セカイ恐怖症
扉のむこう、めまぐるしく流れる景色に飛び出してみたくなる。
そんなことをぼうっと考えていると、ガタンと電車が揺れた。乗車口の広い窓に額をぶつけた痛みで我に返った。痛いやら恥ずかしいやら、今の姿を見られてやしないかとハラハラする。
ちらりと車内を見回してみると、朝から疲れきっているサラリーマン風の男性や、ラフな格好に身を包んだ大学生のような男女。スクールバッグとは違って、スポーティな鞄を肩からかけた坊主頭のYシャツが、思い思いの時間を持てあましており、僕のほうなど気にもとめていなかった。
人に言ったらカウンセリングを勧められそうなことを考えていたものの、別に自殺願望があるわけでないのだ。ただ、はっきりとしない不安のようなものがとりついているだけ。それのせいで生きることの意味だとか、くだらないことを考えてしまう。自問自答に答えを求めても周りの何かが変わるわけでもないのに。
今度は自分から額をぶつける。まばらに揃えられた髪がこすれあう音がした。それから深く息をつく。体の中から不安だとか、嫌なものを消し去るように。目には見えないイメージで、足の先からお腹、そして胸までせり上がった黒いものが霧散した。
少し落ち着いてから、額を窓から離して外に目をむけた。いくつかの駅を通り過ぎて、高層ビルが乱立する街中を走っている。見上げれば首が痛くなるほどのビル群はまだ足りないと言わんばかりに真っ赤で無骨なクレーンを頭にはめている。青空と、灰色ばかりの景色の中では一層目立つ。
つられて、その遠くでこんもりと山のような入道雲が目に入った。近くの街を軽く押しつぶしてしまいそうな黒々とした雲は裾野を広げて悠々とたたずんでいた。
今日の天気予報では晴れのち曇りだったはずだけれど、あの雲が頭上まで迫れば天気も荒れそうだ、と危機感を覚えずにはいられない。
まいったな。傘持ってきていないのに。
そう思って雲を見つめていると、突然視界が下がった。地下に電車が滑り込んだのだ。景色は黒く塗りつぶされ、外界からの光を失ったガラスは鏡のように車内の像を映した。
そこで、自分と目が合った。とっさに目を背けたが遅かった。油断した。何を好き好んで、こんな姿を認めなければならないのか。醜い自分も、それを自覚してめそめそする自分も大嫌いなのに。
安っぽい革靴に包まれた爪先を見つめながら、電車に揺られた。
一人。いつも通りそんな時間を学校で過ごした。下校できる時間になると帰り道は人で溢れかえっている。それを避けるために、図書室で無意味に時間をつぶすことが習慣になっていた。
図書室に置いてあった薄めの青春小説を一冊読み終えてからはたと思い出す。今朝見た、入道雲の様子はどうだろうか。
日よけに使われている乳白色のカーテンを開く。ほぼ無人の図書室では白い蛍光灯がまばゆく、対して外はほの暗くなっていた。荒れた気流をはらんでいそうな黒い腹がさらされている。
これはいけない。すぐに荷物をまとめて帰り支度を整える。最悪雨に降られることを考えて、予習で必要な、教科書やノート以外は教室に残していく。結局カバンはほとんど空っぽのような軽さになった。
校門まで出てみるといつ降り出してもおかしくない天気で、駅までの道のりを急ぎ足で進むことにした。半分まで進んだころ、鼻先に水滴がぶつかるのを感じた。勘違いかと疑う暇もなく、次は頬に重い音を立てて水の塊が飛び込んできた。とっさに走り出したが、すぐさま視界が雨足で白く染まった。
よく聞く、バケツをひっくり返したような雨などではなく寸胴いっぱいの水を延々とかぶり続けている心地だった。衣服や靴は早々に水を吸って重くなる。
けたたましい雨音に混じって遠くで雷鳴が聞こえた。それが二度続き、三度目になるとあちこちの民家から明かりが消えた。にわかに道が暗くなったが、気にとめる暇はなかった。
駅に着いたころにはすっかり濡れ鼠になっていた。夏の気温のために寒くはないが、乾きそうにない湿気のせいで不快感が増すばかりだ。
