表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

七回裏、仮面は汗に濡れる

掲載日:2026/06/30

夏の球場では、嘘にも汗がにじむ。


 東都ベースボールパークの通路を、白い保冷タンクを背負った朝霧澪は走っていた。ネイビーの売り子制服の裾が膝の上で揺れ、背中の氷が小さく鳴る。三塁側スタンドからは、応援歌と太鼓の音、揚げ物の油のにおい、芝を濡らした散水の青い匂いまでが混じって流れてきた。


「冷えたビール、いかがですかー!」


 澪の声は、通路のざわめきを一瞬だけ切り裂いた。高すぎず、甘すぎず、客の耳に引っかかる明るい声だった。振り向いた会社員風の男が手を上げる。澪は軽く屈み、手際よくカップを渡し、にこやかに礼を言う。


「ありがとうございます。試合、まだまだここからですよ」


 男は気分よく笑い、隣の同僚にも同じものを頼んだ。澪は二杯分の金額を確認し、釣りを正確に返し、また笑った。


 その一連の動きは、プロの売り子そのものだった。


 だが、朝霧澪という女は、この世に存在しない。


 本当の名は夜凪怜司。二十六歳。日雇いの舞台設営、イベント司会の代役、撮影用のスタンドインなど、呼ばれた場所で声と身振りを売ってきた男だった。女の声をまねることは、十代のころから得意だった。語尾を柔らかくして、息を少し短く切る。笑うときは喉を鳴らさず、先に目元をほどく。鏡の前で何百回も練習した。


 澪の黒髪は肩に触れる長さで、きちんと巻かれている。化粧は濃くない。肌の色を均し、眉を少しやわらげ、眼鏡を外したときのきつい目つきを隠す程度。制服の下には、動きやすさを優先した体型補正用のベルトと、形を整えるための薄いパッド、それから予備のタオルが入っていた。見た目のためというより、長時間歩き続ける売り子仕事では、タンクの重みを散らし、制服の線を崩さないための工夫だった。


 怜司は、この仕事をまともな道だとは思っていない。


 登録書類に書いた住所も、緊急連絡先も、半分は嘘だった。売上の手数料が高いと聞き、短期間で金を作るつもりだった。さらに、試合後に配られる特別報奨の仕組みを利用し、誰にも気づかれない程度の不正を混ぜるつもりでもあった。


 その計画は、今日の六回裏までなら、ほとんど完璧に進んでいた。


 ただし、敵が一人いることを除けば。


 右翼側通路の先に、赤いタンクを背負った売り子が立っていた。


 名札には、桐谷渚とある。



 怜司は、女の姿になることそのものを嫌ってはいなかった。


 むしろ、好きだった。


 鏡の前で、輪郭が少しずつ別の印象へ変わっていく時間が好きだった。髪の流れを整える。眉の角度を一度だけ下げる。いつもの服では隠せない肩の線を、衣装の布で別の線へ見せる。高い声を出すのではなく、相手が聞き取りやすい音域を探す。


 そこには、騙す快感だけではない。


 普段の自分では、誰にも見せない注意深さがあった。怜司は舞台設営の仕事では、どうしても雑に見られがちだった。背が高く、表情が硬い。初対面の人から「怒ってる?」と聞かれることもある。自分が悪いわけではないのに、先に距離を置かれる。


