員さんがそう言った途端、席に座っていた杖を持った白髪のお爺さんが言った。
「その男が、あそこの女の人の腕を掴んで暴行を加えようとしてましてね。それを、そこの少年がとめたんですわ」
お爺さんがそう言った瞬間、電車が止まった。駅についたんだ。その途端、辺りから小さな拍手が贈られた。お爺さんのための拍手なのに、何でお爺さんまでが僕を見て拍手をしているのか、不思議だった。
駅員さんは、いち早く酔っぱらったおじさんを連れて出て行った。お爺さんは電車を降りる時、僕に向かって
「少年よ、御苦労じゃったの」
と、持っていた日本茶をくれた。それを始めに、皆が僕に向かって「おう、よくやったな」「カッコよかったぜ」と言って笑ってくれたから、僕は少し恥ずかしくなった。
でも、赤くなった顔はすぐに青くなった。
「……終点!?」
電車に乗っていた人が皆降りたのはその駅が終点だったからで、僕の目的地は終点の一つ前。ボーっとしている間に乗り過ごしたんだ。
――ど、どうしよう……。父さんや母さんには叱られるし……。家に帰る道も知らないや……。
仕方なく駅員さんのところまで行こうと、半泣きで駅のホームへ降りた僕の肩に、やわらかくて温かい物が触れた。振り向くと、ニッコリと笑ったお姉さんが立っている。
「大丈夫? 怪我、してない?」
僕は涙を制服の上着で拭い、「だいじょうぶです」と鼻ごえで言った。お姉さんは、床に落ちた埃で汚れた僕の顔と服をハンカチで拭いてくれた。やっぱり、顔が熱くなる。
「いっつも電車乗ってるとき、一つ前の駅で降りるよね。……乗り過ごしちゃった?」
「は、はいぃ……」
初めてのお姉さんと会話出来て凄くうれしかったけど、泣きながら話すことになったのは恥ずかしい。
「実はね、私も乗り過ごしちゃったの。一緒に送っていくわ」
お姉さんはそう言ってニッコリと笑い、僕の手を取った。小学生バリに泣いていたのが、今になって恥ずかしくなってきた。それに、手を繋ぎながら女の人と歩くのも初めてで、照れくさい。夜道を歩きながら、僕たちは色々話した。
お姉さん、通勤する時にいつも僕を見ていたんだって。数年前に病気で亡くなった、弟のヒロシって子に似てるんだってさ。だから僕を見た時は泣きそうだったんだって。……でも僕と違って、ヒロシ君は病気だって言うのに凄くヤンチャだったって。
「なんだか、またヒロシに会えたみたいで嬉しいわ」
お姉さんの声も、少し鼻ごえになっていた。夜風で涙が乾いたし、少し慣れてきたけど、やっぱり照れくさくて顔が熱くなった。でも、今なら「好き」って言えるかな、なんて思った。静かな夜道の、電車が通る橋の下。ムードは出ているし、手もつないでいる。
「あ、あの……。実は僕……」
勇気を出してそこまで言ってみたけど、偶然となりをダンプカーが通って、お姉さんは聞こえなかったみたい。でも、僕が何か言いたげな顔をしていたのに気づいて
「どうかした?」
と言ってくれた。再びチャンス到来。これを逃したら、僕たちは二度と話すことも無いだろう。そう思って、動かない口を一生懸命動かした。
でも、やっぱり動かないものは動かなかった。
「な、なんでもないです……」
自分で「ばか!!」と心の中の自分に叫んだ。お姉さんは「そう」と言って歩くばかりだ。そしてとうとう、僕のマンションまでついてしまった。もっと家が遠ければよかったのに……。
お姉さんに「ここです」と小さく言うと、「あら、そうなの」と驚いたように言った。そして、温かかった手が離れていく。
「じゃ、バイバイね」
お姉さんはそう言って手を振った。僕は恥ずかしくて寂しかったけど、ぎこちなく手を振る。そして、自動ドアが開くところまで足を踏み入れた時、「待って」と呼びとめられた。振り返ると、お姉さんは僕の身長と同じ高さになるくらいまでしゃがんで、両手で僕の頬に ピトッ と触れた。
「君、カッコよかったよ。ありがと」
その日、僕は父さんと母さんに叱られることはなかった。おじさんに掴みかかった時、間違えて学校の証明書が落ちちゃったみたいで、連絡してくれたんだ。その日僕は、布団の中で小さく叫んだ。自分がやったことを思い返したり、お姉さんにしてもらったことを思い出すと、いてもたってもいられなくなるほど恥ずかしかったから。
3
次の日から、お姉さんは僕を見かけるたびに話しかけてくるようになった。お姉さんの家は知らないし、顔が熱くなって会話もまともにできないけど、お姉さんはいつも、僕を見かけるたびに来てくれる不思議な人だ。たまに、ファミレスまで連れていかれてジュースを奢ってくれるのは少し悪い気がするけど。先輩に話してみたら「脈あり」だってさ。意味は分からなかったけど、先輩曰く「好きって言っても大丈夫」ってことらしい。そんなに仲良くなったのかな。
でも、やっぱり僕とお姉さんの距離は縮まった気がして、ある日、思いきって聞いてみた。
「あ、あのッ……! チヒロさんって、どんな人が好きですきゃッ……!」
噛んでしまったし、いきなり何を言い出すんだろうと自分でも後悔した。確実にここで嫌われたんじゃないかと、ギュッとつぶっていた目を開ける。
そこには、僕と同じように頬を赤くしたチヒロさんがいた。
「そうね……。ピンチになった時に助けにきてくれて……可愛い人、かな」
僕は恋をしている。
この気持は間違いなく「恋」そのものだ。