局地的な豪雨のようで、さっきに比べて勢いは弱くなった。
嫌な感触がする靴を恨めしく思いながら改札のほうへと進む。
なんだか暗いな。
構内の電灯はついておらず、それになんだか騒がしい。改札の前にまで行くとその理由が分かった。
まず、人だかり。そしてその先に埋もれている駅員の声が拡声器のようなものを通じて、くぐもったまま聞こえる。雑音が入り混じって、聞こえたのは言葉の端々だけだったが、おおよその意味は把握できた。さきほどの雷で停電になり、それで電車の運行を見合わせているようだ。困ったものだが自然現象ではどうしようもない。
それにしてもずぶ濡れの状態で人の多いこの場所にいるのは気が引ける。距離をとってしばらく様子を見ることにした。
喧騒を背にして、構内の入り口のまで引き返す。この突飛な雨から逃げてきた何人かとすれ違った。
広く取られたスペースから外の様子がうかがえる。雨はまた勢いを増しながらアスファルトを叩いている。雷神様も絶好調、といわんばかりに太鼓を打ち鳴らしていた。この雲が退くまでにはもう少しかかりそうだ。くわばらくわばら、と胸中で唱えながら大仰にため息をついた。
ぶるっと、体の奥底にある芯が全身を揺らした。さすがにこのままではいけないか。カバンに入れてあったハンドタオルを取り出す。撥水素材のカバンで雨の被害は。不幸中の幸いだなぁ、としみじみ思いつつ肌の露出している箇所から拭きはじめる。安物のタオルは毛並みがごわごわとしていて、身をよじりたくなるような痛痒さがあった。
水気を取る程度に髪を拭い、Yシャツの上から肩を拭こうと思った瞬間、左胸のあばら骨が痛んだ。針を突き刺したような、鋭い痛み。無意識に息が止まったが、ゆるゆると吐き出す。呼吸をするたびに、痛みは襲いかかってきた。骨折れているんじゃないか、などと的外れな考えが頭の中をよぎる。昔からこの症状とは連れ添ってきたというのに。
病気のような大層なものではなく、人体の構造的に誰にでも起こりうる症状にすぎない。ただ僕がそれを引き当てる悪運を人並み以上に持っているだけだった。
激痛に耐えかねて、その場にうずくまる。まったく、忘れたころにやってくるものだからたちが悪い。
すると、不意に声をかけられた。
「どうかしましたか、大丈夫ですか?」
女性の声。こんな人気もない場所で胸を押さえてうずくまっていたら。心配をかけるに決まっている。この痛みは数分もしないうちに治まると知っていた。だから、女性に「大丈夫です」と答えを返したかったが、喋ろうとして息を吸い込んだときに痛みが走った。突然苦悶の表情を浮かべた僕に驚いたのか、女性はたじろいだ。
「人を呼んできましょうか?」
慌てていることが声色からわかる。今度は、無理に喋ろうとせず首を横に振った。
当然ながら「はい、わかりました」とその場を離れるはずもなく女性はうろたえたが、隣にしゃがみこんで背中をさすってくれた。
ああ、そんな。手が濡れてしまうのに。別段痛みが引くわけでもないのだが、女性の手は暖かくどことなく安心感を覚えずにはいられなかった。申し訳ないやら、嬉しいやら、恥ずかしいやら。いっそこのまま痛みで気を失ってしまいたい。
手厚い介護もあって、数分と経たぬうちに痛みは治まった。おそるおそる深呼吸をして、痛みが出ないことを確認する。一安心したはいいが、まずはお礼を言わなくては。
「あの、すいません。だいぶ楽になりました。ありがとうございます」
つっかえながら、なんとか絞り出した。
女性はこれでもかというくらいに完璧に微笑んでから、答えた。
「いえ、大したことは。それより、本当に大丈夫ですか?」
わずかな違和感。しかしすぐに凄い、という気持ちで塗りつぶされた。こういう人になりたいな、とも。
人へ優しさを向けることの難しさは知っている。難しく考えすぎる生来の性格が由来してか、僕は人付き合いが嫌いだった。