 朝霧澪として客の前に立つと、その距離が変わる。


 笑えば笑い返される。声をかければ、知らない人が手を上げる。自分の存在が、通路の中で役に立っているように感じられる。


 だから怜司は、澪をただの偽名だと思えなくなっていた。


 澪は、怜司より上手に生きている。


 そう思い始めたことが、最初の間違いだった。


 試合開始から一時間半が過ぎたころ、怜司は一塁側の最上段で、老人の隣に座った。


 老人は一人で観戦していた。帽子のつばを深く下げ、試合を見ながら、ほとんど動かない。怜司が通りかかると、ようやく目を上げた。


「姉ちゃん」


「はい」


「一番冷たいの、ある?」


「あります。氷、まだ多めに入ってます」


「じゃあ頼む」


 怜司はカップを渡した。


 老人は受け取ってから、しばらくグラウンドを見ていた。


「若いころはな、球場で飲むものなんて、ぬるくてもよかった」


「そうなんですか」


「勝ってりゃ何でもうまい。負けてりゃ何飲んでも苦い」


 怜司は笑った。


「今日はどっちですか」


「まだ決まってない」


 老人はビールを一口飲み、少しだけ目を細めた。


「お前さんも、顔が苦いぞ」


 怜司は返事ができなかった。


「仕事が大変か」


「まあ、少し」


「若いのに、そんな顔するな。球場の仕事は、客の気分を少し良くする仕事だろう。自分まで負け顔してたら損だ」


 老人はそれだけ言って、また試合へ目を戻した。


 怜司は、客席を離れてからも、その言葉を思い出した。


 自分まで負け顔。


 自分は何に負けているのか。


 金か。渚か。それとも、朝霧澪という役に。


 答えは出なかった。


 そのころ、渚は左翼側で、若い客たちに囲まれていた。


「渚ちゃん、こっち来てよ」

「写真いい?」

「次の回も絶対買うから」


 売り子には、こういう客が必ずいる。悪気がある場合も、ない場合もある。だが距離を間違えれば、仕事が崩れる。


 渚は笑顔を保ったまま、半歩だけ後ろへ下がった。


「ごめんね、写真はできない決まりなの。飲み物なら、全力で持ってくるよ」


「堅いなあ」


「仕事だから」


 柔らかい言い方だったが、断りは明確だった。


 怜司は通路の向こうからそれを見ていた。


 自分なら、もっと愛想よく返したかもしれない。相手の気分を害さず、次の注文につなげるように。しかし、それは客に期待を持たせることでもある。


 渚は、売れるために何でもするわけではない。


 その線引きが、怜司には眩しかった。


 同時に、気に入らなかった。


 人はそんなにきれいに働けるのか、と。


 四回表、怜司は補充庫の近くで、渚が責任者の真壁と短く話しているのを見た。


「新人の子、今日は途中で交代させたほうがいいと思います。足がつってるみたいで」


「分かった。様子を見る」


「あと、端末の確認画面、説明と表示が違う箇所がありました。新人が間違えそうです」


 怜司の足が止まった。


 端末の確認画面。


 渚はそこまで見ている。


 真壁はメモを取った。


「どの画面?」


「締め処理の前に出る未確定一覧です。通常の売上と同じように見えるので」


「了解。運営に伝える」


 怜司は、背中に汗が流れるのを感じた。


 渚は、仕組みを知っている。


 そして、その危険性を真壁に伝えた。


 怜司は確信した。自分が狙っていたことを、渚はすでに見抜いている。


 それなら、もう正面から勝負するしかない。


 彼は、渚を追い詰める材料を探すことにした。


 売り子用の控室には、個人の荷物を入れるロッカーがある。施錠はされるが、補充作業の間だけ開いていることがある。怜司は、渚のロッカーを見た。


 中には、裁縫用の小さな道具箱、替えのストッキング、化粧直し用のポーチ、そして、衣装制作会社の名刺が入っていた。


 名刺には、桐生玲という名前が印刷されている。


 怜司はそれを手に取った。


 やはり、男だ。


 これを真壁へ見せれば、渚も終わる。渚が会社公認の演者だと言ったことも、嘘かもしれない。少なくとも、周囲の売り子たちは知らないように見える。


 怜司は名刺をポケットに入れかけた。


 だが、そのとき、ロッカーの扉に貼られた小さな紙が目に入った。


 そこには、油性ペンでこう書かれていた。


 『衣装は身体を隠すためではなく、役を立たせるためにある』


 怜司は、指を止めた。


 誰の言葉かは分からない。玲自身が書いたのか、師匠から教わったのか。


 ただ、その言葉を読んだ瞬間、怜司は自分がしていることの醜さを理解した。


 渚の正体を暴きたいのではない。


 渚が自分より正しい場所に立っていることが、許せないのだ。


 怜司は名刺を戻した。


 ロッカーを閉める音が、やけに大きく響いた。


 振り向くと、渚が通路の入口に立っていた。


 目が合った。


「人のロッカー、開けた?」


 怜司は一瞬、嘘をつこうとした。


「補充品を探してただけ」


「そこは私物ロッカー」


「……悪かった」


 渚は近づいてきた。怒鳴らなかった。


「朝霧さん。あなたは、私をばらしたい?」


「何のこと」


「あなたが知ってること。たぶん、私が男だということ」


 怜司は息をのんだ。


 渚は、声を低くした。


「本名は桐生玲。二十八歳。衣装制作会社の契約スタッフ。今日の売り子業務は、会社側と運営側の了解を取ってる。新人の導線と制服の安全性を確認するのが主な仕事」


「じゃあ、何で売ってる」


「現場を知らずに、衣装だけ作りたくないから」


「格好つけてる」


「そうかもね」


 渚は、怜司を見た。


「あなたも、話せばいい。性別を言うかどうかは別にして、嘘の登録と不正だけはやめたら」


「そんな簡単に言うな」


「簡単じゃない。だから、今日まで待った」


「待った?」


「あなたが客に向ける顔を見てた。全部が嘘ではなかったから」


 その言葉に、怜司は怒りを感じた。


 裁かれている気がした。


「勝手に決めるな」


「決めてない。だから待ってる」


 渚はそう言って、控室を出た。


 怜司は一人残った。


 ポケットの中に、何もなかった。


 それなのに、ひどく重かった。



 怜司が売り子の仕事を選んだのは、野球が好きだったからではない。むしろ、ルールすら詳しく知らなかった。


 球場の求人を見つけたのは、駅前の派遣会社の掲示板だった。「短期・高収入・販売経験者歓迎」。その紙の隅に、売り子用制服を着た女性の写真があった。笑顔でタンクを背負い、客席の階段を上っている。


 怜司は、その写真を見たとき、すぐに思った。


 自分ならできる。


 その判断は、半分だけ正しかった。


 歩き方、声、化粧、服の選び方。そういう見える部分なら、怜司はたいていの人より早く覚えた。以前、商業施設の周年祭で着ぐるみスタッフの代役をしたときも、声だけで子どもを笑わせた。企業の配信で司会者が急病になったときは、台本の読み方を変えて場をつないだ。誰かの空いた場所へ、自分をぴたりとはめ込むことだけは得意だった。


 しかし、売り子の仕事は、姿を作る仕事ではなかった。


 重いタンクを背負って階段を上る。暑い場所で、注文を聞き分ける。現金と電子決済を間違えず、酔った客にも態度を変えない。客が欲しいのは、顔でも声でもない。冷えた飲み物と、気持ちよく受け取れる数十秒のやり取りだった。


 研修初日、責任者の真壁は、二十人ほどの新人へ言った。


「売るのは飲み物です。自分を売り物にしないでください。距離を詰めすぎない。連絡先を聞かれても渡さない。困ったら、すぐに無線で呼ぶ。売上より安全が優先です」


 怜司はその言葉を聞き流していた。


 自分には、客を引きつける才能がある。ほかの売り子より早く売れる。売れるなら、多少の嘘は問題にならない。そんなふうに考えていた。


 同じ研修に、桐谷渚もいた。


 当時の渚は、明るい茶色の髪を高く結び、淡いグレーのパーカーを着ていた。化粧も薄く、研修資料の端に、細かい字で何かを書き込んでいた。怜司は最初、ただの真面目な新人だと思った。


 ところが、保冷タンクの装着訓練が始まると、渚は別人のように動いた。


 肩ひもの長さを調整し、腰のベルトを締め、階段を上る。重心がぶれない。客席を想定した通路で急に止まり、片手でカップを支えながら、もう片方の手で端末を操作する。そのすべてが、無駄なく滑らかだった。