相手の考えを推し量り、どう言えば相手が喜ぶのか、怒るのか。どこまでなら笑い話で済ませられるのか。どう行動すれば嫌悪感を抱かれずにすむのか。自分の感情を制御し、相手の感情をコントロールする。そうやって、敵を作らぬよう、波風を立てぬようにひたすら道化となってみせた。誰からも中途半端に好かれる。そうやって中立的な立場で居続けると、やたらと他人の悪口を聞かなくてはならなくなった。それを繰り返す内に、
「僕も言われているのではないか」
そう考えずにはいられなかった。さっきまで話しをしていた人たちが、ふと僕が離れた瞬間に後ろ指をさしているのでは。僕がおどけたときに笑った、その笑顔の下で僕の本性を見抜き非難しているのではないか。疑いは晴れることがなかった。当たり前だ、相手の心を読むことなどできはしないのだから。
疑惑が不信に変わるのにそう時間はかからなかった。いつの間にか、人と関わることを避けていた。〝人間〟が嫌いになったのもすぐに自覚できたことだ。
すると、次は視線が気になっていた。他者から距離を置けば置くほどより敏感になるのだ。誰かといる安心感の隠れみのがなくなったからか。電車で、学校で、街中で。一人でいると、視線を浴びているのは自分なのか? と考える。
そのたびに自分の服がおかしいのかと恥じる。顔が醜いのかと鏡を探す。自分のどこがおかしいのだろう。
関心を持たない相手への視線は冷たくなりがちだが、それは僕にとって常に抜き身の刃物に等しかった。街で百人とすれ違えば百本の尖った刃があちこちに突き刺さる。見えない血はどんなときでも止めどなくあふれ続けた。
自分に向けられているかもわからない笑い声は耳をずるりと通り抜け、体中を冷たくさせた。
自覚すればするほど症状は悪化した。
そうして僕は、〝他人〟も〝自分〟も嫌いになった。
だからこそ、この女性を凄いと感じずにいられなかった。この人は僕と違うのだろう。羨ましいというより、せつなかった。
「はい、本当に大丈夫です」
苦笑しながら答えた。正直、話しているのも辛かった。それを知らずか目の前の女性は不思議そうな顔をしている。不思議なものを見ているように。
思わず手で顔を触ってみると水に触った。雨の水滴が垂れてきたのではなく、出所は僕の目からだった。涙? 自分で疑問を持つ前に、女性から尋ねられた。
「えっと……やっぱりどこか痛んだり?」
「いや、違うんです! ただ……」
言葉が見つからない。自分でもわからないというのにどう説明すれば良いのか。なにも話せず、沈黙が生じた。焦れば焦るほど底なし沼に沈んでいくようだ。
「迷惑、でしたか?」
とてつもないほどに不安そうな表情の女性がおずおずと僕に答えを求めた。なぜこんな表情をするのだろう。視覚的情報が処理される傍らで、考えなしに言葉を発していた。
「そんなことないです! えっと、ただなんというか、人が苦手なだけで」
脳があっというまに冷え切るのを感じた。これでは結局助けてもらったことを迷惑だと言っているのと同じではないか。前言撤回する前に女性が笑った。なんだか僕の行動の一歩先でアクションを起こす人だ。
「なんだ、そうだったの。よかった」
快活そうに笑っている。苦手とする、嫌味を勘違いさせない笑いかた。こちらも心地よく笑い返せそうだ。
「失礼じゃ、なかったんですか?」
タオルで乱暴に涙を拭って聞いてみた。女性が今度は自然に微笑む。
「ううん、こっちの話」
ある意味それが気になる。口調もくだけている。
頭を悩ませていると、電車特有の金属のこすれ合う音が構内の入り口まで響いてきた。雨もあがって夏の日差しが濡れた路面を乾かそうと張り切っているではないか。女性もそれがわかったらしく、おもむろに立ち上がった。僕もそれに続く。
「問題ないならいいの。ただ、自己管理はしっかりね」
「あ、はい。本当にありがとうございました」
たしなめるような声は耳をくすぐるほどにやわらかい。二言三言形式的な言葉を交わし、女性は持ち帰る仕事があるから、と残して去った。
よくわからないうちに色々あった気がする。彼女はなぜ笑ったのか、僕はなんで泣いたのか。疑問は募るばかりで解消には向かわなかったがこんなところで考えてもしかたがない。
電車もすでに復旧したようだし、家路へつくことにした。たまっていた人のかたまりも少しずつはけていった。
電車の中はいつも通り視線が数え切れないほどに混在していて、息がつまりそうだがほんの少しだけ気が楽だった。
次にあの女性と出会ったのはそれからしばらく経ってから。半袖のYシャツだとたまに肌寒く感じる時期で、制服の衣替えが近づいてきたころだった。
帰りの電車をホームの隅に設置されているベンチで座って待っていた。わざわざ一番遠くまで来る人はおらず、僕だけがそこに座っている。
次の電車が来るまであまりに暇なので最近買った詩集付きの写真集をパラパラとめくる。普段どこにでもあふれているくせに、なかなか見ることのできない時間を切りとった写真。小難しい考えを生み出すことなく、そのままの感動が胸に残る気がした。
その中の一枚、ベランダから撮っただけの朝焼け。綺麗に澄んでいて、同じものを見られるはずがないのについ早起きを試してみたくなる。隣に小さく載っている詩は、読解力がない僕には難題だったけれど。
そんな風に適当に時間をつぶしていた。 すると、一組の男女が話をしながらこちらのベンチまでやってきた。視線をやるわけにもいかないのでさも「本を読んでますよー」、という風体を装う。五人掛けのベンチで、僕が右端で左端に女性、その隣に男性が座った。
盗み聞きをする趣味は到底ないが、こちらまで聞こえる声量で話すほうも悪いのだ。席を立つのも面倒なので構わずにいることにした。
どうやら男性が女性を食事に誘っているようであるが、遠回しに断られていることに気づいてないらしい。なので、男性は勝手に予定を立てて強引に話を進めていく。
女性の言葉選びは丁寧だが、男性はその考えをくみ取るには至ってないらしい。裏を返せば女性が直接的な言葉を選ばないことが原因の一つなのだろう。おそらく社会人として表面的な付き合いは保っておきたいのだろうな、と考えてみる。
僕の干渉するものではないから興味はないけれど。
結果、男性は女性のはっきりとした返答をもらわぬまま、別のホームに入ってきた電車を確認するとすたこらと去って行った。
直後、大きなため息が隣でつかれた。気の毒に。女性のほうを半ば無意識にチラと覗く。
「あ」
そうして思い出した。あの人だ。
つい声があがってしまった。こんな、数メートルも距離がない場所で聞かれなかったということもなく、当然その女性と目が合った。相手は疑問符を浮かべて観察したのち、すがすがしい表情を浮かべた。どうやら覚えられていたらしい。それが幸いなのかは判断しかねる。
「その節はどうも」
「その言い方、なんだかわたしより先輩みたいだね」と笑う。よく笑う人だ。
成り行きで電車を待つ間、話をすることになった。さすがに以前迷惑をかけておいて早々に立ち去るのも失礼だろう。
隣に座り直した彼女はスーツに身を包んで、重すぎない色の髪を後ろで束ねている。二十代前半と語るこの人は萩原美咲と名乗った。僕も自分の名前――緒方仁――を名乗り、会話を交わした。いつしか話題は僕の持っていた写真集へと移っていた。
「写真好きなの?」
「そうですね、見るぶんには」
萩原さんは軽くうなずく。
「私も。今は撮るほうに凝っているんだけれど」
指をカメラにし、ファインダーをこちらに向ける。僕はそれから目を背ける。写真を撮られるのは好きじゃない。すぐに聞き返した。
「人を、撮るんですか」
すると彼女はばつが悪そうに、口をつぐむ。手を下ろして困ったように笑った。
「いや、風景ばかりかな」
「そうなんですか? 人付き合い、得意そうなのに。さっきだって」
「聞いてたの」
「ええと、聞こえてました」
彼女はまたため息をついて肩を落とす。ついでに顔も下に向けて体で落ち込みようをあらわしているようだ。それからぽつりと、小さくこぼした。
「嫌いなの」