「経験あるの?」


 怜司が聞くと、渚は笑った。


「似たような仕事なら」


「モデルとか?」


「違う。裏方」


「ふうん」


 そのときの怜司は、渚を少し見下していた。裏方では、客の前に立つ自分には勝てないと思っていた。


 研修の最後に、参加者は一人ずつ接客の模擬をした。


 怜司の番になると、声を作る必要はなかった。朝霧澪の声は、もう半分ほど身体に入っていた。


「お待たせしました。冷えたビールです。観戦、楽しんでくださいね」


 数人のスタッフが顔を見合わせた。真壁も、一度だけうなずいた。


 その反応を見て、怜司は確信した。


 朝霧澪なら、勝てる。


 だが、渚が模擬接客を始めたとき、怜司は初めて焦った。


 渚の声は、派手ではない。大きくもない。けれど、聞いた相手が自然に返事をしたくなる声だった。


「暑いですね。冷たいもの、今のうちにどうですか」


 それだけで、模擬客役のスタッフが笑った。


「じゃあ一本」


 その一言は、演技ではなかった。渚は客が欲しい言葉を、正確に選んでいた。


 研修後、怜司は駐車場脇の自販機の前で、渚を呼び止めた。


「桐谷さん。あの声、どうやって出してるの」


 渚はペットボトルのふたを閉めた。


「どうして?」


「私も接客の仕事はしてきたから。参考にしたい」


「相手の顔を見ること」


「それだけ?」


「それだけ。声は、相手に届くための道具だから」


 怜司は笑った。


「ずいぶん立派なこと言うね」


「そう?」


「私は、声は自分をよく見せるためのものだと思う」


 渚は少し考えてから言った。


「それでもいい。でも、自分しか見ていない声は、長くは売れないよ」


 その言葉が、ずっと耳に残っていた。


 初出勤の日、怜司は売上で渚に負けた。


 僅差ではない。渚は四回終了時点で、怜司より二十杯以上多く売っていた。客に媚びたわけではない。押し売りもしない。通路の空気を読み、注文の多い列を選び、試合の流れに合わせて声の調子を変える。ただそれだけで、渚の周囲には自然に客が集まった。


 怜司は、勝てないことが悔しかった。


 だから、勝つために別のものを探した。


 売上成績の上位者には、翌週の人気カードの優先配置が与えられる。優先配置になれば、さらに売上が増える。さらに特別報奨もつく。そこへ至る道を、怜司は正面から走るのではなく、少しだけ横から近道しようとした。


 最初は、ほんの小さなごまかしでいいと思った。


 誰かの分が減るわけではない。会社の大きな数字からすれば誤差だ。自分が一度だけ得をしても、何も壊れない。


 そう言い続けているうちに、怜司は自分が何を壊そうとしているのか、考えなくなった。


 金茶のセミロングを揺らし、白いリボンを首元に結んだ、二十代半ばに見える女性。澪とは対照的に、客へ声をかける前から手を振り、笑顔を大きく見せる。制服の着こなしにも無駄がなく、タンクを背負っているのに、まるでステージへ出る直前のように姿勢がよかった。


「朝霧さん、また三塁側にいたんだ」



 それから三試合、怜司と渚は同じ球場に立った。


 売上表は、毎試合後に控室の壁へ貼り出された。名字と数字だけの簡素な紙だ。だが怜司には、それが順位表に見えた。


 一試合目、渚が一位で、澪は三位。

 二試合目、渚が二位で、澪が二位。

 三試合目、澪が一位で、渚が三位。


 やっと勝った、と怜司は思った。


 しかし、売上表を見ている最中、渚は別の新人売り子に声をかけていた。


「無理して早く歩かなくていいよ。階段は一段ずつで。タンクが片側にずれたら、一回下ろして直して」


 新人は泣きそうな顔でうなずいた。どうやら客にからかわれ、無理に笑って疲れていたらしい。


 怜司は、それを横目で見た。


 渚は自分の順位に興味がないのか、と腹が立った。勝負をしているのは自分だけのようだった。


 だが、その日の帰り、怜司は渚が誰もいない通路で、タンクの部品を拭き、傷んだストラップを交換しているのを見た。運営会社のスタッフでもないのに、レンタル品の点検をしている。


「それ、あなたの仕事?」


 怜司が聞くと、渚は顔を上げた。


「違う。でも、明日誰かが困る」


「真面目だね」


「明日、困る人が自分かもしれないから」


 怜司には、その発想が理解できなかった。


 自分が得をすること以外に、何を気にする必要があるのか。


 四試合目の途中、怜司は渚の正体に近いものを見つけた。


 五回終了後の休憩で、売り子たちがスタッフ用の洗面所に集まっていた。暑さで化粧を直し、水を飲み、次の回に備える短い時間。怜司は鏡の前で前髪を整えながら、視界の端にいる渚を見た。


 渚は、洗面台の前で手を洗っていた。


 指の関節に、薄い絆創膏が貼られている。手の甲には、縫い針でできたような細かな傷があった。衣装を作る人間の手だ、と怜司は思った。


 渚が顔を上げた。


 鏡越しに目が合った。


「何」


「別に」


「私の化粧、変?」


「変じゃない。きれい」


 怜司はわざと甘い声で言った。


 渚は笑わなかった。


「褒めるなら、もっと自然に言ったほうがいいよ」


「あなた、案外怖いね」


「あなたが探ってくるから」


 怜司は口紅のふたを閉めた。


「私は、あなたが何者か知ってる気がする」


「そう」


「男でしょう」


 洗面所の換気扇の音が大きく聞こえた。


 渚は一拍置いてから、水を止めた。


「だから?」


「驚かないの?」


「驚く必要がある?」


「私も同じだって言ったら?」


 渚は、鏡の中の怜司をまっすぐ見た。


「あなたが自分で言うなら、聞く。でも、私から言わせるなら、それはただの脅しだ」


 怜司は言葉に詰まった。


 渚は小さなポーチから化粧直し用のスポンジを出した。


「私は仕事で、この姿になる。あなたは、何のため?」


「稼ぐため」


「それだけ?」


「……何が言いたい」


「分からないなら、まだ考えたほうがいい」


 渚はそう言って、先に洗面所を出た。


 怜司は鏡に残された自分を見た。


 きれいに整えた顔だった。眉も、まつ毛も、唇の色も、朝霧澪という名前にふさわしい。だが、その顔が急に、他人の顔に見えた。


 その夜、怜司は部屋でウィッグを外し、床に座り込んだ。


 狭い一室だった。窓の外では、終電に近い電車の音がする。洗濯物は乾ききらず、壁際には使いかけの化粧品、裁縫道具、安い衣装ケースが並んでいる。


 机の上には、特別報奨に関するメモがあった。


 販売端末の記録は、試合終了後にまとめて送信される。特定の確認画面を経由すれば、未確定の履歴が一時的に残る。その表示の扱いを、怜司は説明会で見ていた。実行すれば、後で問題になる可能性はある。けれど、混雑する試合なら見落とされるかもしれない。