あの人が? そう尋ねようとしたけれど、まだ言葉が続きそうなので黙っておく。
「人、嫌いなのよ」
「まさか」
信じられない。僕みたいな陰気くさいやつと違って日の当たる場所を歩いていそうなのに。
「仁くんと似ているんじゃないかな。君、たぶん以前は人付き合いがうまかったりしなかった? ……今みたいに」
心臓に直接氷を当てられたようだ。いきなり名前で呼ばれたことも相まって、背中に冷や汗がにじむ。
「まだまだ愛想笑いが下手だよね。お手本はこう」
――いえ、大したことは。それより、本当に大丈夫ですか?――
そうだ。介抱してくれたとき、彼女はこんな風に笑っていた。
「君が『人が苦手です』なんて言ったとき、昔のこと思い出しちゃって。子供のころと似てるなーって」
彼女から貼り付けた笑顔が消える。僕が慌てて切り出す。
「からかわないでくださいよ、僕が人嫌いってわけじゃないでしょう」
「話すことが苦手、じゃなくて人が苦手っていうのは?」
……確かに。あのときは口走った。結局あれは僕の墓穴だったか。
「全部一緒ではないのだろうけど……。私は人から嫌われるのが最も嫌なの。だから、誰にでもいい顔をしてる。八方美人、って言うのかな」
ホームに電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。彼女は荷物を持って立ち上がった。僕の家の方面ではない。逆の場所なのか。
「私はそう振る舞うまで、ずっと一人。そのときの私の顔つきと今の君、ちょっと似てる。だからこんなことを話してみたの。あ、急がないと」
萩原さんはそう区切って、車両に進む。僕はまとまりきらない頭で、声をかけた。
「できたらまた、お話しましょう」
予想以上に大きな声がでてしまった。彼女は、呆気にとられたように止まってからくすりと笑う。
「またね」
彼女は軽く手を振って乗り込んだ。まもなく、電車は扉を閉めて発車していく。
なぜ最後にあんなことを言ったのか。自分で整理がつくまでには時間がかかった。濃霧が思考をぼやけさせた。家に着き、眠りに落ちる前にはっきりとわかった。
ああ。自分のことをわかってくれる人がいた、それが嬉しかったのか。
夏が終わり、秋も過ぎた。空がうんと高くなる。天気予報に日本海側の地方などで雪だるまのマークが表示されることも少なくない。
季節が冬に近づくにつれて空気が澄んえいる。顔や手の輪郭が冷たい外気を受けて、はっきりと形を主張する。
帰り道、歩きながら吐いた息が白く濁った雲になり、あっというまに霧散していく。原理は知っているのにどこか楽しい。自分の命が発している熱がそのまま見える形となって自然界に流れ出ていくしていくさまにも見えた。
萩原さんとは、あれから数回会う機会があった。知らずのうちに駅のホームの端っこが定位置になっている。歩いてきてもらうのが悪いのでもっと改札に近いほうにしましょうか、と提案すると彼女は人が多くなるでしょ、だからいいの。と返した。
長く話したことはないが、他愛もない話もしたし、僕たちの影となっている部分にも触れた。
彼女は僕のこの短い人生を鏡に映したような生き方をしていたようだ。
彼女は学生時代の大半を人嫌いの振る舞いで送り、大学のための上京を機に変えたという。しかし、それはそれで酷く疲れるそうで最後に会ったときは話しながら泣かれてしまったくらいだ。歳をとって人生経験を積んでも人間の本質はそう変わるものでなく、陰口もあればいじめもあるという。だが、やっぱり〝いい人〟もいるらしい。親友というのを作ることもできたそうだ。
これからの人生が陰鬱になってしまうこともあったが、それでも自分と似ている人と交流を持てたのは嬉しかった。あいかわらず相手を考えて自分を偽ったりもしたが全部見抜かれてしまった。良くも悪くも誤魔化しのきかないやりとりは新鮮だった。
彼女は人が嫌いなくせに、変に心根が優しい。さらに人に嫌われぬよう振る舞うものだからやたらと好かれる。いいことじゃないですか、というと、表面しか見せてないからなあ、と愚痴をこぼした。