 怜司はメモを丸めた。


 それでも捨てなかった。


 翌朝、鏡の前で朝霧澪を作った。


 ベルトを締め、タオルを畳み、制服の下で形を整える。首元まできちんと確認して、ウィッグの留め具を固定する。肌の色を均し、眉の角度を変え、最後に声を出す。


「おはようございます。本日もよろしくお願いします」


 鏡の中の澪は、完璧だった。


 完璧だから、怜司は安心した。


 その安心が、最も危なかった。


 今日の試合は、今季最大の観客数だった。人気カードで、開始二時間前から駅前に人があふれている。球場の売店も通路も混雑し、売り子たちはいつもより早い時間に配置についた。


 真壁は朝礼で言った。


「本日は混雑が予想されます。迷子、体調不良、迷惑行為にはすぐ対応してください。売上管理端末の扱いも、いつも以上に確認します。自分一人で判断しないこと」


 怜司は、顔には出さず、心の中だけで息をのんだ。


 端末の扱いを強調した。


 誰かが疑っているのか。


 横を見ると、渚が真壁の言葉を聞きながら、静かにうなずいていた。


 怜司は、渚が密告したのだと思った。


 そう思った瞬間、腹の底から怒りが湧いた。


 正体を握っておいて、仕事の顔をして、自分だけは清潔な側に立つ。そんな渚が許せなかった。


 怜司は、その日の前半、渚の仕事を妨げることまで考えた。


 補充用の氷を運ぶとき、渚のタンクの近くに余計な箱を置けばいい。通路で彼女の客へ先回りすればいい。化粧直しの時間を遅らせるよう、わざと無線の連絡を回せばいい。


 どれも大したことではない。けれど、すべて卑怯だった。


 怜司は一つだけ実行しかけた。


 四回裏、補充庫の入り口で、渚のタンクの肩ひもが少しねじれているのを見つけた。本来なら、声をかければ済む。だが怜司は、何も言わずに通り過ぎた。


 階段を上がった渚は、三段目で足を止めた。


 タンクの重みが片側へ寄り、体勢を崩しかけたのだ。


 怜司は反射的に駆け寄った。


「危ない!」


 渚の腕を支えた。タンクは壁へぶつからずに済んだ。


 渚は息を整えてから、肩ひもを見た。


「ねじれてたんだね」


「……そうみたい」


「見えてた?」


 怜司は答えられなかった。


 渚は怜司の手を一度見た。責めるでもなく、礼を言うでもなく。


「助けてくれて、ありがとう」


 それだけ言って、肩ひもを直した。


 その言葉が、怜司をさらに苛立たせた。


 責めてくれればよかった。軽蔑してくれれば、自分はもっと簡単に敵になれた。


 だが渚は、怜司を完全な悪人として扱わなかった。


 だから、怜司は自分の悪さを、言い訳できなくなっていった。


 渚は近づいてくるなり、妙に低い声を出した。


 ほんの一瞬だけだった。すぐに柔らかい女声に戻ったが、怜司は聞き逃さなかった。


「担当を越えるほど売れてるの。悪い?」


「悪いとは言ってないよ。ただ、目立つと困ることもあるでしょう」


 渚は笑いながら言った。唇だけが笑っていて、目が動かなかった。


 怜司は、背中を少しだけ冷たくした。


「何の話?」


「さあね。売り子同士、仲よくしようって話」


 渚はそう言って、すれ違いざまに怜司の制服の胸元を指で軽く叩いた。形を整えた布地が、かすかに揺れる。


「今日は暑いから。崩れないように気をつけて」


 それだけ言って、渚は客席へ駆け上がっていった。


 怜司は立ち止まった。


 あの言い方は、偶然ではない。


 形が崩れる。声が崩れる。化粧が崩れる。そうなれば朝霧澪という作り物は、あっけなく終わる。


 だが、怜司にも引けない理由があった。


 アパートの郵便受けには、家賃の督促状が入っている。舞台の仕事は梅雨明け以降、急に減った。冷蔵庫の中には、安い卵と調味料だけ。今月を乗り切るためには、この一週間の売り子報酬と、今日の特別報奨を手にする必要がある。


 だから怜司は、渚の警告を忘れたふりをした。



 五回裏、通路の一角で、小さな騒ぎが起きた。


 酔った客が、販売端末の画面を指さして怒鳴っていた。


「二回払っただろ! さっきも同じ値段を取られた!」


 相手をしていた新人売り子は、青ざめていた。端末を見ても、何が正しいのか分からないらしい。周囲の観客が振り返り、通路が詰まり始める。


 怜司は近くを通りかかり、足を止めた。


 本来なら、無線で責任者を呼ぶべき場面だった。だが新人が固まっているのを見て、怜司は先に客へ近づいた。


「お待たせして申し訳ありません。確認しますので、少しだけ画面を見せていただけますか」


 声は低めに抑えた。余計に明るくすると、相手はごまかされたと思う。まずは怒鳴る人の息を短くする必要がある。


 客のスマートフォンには、確かに似た時間帯の決済履歴が二つ並んでいた。


 しかし一つは、球場内の別店舗のものだった。客は、家族に頼まれた揚げ物の会計と、ビールの会計を混同していた。


 怜司はそれを指摘する前に、まず新人の端末履歴を見た。二重決済がないことを確認してから、客に説明した。


「こちらがビールの決済です。もう一つは、二階の売店のものになっています。たぶん同じ時間帯だったので、重なって見えたのだと思います」


 客は画面とレシートを何度か見比べた。


「……ああ。そうか」


「分かりにくいですよね。お手数をおかけしました」


 怜司は頭を下げた。


 客はばつが悪そうに「悪かった」と言い、去っていった。


 新人売り子が、泣きそうな顔で言った。


「朝霧さん、ありがとうございます」


「次からは、まず無線。自分で抱えないで」


「はい」


 怜司は笑った。


 その直後、背後から拍手が一度だけ鳴った。


 渚だった。


「上手だった」


「見てたの」


「見てた。相手が怒ってるときに、先に正しさを言わない。ちゃんとできるんだ」


「褒めるなよ」


「褒めてない。事実」


 怜司は苛立ちながら、なぜか少しだけうれしかった。


「あなたは、最初から私を疑ってるんでしょう」


「疑ってる」


「それでも、今のを見たら少しは考え直した?」


 渚はすぐに答えなかった。


「人は、一つの行動だけでは決まらない」


「便利な言い方」


「自分にも同じことを言ってる」


 渚の声には疲れがあった。


 怜司は初めて、渚もまた、誰かを見張ることを楽しんでいるわけではないのかもしれないと思った。


 だが、その考えを深める前に、無線が鳴った。


「三塁側、補充。至急」


 怜司は走り出した。


 補充庫へ戻る途中、足元に小さな紙片が落ちているのを見つけた。白いメモ用紙だった。誰かが落としたのだと思い、拾い上げる。


 そこには、短くこう書いてあった。


 ――画面の向こうにいるのは、数字ではなく人間だ。


 字は整っている。渚のものかと思った。


 怜司は紙を握りつぶした。


 説教される筋合いはない。自分がどれだけ追い詰められているか、渚は知らない。家賃のことも、仕事が減ったことも、先月、舞台設営の現場で怪我をして数日休んだことも。


 けれど、本当に知らないだけだろうか。


 怜司は紙をポケットへ入れた。


 補充庫の鏡代わりになっている金属扉に、自分の姿がぼんやり映った。朝霧澪は笑っているように見えた。だが、怜司には、その笑顔がもう、誰かを安心させるためのものではなく、自分の焦りを隠すためのものにしか見えなかった。


 六回が近づく。


 客席は暑さと酒で浮き立ち、通路は人で詰まる。売り子たちは、どの列へ入るかを一瞬で選び、飲み物を渡し、また次へ走る。


 怜司は、ポケットの中の端末を何度も意識した。


 操作は、数十秒で終わる。


 それをしなければ、今日の報奨に届かないかもしれない。


 それをすれば、渚に勝てるかもしれない。


 勝てる。


 その言葉だけが、彼をまた元の場所へ引き戻した。



 今日の特別報奨は、単純な売上上位者への賞金ではない。


 球場では毎試合、特定の時間帯にもっとも多くの注文を受けた売り子へ、追加の報奨が出る。試合の盛り上がりに合わせて売る技術を学ばせるための制度だと、真壁は説明していた。


 怜司は、その制度が嫌いだった。


 表向きは努力を評価する仕組みだが、実際には、売り子たちを競わせる。誰かが売れれば、誰かは届かない。笑顔の裏で、順位表を見上げる目だけが鋭くなる。


 だが、怜司自身はその競争に一番深く沈んでいた。


 六回裏が近づくにつれ、通路の空気はせわしなくなった。応援団が立ち上がり、観客の声量が増す。次の得点で試合が動けば、注文は一気に増える。


 怜司は三塁側の通路を選んだ。常連の会社員グループが多く、試合の流れに合わせてまとめ買いをする。渚は右翼側にいる。二人の持ち場は離れているのに、なぜか視線だけは何度もぶつかった。


 怜司が注文を受けていると、背後から若い男が声をかけた。


「澪ちゃん、さっきの子より売れてる?」


 男は、渚のほうを指さした。


「女の子同士、ライバルなんでしょ」


 怜司は一瞬だけ黙った。


 客は悪意なく言ったのだろう。球場の売り子を、見た目と売上だけで比べる遊びのように見ている。


 以前の怜司なら、笑って「負けませんよ」と返したはずだった。


 だが今日は、言葉が出なかった。


「同じ仕事をしてる人です」


 怜司は答えた。


「比べるより、好きなほうから買ってください」


 男は意外そうに笑った。


「真面目だね」


「仕事なので」


 その返事をしたとき、怜司は自分が渚に似た言葉を使っていることに気づいた。


 それが悔しかった。


 だが、少しだけ楽でもあった。


 注文が途切れた瞬間、ポケットの端末が震えた。システムからの通知ではない。誰かが近くで、無線を落とした音だった。


 足元を見ると、小型無線機が階段の隅に転がっている。拾い上げると、背面に『桐谷』と書かれていた。


 渚のものだ。


 怜司は、しばらくそれを見た。


 無線がなければ、渚は補充の指示も、呼び出しも受けにくい。短い時間だけでも、彼女の売上は落ちる。


 誰にも見られていない。


 怜司は無線機を握りしめた。


 そのとき、階段の上から声がした。


「それ、落としたんですね」


 さっき水を渡した男の子の母親だった。彼女は無線機を見て、何気なく言った。


「さっき、あの売り子さん、探してましたよ。大変そうだったから」


 怜司は、無線機を差し出した。


「ありがとうございます。届けます」


 自分でも驚くほど、すぐにそう答えていた。


 怜司は右翼側へ走った。


 渚は、通路の端でタンクを下ろし、周囲を見回していた。無線機がないことに気づいている。


「これ」


 怜司が差し出すと、渚は目を見開いた。


「落としてた」


「……ありがとう」


「別に」


「持ったままでもよかったのに」


「そういうことを言うな」


 怜司は声を荒らげた。


「私は、そんなことをする人間じゃない」


 言った直後、胸の奥が痛んだ。


 する人間だった。少し前まで、そういうことをしようとしていた。


 渚は、怜司の表情を見た。


「そうだね」


 否定も、皮肉もなかった。


 ただ、その一言が、怜司には重かった。


 無線機が鳴った。


「桐谷さん、右翼側の補充、お願い」


「了解」


 渚は走り出しかけて、振り返った。


「夜凪」


「何」


「まだ間に合う」


 怜司は答えなかった。


 何に間に合うのか、聞かなくても分かる。


 不正をやめること。

 自分で名乗ること。

 朝霧澪を、誰かをだますための仮面にしないこと。


 その全部に、まだ間に合う。


 しかし、怜司はポケットの端末を強く握った。


 間に合うと言われるほど、逃げたくなる。


 自分で選んだと言いながら、実は選ぶ勇気がない。そのことを、渚に見透かされるのが怖かった。


 六回裏、ホームチームが逆転した。


 球場が一斉に立ち上がり、白いタオルが何千枚も空を切る。怜司は歓声の揺れに合わせ、通路を駆けた。売り子にとって、得点直後は稼ぎどきだ。客の気分が上がれば、注文は増える。