別の日、自分の知らない部分を発見できたのは驚いた。
彼女は非常に頭の回転が早く、的確な言葉や言い回しを選び取る。彼女のペースで話すときはすんなりと彼女の伝えたい事柄が脳に届き、無駄がない。しかし、逆にきれいにまとまりすぎていて彼女自身の考えが隠れてしまったりと、優等生のようだ。
つたない言葉でそんなニュアンスを伝えると、彼女は納得した表情で「君は本質的でいいね」
と僕を褒めた。
こんがらがっている思考にカバーをかけず、ぶつけられる相手ができただけなのに、彼女は長所と言うのだった。
彼女との意思のやりとりは一言で表わすと勉強になった。
そう振り返っていると、自分の生き方を少しだけ変えてみてもいいのかもしれないと、そう思うようになった。自分を隠してもいい、それでも人を避けていてはなにも変わらない。人を信じてみたくもあった。しかし、あと一歩を踏み出す勇気が足りなかった。
彼女と最後に会ってからあっというまに一ヶ月が過ぎた。毎日今日こそは、と決意を固めて帰り道に明日こそは、と後悔を重ねていた。ほんのささいなきっかけを求めた。
今朝は珍しく早く起きた。すっきりとした目覚めの良さで、気持ちが良い。とりあえず空模様をチェックしてみようとカーテンを開けたとき、いかの写真を思わせる綺麗な朝焼けが広がっていた。
学校というコミュニティは細分化され、学年、学級、誰かを中心にしたグループと独立した文化圏が形成されている。一度離れたものは再び戻ることが難しく、徹底的に人を避けてきた僕にはなおさらだった。
いつしか苦労して輪にたどりついた僕は自分を隠して生活をした。ほとんど面識のない人に、はじめて話しかける緊張感は久しぶりに味わった。そこが一番の関門だったのかもしれない。
また無駄に考える日が増えたが、萩原さんを見習って打算だけに逃げるのでなく、優しさを忘れぬように心がけた。ちょっと考え方を変えただけで、世界はだいぶ過ごしやすくなったように錯覚した。
わかっていたのに。人は陰湿でもあるのだと。感覚が麻痺していただけだった。
なんのことはない陰口。
「最近さ、あいつ……仁、だっけか。話しかけてくるようになったよな」
「あー、確かに。今まで教室の隅にいたのにな」
「なんかさ、必死っていうの? 頑張って友達作ります! みたいな」
「わかるわかる、なんだっけ、『ちょっと話してもいいかな』だっけ? いや今さら誰だよ、みたいな」
「はは、超似てる。ほんと意味わかんないよな」
「もやしみたいな体だし」
「それは関係ないだろ! あ、それにさあいつって……」
彼らの、僕への印象が次々に吐き出される。良いことは一つもなかった。耳をふさぐことも忘れて、ずっと放心していた。こんなつまらない僕みたいな人間について、たっぷりと語ってくれる。ありがたいことだった。自分のいるべき場所を再認識させてくれるなんて。とても、ありがたかった。
そんな日に限って運悪く萩原さんと出会った。いつぞやの、同僚とおぼしき男性と一緒にいたが、僕の顔を見るなりこちらに駆け寄ってきて近くの喫茶店まで連れて行ってくれた。
この人の優しさが、今は、今だからこそ痛かった。
なにを話したのかも、なにを言ってくれたのかも正直ほとんど覚えていない。いつもなら崩れるほど積もった話があるはずなのに。曖昧だけれど、僕は、彼女を傷つけた気がする。
僕は、学校へ行かなくなった。親はなにかとうるさく言ったが、気にしなかった。ずっと部屋で過ごした。
どうして普通になれなかった、なんでこんなに歪んでいるのか。泡のように、雑念は尽きることなく湧いて出た。
年も明け、冬も刻々と去っていく。来年度からは進路について考える学年だと、教師がせっついていたのを思い返す。社会に出ても、大学へ行こうとも。自分の居場所を想像してみると、どうしようとも思えなかった。
自分だけで見る世界はこれほどにも狭い。もっと広い目で見るならば、僕の悩みはどんなにちっぽけでくだらないことだろう!
そう叱咤しても、僕のふてくされた根性は深く根を張って離れなかった。
無駄としか呼びようのない時間が過ぎて、季節は春になっていた。
あいかわらず部屋にこもりっきりだったが、申し訳程度の自学自習はおこなっていた。学校へ行かないくせに、居なくてはならない場所へのつながりを断てずにいる自分の弱さは恥じるべき精神だった。
親も今ではなにも言わず放任してくれている。僕にお金をかけさせて本当に申し訳ないと心の中で詫びた。
異変は唐突に訪れた。食事を済ませて自分の部屋に戻ると、さっきまではなかった封筒とメモが置いてあった。心当たりはない。まずはメモに目を通す。母の少し角張った字で短く書かれている。
『仁宛てに届きました』
続いて封筒に目をやると、あて名は〝萩原美咲〟となっていた。
湧いた疑問をかなぐり捨てて、すぐに中身を取り出す。中には写真が複数枚と、二枚の便せんが入っていた。
『仁くんへ
こうして君にお手紙を書いたのは、はじめてです。なんといったって駅のホームで話すのが当たり前になっていましたから。
たくさん言いたいこともあるのですが、最後に会ってから君はとんと来ないですし、話したいことは積もる一方です。偶然、親友の妹さんが君のクラスメイトと聞き、君のことをそれとなく尋ねたら学校に来ていないということではありませんか。大変驚きました。思いついた手段を全部試して、なんとか君に手紙を出すことが叶いました。
きっと、君は挫けてしまったのでしょう。深く傷ついたのでしょう。恩着せがましい言い方をしますが、私もその経験がありました。君と同じくらいの歳でした。
君は私を優しい人だと言いますが、その一方でとても負けず嫌いなのです。気づきましたか? 君と話すときは、年齢に似合わず賢い君を納得させてやろうと頑張っていたのですが。
それはさておき、私も友人のグループで陰口を叩かれていました。たまたま知ったのですが、それはもう傷つきました。泣きそうなほどに。
でも、私の負けん気はそこで逃げることを許しませんでした。平然とした顔で、心は張り裂けて血を流しているのに、またその輪に飛び込んだのです。みんなと笑いながら、自分に問うていました。
こんなに苦しいのに、こんなふうに生きる理由はあるのか、と。
悩みに悩みぬいても、答えは出ません。今でもわかりません。辛いことがあるたびに悩んでいます。じゃあ意味なんてないじゃないか、と思うでしょうか。たぶん、ないのでしょう。私は社会人になってから、ある言葉と出会いました。イギリスの小説家の言葉です。
「思い煩うことなどない、人生に意味などないのだから」
とても後ろ向きで、人によっては諦めているだけにしか思えないでしょう。ですが私は、つくづく納得していました。君がこれを読んでどう思うのでしょう、私と違うのでしょうか。悪いイメージを与えたらごめんなさい。
悩んでもいいのです。少し逃げてもいいのです。大きく挫けてもいいのです。無理に頑張らなくていいのです。
ただ、負けてはいけません。負けを認めて、立ち向かうことを忘れてはいけない。
必ず報われるという希望論は好きではありませんが、立ち向かわない人が見る景色は変わらないのです。いつか、飛び出してください。
また話せるときを待っています。
萩原美咲より』
読み終わったときに、僕が逃げ出したあの日、彼女になにを言ったのかが思い起こされた。。
――あなたには分からない。僕と違うくせに。こんなに苦しいことは、何一つ分かりっこない――
子供か、僕は。人になにを求めているのか。恥ずかしくて、みっともなくて、涙が止まらなかった。涙を袖で拭いながら、もう一枚残っている便せんを開く。
『追伸
手紙を書いてから、数日経って人事異動の通達が届きました。残念ですが、別の支社に転勤が決まっているようです。次はいつ会えるか分かりませんが、そのときまでお元気で。』
それから彼女と出会うことはなかった。