「おめでとうございます! 勝ち越しの一杯、どうですかー!」


 五人組の若者が、次々と手を上げた。怜司は一杯ずつ渡しながら、数えた。腕時計を見る。報奨の集計締切まで、あと四十分。


 怜司のポケットには、会社支給の販売端末がある。会計が済むたび、画面に数字が増える。本来ならその数字だけが、彼の売上になる。


 だが怜司は、試合終了後に処理されるはずの、ある未確定の記録を知っていた。


 そこに少しだけ触れれば、実際には売っていない分まで、自分の成績に見せかけられる。細かな手順は、短期スタッフ向けの説明で偶然耳にしたものだった。やろうと思えばできる。誰にも迷惑はかからない、と怜司は自分に言い聞かせていた。


 実際には、迷惑がかかる。


 だが、そのことを考える余裕が、彼にはなかった。


 通路の突き当たりで、渚が待っていた。


「随分、急いでるね」


 客席の喧騒に紛れる程度の声だった。


「仕事中」


「そう。じゃあ仕事の話をしようか。朝霧さんが今日、何を増やすつもりなのか」


 怜司は笑顔を消さずに答えた。


「意味が分からない」


「分かるでしょう。売上以外の数字まで、都合よく大きくするのは、接客とは言わない」


 渚の声は、完全に女声だった。だが、言葉の切り方に、怜司と同じ訓練の匂いがあった。


「あなたも、私と同じじゃないの」


 怜司は小さく言った。


「その声も、髪も、最初からあるものじゃない」


 渚のまぶたがわずかに動いた。


「同じではないよ」


「どう違う」


「私は、人の金を抜かない」


 その言葉が、怜司の胸に刺さった。


 だが、彼はすぐに吐き捨てた。


「正義の売り子気取り?」


「そう見えるなら、好きにすれば」


 渚は背を向けた。


「ただし、今日はあなたを見張る。逃げ場はないよ、夜凪怜司」


 怜司は、呼吸を止めた。


 自分の本名を知っている。


 それが、何よりも危険だった。


 試合は七回に入った。スタンドでは恒例の風船が膨らみ始め、色とりどりの球体が夜空に向けて揺れている。選手名がコールされるたび、ライトが白くまたたく。


 怜司は、正面から渚を見られなくなった。


 しかし、相手に怯えた顔を見せれば終わりだ。売り子の仕事は、客に不安を渡さないことでもある。彼は口角を上げ、カップを渡し、礼を言い、また次の列へ進んだ。


 気づけば、今日初めて、真面目に売っていた。


 端末の数字を増やすためではない。客が笑って「次も君から買う」と言ってくれる瞬間だけを追った。


 そのとき、背後で子どもの泣き声がした。


 通路の階段で、小学生くらいの男の子が転び、持っていた紙コップをこぼしていた。保護者らしい女性が慌てて駆け寄る。怜司は反射的にタンクを下ろし、しゃがんだ。


「大丈夫? ひざ、打ってない?」


「だいじょうぶ……でも、ジュース、なくなった」


「じゃあ、これは内緒の応援ドリンク」


 怜司は予備の小さな水を差し出した。スタッフ用に持っていたものだ。


 女性が財布を出そうとしたが、怜司は首を振った。


「いいんです。今日は勝ちそうですから」


 男の子は鼻をすすりながら、少し笑った。


 その様子を、数段上から渚が見ていた。


 目が合った。


 渚は何も言わなかった。だが、さっきまでの冷たい視線がほんの少しだけ緩んだ。


 怜司は、かえって腹が立った。


 哀れまれたくない。自分は善人ではない。必要なら、数字をいじるつもりでここにいる。たまたま子どもに水を渡したくらいで、何が変わる。


 七回裏の終了とともに、売り子たちは補充のためバックヤードへ戻るよう指示された。


 そこは観客の目が届かない、コンクリートの通路だった。冷蔵庫のモーター音が鳴り、段ボール箱が積まれている。白い蛍光灯が、汗ばんだ顔を容赦なく照らした。


 怜司はタンクを置き、端末を確認した。


 報奨集計の画面が出ている。


 今ならまだ、やれる。


 指が画面の端へ伸びた。


「やめな」


 背後から渚の声がした。


 今度は女声ではなかった。


 低く、乾いた男の声だった。


 怜司は端末を握り直した。


「脅してるの?」


「止めてる」


「誰に頼まれた」


「誰にも。私が気に入らないだけ」


 振り返ると、渚はタンクを下ろし、赤いキャップを外していた。金茶の髪が首元に落ちる。近くで見ると、首筋の化粧は汗で少し薄くなっていた。


「あなたも、同じことをしてる」


 怜司は言った。


「偽名で、偽の姿で、女のふりをして働いてる。私だけを責められる立場じゃない」


「だから言ってる。同じじゃない」


 渚はゆっくり近づいた。


「私は契約のうえで、演者としてここにいる。性別を偽って採用を取ったわけじゃない。会社も、責任者も知ってる。『桐谷渚』は仕事用の名前。私は、仮面を使うことを隠していない」