*
あの子に手紙を出してからどれくらい経っただろう。もう二年は過ぎたのかな。
都心部から離れたこの土地で、忙しなく働く日々。以前働いていた支社での帰り道に高校生の男の子と出会った。
彼は昔の私のようで、そのくせ私より疲れた顔をしていた。何度か会って色々と話すうちに彼との距離は縮まった気がした。しかし、彼はとあることが原因で自分を見失うほどに傷つき、それを私が下手に触れてしまったがためにひどい別れ方をしてしまったのだ。
今でも悔やむ。彼は私の手紙を読んでまた傷ついてはいないだろうか。立ち直れただろうか。
外回りを終えて、以前の支社から駅へと向かう。彼とはじめて出会った駅まで。
なんて、ロマンチストみたいなことを考えてくすりと笑う。
隣に、昔から言い寄ってくる同僚がいなければ本当にロマンチックだったのに。何度断ってもつきまとってきて、拒絶を含んだ言葉をぶつけても微動だにしない。私がぼんやりと考えている今もずっと隣でぺちゃくちゃと仮想のデートプランをまくしたてている。
顔では笑みを浮かべて素敵ですね、と言いはするが、歩きながら足下のヒールのコツコツ鳴る音にあわせて「NO」を心で何十回も突きつけている。……こればかりは絶対に通じるわけもなく、むなしくかき消えるばかり。
いつか、きっぱりと断らなくては。そう思って同僚の話を聞き流す。
長い苦悶の時間を耐えて、駅に着いた。広く空いた入り口を過ぎて、階段をのぼる。電車が来るまでどうやってこの話を聞かなくてはならないのか、と憂鬱さを覚えてながら改札口が見える辺りにさしかかる。
改札の前で、二人の男子が仲良さそうに笑いあっていた。私服だし、大学生だろうか。やがて、彼らは別れて一人は駅の外へ、もう一人は改札を過ぎてホームまで向かっていく。
私も同じホームから出る電車に乗るのでその姿を追った。
少し早歩きになっていたのか、追っていた男性を少し追い越した。それにしても、まだ隣にへばりつく同僚が邪魔で仕方ない。別のホームのくせに。同僚が私の手を?んで、制止を求めた瞬間、私はその手を振り払った。
――もう、言ってしまおう。
同僚のほうへ向き直し、はっきりと言ってやった。追い越した男性に聞こえてしまうくらいの声量で。
「数年前から懇意にしてくださっていますが、私はあなたに同僚以上の感情を抱く可能性を持ち合わせておりませんので、もうお誘いくださらなくて結構です。では、お疲れ様でした」
同僚はそう聞くや否や、顔を真っ赤にして一目散に去って行った。軽くため息をついてから、ホームの奥へ進む。
男性は、数歩後ろでくすくすと笑っていた。私の顔も赤くなるのを感じながら、五人掛けのベンチへ急いだ。
男性はベンチの一番奥、右端に座る。私は構わずに隣に座った。なにを話すでもなく、黙っていると彼がぽつりと言った。
「えらくはっきりと断るんですね」
含み笑いをしている。
「ええ。私も成長したものですから」
ふん、と鼻を鳴らして言い返した。
「それはよかったです」
彼はよく笑う人だな。しみじみ思った。
こちらから話すことを模索していると、彼がこちらを向いて切り出した。
「話したいことが、あるんです」
思わず、どれくらい? と聞き返す。彼は逡巡してから答えた。
「積もるほどに」
ホームに、電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。これに乗るのだ。逃しては、数十分も待たなくてはならなくなる。
彼は構わずに続けた。
「謝りたいことも、あります」
「それはどれくらい?」
彼は戸惑った。そうしていると電車がゆっくりと滑り込んでくる。彼はそれを見て、慌てたように小さく言った。
「それはちょっとかも」
生意気な。前はこんな子ではなかったのに。なら、たくさん話を聞かせてもらおうじゃない。
そうして電車は私の目の前から去っていった。