「……そんな都合のいい話」


「信じなくていい。でも、端末を置いて」


 怜司は笑った。


「置いたら、私は何も残らない」


「残るよ。今日売った分の報酬は」


「それじゃ足りない」


「足りないから盗るのか」


 その一言で、怜司は我慢が切れた。


「盗る? たかが数千円だろ。球場は毎日、何万杯も売ってる。誰が困るんだよ」


「自分以外の全員が少しずつ困る。そういう仕組みが一番卑怯なんだ」


 渚の言葉は正しかった。


 正しいから、怜司は認められなかった。


 彼は端末をポケットへ滑らせ、脇を抜けようとした。だが渚が腕をつかんだ。


「離して」


「端末を出して」


「離せよ」


 狭い通路で、二人のタンクがぶつかった。氷の袋が床に落ち、鈍い音を立てる。怜司は渚の手を振りほどこうとしたが、渚の力は見た目よりずっと強かった。


「ふざけんな!」


 怜司は肩をひねり、渚の手首を払った。渚のキャップが床へ飛ぶ。金茶の髪が大きく揺れ、留め具が外れかけた。


 渚の表情が変わった。


「そういうことをするなら、こちらも遠慮しない」


 渚は怜司の制服の襟元をつかんだ。引き裂くためではない。外側のベストを押さえ、動きを止めるためだった。


「離せ!」


「端末を」


「嫌だ!」


 怜司は渚の腕を押し返し、二人は積まれた段ボールにぶつかった。箱が崩れ、補充用の紙袋が散らばる。怜司の制服の内側で、体型を整えていたタオルの束がずれた。


 渚は、それに気づいた。


「それ、何枚入れてるの」


「関係ないだろ」


「動けない原因なら、外す」


「触るな!」


 渚がベストの脇に手を入れ、固定用の留め具を外そうとする。怜司は慌てて手を押さえた。二人の手がもつれ、布地の内側に隠していた予備タオルが一枚、床へ落ちた。


 白いタオルは、コンクリートの上で不自然に目立った。


 怜司は顔を熱くした。


「返せ」


「先に端末」


「それは私のだ」


「会社の端末でしょう」


 渚は落ちたタオルを拾い、怜司から距離を取った。タオルを人目にさらすつもりはないらしく、すぐに近くの紙袋へ入れた。


「返せよ!」


 怜司は飛びかかった。


 二人は紙袋を奪い合った。中には落ちたタオルと、小さな補正パッドが入っている。どちらも衣服の下に仕込むための道具にすぎない。しかし、怜司にとっては、朝霧澪を保つための最後の部品だった。


 渚の指が紙袋の持ち手を握る。


 怜司の指も同じ場所をつかむ。


「やめろ!」


「やめるのはあなた」


 引いた瞬間、紙袋が裂けた。


 タオルが数枚、空中に散った。パッドは床へ落ちたが、制服の外には出なかった。怜司はとっさに自分の体をかばい、しゃがみ込んだ。


 その隙に、渚が彼のポケットから端末を抜き取った。


「返せ!」


「これは預かる」


「泥棒!」


「言葉を選べ」


 渚は端末を胸元のポーチへ入れた。


 怜司は、怒りと恥ずかしさで視界が狭くなった。


 自分の姿が崩れかけている。髪は乱れ、化粧は汗でよれ、制服の線はきれいではない。紙袋からこぼれたタオルを、渚が素早く拾っていることさえ、彼には屈辱に見えた。


「返せよ。私の……」


 言いかけて、怜司は止まった。


 私。


 今の声は、朝霧澪の声ではなかった。


 低く、荒れた男の声だった。


 渚は、はじめて怜司をまっすぐ見た。


「その声でいい」


「……何が」


「それが、あなたの声でしょう」


 怜司は唇を噛んだ。


 そのとき、通路の奥から足音がした。


「桐谷さん、朝霧さん。補充終わった?」


 責任者の真壁亜弥だった。三十代半ばの女性で、黒いポロシャツに無線機をつけている。彼女は散らばった紙袋、床のタオル、乱れた二人の髪を見た。


 怜司の血の気が引いた。


 終わった。


 渚が答えるより先に、怜司は頭を下げた。


「すみません。私が、転んで……」


 声は女声に戻っていた。だが、少し震えていた。


 真壁はしばらく黙った。


「二人とも、バックヤードで何をしているの」


「補充品を落としました」


 渚が落ち着いて言った。


「朝霧さんが転びそうになったので、支えただけです」


 怜司は顔を上げた。


 渚は、彼をかばった。


 なぜだ。


 真壁は二人を順番に見た。特に怜司の顔を長く見た。


「七回裏の売り子は、あと十分だけ。終わったら二人とも事務所に来て」


「はい」


 渚と怜司は同時に答えた。


 真壁が去ると、バックヤードにはモーター音だけが残った。


「なぜ黙った」


 怜司は低い声で言った。


「今、言えばよかっただろ。採用を偽ってるって」


「今ここで言ったら、客席に聞こえるかもしれない」


「それだけ?」


「それだけじゃない」


 渚は、拾い集めたタオルを紙袋へ戻した。


「私は、あなたに選ばせたい。端末を返すか。自分で話すか。逃げるか」


「偉そうに」


「そう見えるなら、そうでいい」


 渚は紙袋を差し出した。


「ただ、これを戻すのは、あなたが端末を諦めたあと」


 怜司は紙袋を見た。


 数枚のタオル。形を整えるためのパッド。ベルトの留め具。


 そんなものに頼らなければ、堂々と歩けないと思っていた。けれど今、怜司が一番苦しいのは、制服の形が崩れたからではなかった。


 自分の嘘が、もう自分を支えきれなくなっている。


 八回表、怜司は最後の販売に出た。


 渚は反対側の通路にいる。端末は渚が持ったまま。怜司は現金だけの販売補助に回され、会社の端末を使うことはできない。


 空気がぬるく、汗が首筋を流れた。ウィッグの内側がかゆい。化粧の下で肌が突っ張る。足は重い。


 それでも、客の前では笑った。


「冷えたビール、いかがですか」


 声は以前より低かった。


 無理に高く作ろうとしなかった。明るさだけは残した。


 すると、六回に水を渡した男の子が、保護者の隣から手を振った。


「おねえさん!」


 怜司は足を止めた。


「さっき、ありがとう!」


 男の子は笑っていた。


 怜司は、何と返せばいいか分からなかった。


 おねえさんではない、と言うべきだろうか。違う、と否定すれば、子どもの笑顔を壊す気がした。けれど、その呼び名にしがみつくのも、もう違う気がした。


「どういたしまして」


 怜司は答えた。


 それだけだった。


 八回裏、ホームチームは追加点を取った。球場が揺れるように沸いた。観客は知らない。通路の隅で、二人の売り子が互いの仮面を知っていることも、そのうち一人が会社の数字に手を出しかけたことも。


 だが、怜司にとっては、今夜一番大きな勝敗は、グラウンドの上では決まらなかった。


 試合終了後、売り子たちは倉庫前に集められた。タンクを返し、売上を確認し、制服を返却する。笑い声や反省会の約束が飛び交うなか、怜司だけは声を出せなかった。


 渚が隣に立った。


「事務所へ行こう」


 怜司はうなずいた。


 小さな事務所には、真壁と、売上管理を担当する男性スタッフがいた。机の上には端末が置かれている。怜司が触れかけた画面は、操作されていなかった。


 真壁が言った。


「朝霧さん。まず確認したい。あなたの登録情報について、説明できる?」


 怜司は息を吸った。


 渚は何も言わない。


 ここでさらに嘘を重ねることはできる。声を作り、泣いたふりをし、困った事情を並べることもできる。たぶん、少しは時間を稼げる。


 だが、今までのように、鏡の前で役を選ぶ感覚がなかった。


「……朝霧澪は、私が作った名前です」


 自分の声で言った。


 事務所の空気が止まる。


「本名は夜凪怜司。二十六歳です。登録書類に嘘を書きました。売上の記録にも、触ろうとしました。実際には操作していません。でも、やるつもりでした」


 真壁は、目をそらさなかった。


「なぜ」


「金が必要でした」


「それだけ?」


 怜司はしばらく黙った。


「……本当は、誰かにすごいと思われたかった。女の人として売れてるんじゃなくて、朝霧澪として売れてるって。自分で作ったものが、誰よりも本物に見えると証明したかった」


 言い終えたあと、怜司は急に恥ずかしくなった。


 情けない理由だった。家賃も、仕事のなさも、嘘ではない。でも、それだけではない。自分が作り上げた姿に拍手が集まるのを、彼は楽しんでいた。だから手放せなかった。


 真壁は机の端を指で軽く叩いた。


「夜凪さん。あなたが女装していたこと自体を、私は問題にしていない」


 怜司は顔を上げた。


「問題は、採用手続きで虚偽の申告をしたことと、会社の記録を不正に扱おうとしたこと。それから、職場で揉め事を起こしたこと。ここは分けて考える」


 言葉は淡々としていた。


 だが、怜司は救われた気がした。すべてを一緒くたに否定されなかったからだ。


「今後、今日の報酬は規定に従って精算する。登録の扱いは契約部門と相談する。少なくとも、明日以降の勤務は停止。異論は?」


「ありません」


「桐谷さんから、あなたが無断で端末を操作していないことは聞いている。だからこそ、自分で話したことは記録しておく」


 真壁は渚を見る。


「桐谷さんも、バックヤードでの接触については報告書を書いて。正しいと思っても、相手の制服や私物を無理に扱うやり方は危険だから」


 渚は短くうなずいた。


「分かりました」


 怜司は驚いた。


 渚も叱られた。自分だけが悪いと思っていたわけではないが、渚なら何も咎められずに済むと思っていた。


 真壁は二人に言った。


「嘘を暴くことと、人を傷つけることは違う。覚えておいて」


 事務所を出ると、もう球場は半分消灯していた。観客のいなくなったスタンドは、さっきまでの熱が嘘のように静かだった。外では清掃車が走り、紙コップを集める音がする。


 怜司は荷物を持って、通用口へ向かった。


 渚が後ろから呼んだ。


「夜凪」


 その呼び方は、意外に普通だった。


 怜司は振り返った。


 渚はウィッグを外していた。金茶の髪の下から、短く切った黒髪がのぞいている。化粧を落とした顔は、派手な印象とは違って、疲れた若い男の顔だった。


「私の本名は、桐生玲」


 怜司は黙っていた。


「二十八。舞台衣装の仕事をしてる。今日は、会社から頼まれて売り子の研修と現場確認に入ってた」


「最初から、私を調べてた?」


「半分は。あなたの登録が怪しいという話はあった。でも、何をするつもりかまでは分からなかった」


「だから近づいた」


「そう」


 怜司は乾いた笑いを漏らした。


「なら、最初から捕まえればよかっただろ」


「そうすれば、たぶんあなたは『ばれたからやめた』だけになる」


「何が違う」


「自分で止まるのと、止められるのは違う」


 玲は、怜司の手にある紙袋を見た。


「返す」


 紙袋の中には、散らばったタオルと補正具が、きちんと畳まれて入っていた。


「最初から捨てるつもりはなかった」


 怜司は受け取らなかった。


「いらない」


「本当に?」


「……いや。必要になるかもしれない」


 玲は少し笑った。


「それでいい。道具が悪いわけじゃない。使って誰かを騙すなら悪い。でも、舞台に立つために使うなら、ただの道具だ」


 その言葉で、怜司は紙袋を受け取った。


 通用口の外には、夜の熱気が残っていた。遠くの駅へ向かう人波が、ゆっくりほどけていく。


「明日から、どうする」


 玲が聞いた。


「さあ」


「舞台衣装の現場、手が足りないところがある。声が出せるなら、ナレーションの仮録りもできるかもしれない」


「雇ってくれるの?」


「信用はない。だから最初から高い仕事は渡せない」


 玲はきっぱり言った。


「でも、今日のことを隠さず話せるなら、紹介くらいはする」


 怜司は、すぐには答えなかった。


 自分の名前を名乗って働くことが、怖かった。朝霧澪のほうが完成されている。夜凪怜司は、声も低く、顔つきもきつく、金もなく、失敗した男だ。


 けれど、朝霧澪は今日、終わった。


 終わったからこそ、次は自分で選べる。


「紹介だけでいい」


 怜司は言った。


「仕事をもらうかは、自分で決める」


「それでいい」


 玲は先に歩き出した。


 怜司は少し遅れて、後を追った。


 球場の灯りが、背中の後ろで一つずつ落ちていく。


 紙袋の中では、畳まれたタオルが軽く鳴った。さっきまでなら、それは嘘を支えるための部品だった。今はまだ、何のために使うのか決まっていない。


 ただ、怜司は思った。


 次に何かを身につけるときは、それを仮面ではなく、仕事の衣装にしたい。


 七回裏、仮面は汗に濡れた。


 だが、夜凪怜司の声は、そこで初めて残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