今か昔日6
「お見合いに行ってこい」
そう父親が口にした。
朝一番に尾白の顔を見に行こうとしたところ、唐突に何の前置きもなく言われた。
朝からケンカしたくないけれど、佳乃女は以前と変わらずお見合いを拒否する。
「嫌。何度も言ったよね。わたしは誰とも結婚する意思はないし、お見合いも嫌だって」
「聞いたぞ。そしてお見合いをしなくて良いとは言っていない」
「わたしは尾白と夫婦になるの」
そう彼女が口にすると、一瞬父親の表情が動いたが、すぐに目元を険しくする。
「世迷い言は止めないか。誰かに聞かれたらどうする?」
「それは……だけど、尾白以外と結ばれるなんて考えられない」
真剣に訴えて納得してもらえる内容じゃないが、真剣さを見せないと永遠と同じことを繰り返すだけになってしまう。
認めさせなくても、呆れさせて諦めてもらう方向には持っていけるはずだ。
「何度も言わすんじゃない! 尾白と夫婦なんて許さないぞ! そもそも尾白は馬だ。家畜だ! お前はとにかくお見合いに行って、縁談相手に会ってこい!」
お見合いは嫌だと伝えているのに、まるで妥協してあげたみたいな物言いに、佳乃女も我慢が出来ずに頭に血が上ってしまう。
「こっちだって何度言わせるの! わたしは絶対に嫌! お見合いなんてしない!」
叫び返し、肩を怒らせて睨むこと数秒、親子ゲンカに割って入る声。
「おはようございます。今日はよろしくさん」
突然、家族以外の声がして振り向くと、母親よりも一回り以上年上の女性が戸を背に立っていた。
この睨み合う親子ゲンカの中、笑顔をたたえて身体の前で手をそろえている。
「佳乃女ちゃん、今日はお見合いよろしくね。会うまでは緊張するだろうけど、縁談相手の方と顔を合わせてしまうと以外とどうにかなるものよ」
不安になるのも分かると言って、板の間に上がってくる。
佳乃女がお見合いを嫌がっていることは、親から女性に伝わってるらしい。
よく見ると女性は、お見合いをする友達から聞いていた村に居る仲人のおばさんだった。
お見合いの言葉に父親を睨むように見やった。
「前は話しただけでも嫌がってたからな。もう先にお見合いの日にちを決めといたぞ」
有無を言わさない言い方をされ、それでも尾白の他に考えられない佳乃女は身を乗り出す。
「なに勝手にっーー!?」
手を取られて言葉が途切れ、黒い髪を乱しながら振り返ると困り顔の母親と目が合った。
「これから外出の準備でしょ? お手伝いしますよ。ぱぱっと二人で済ましちゃいましょ」
「待って! お見合いなんて! 止めっ……!」
仲人のおばさんに背中を押され、知り合い程度の相手に怒るに怒れず、奥の部屋に連れてかれた。
そして外出用の良い着物を着させられ、肩を押さえられながらクシで髪を梳かされ、薄らと化粧も施された。
「あらあら、お人形さんみたいに可愛らしいわ。素が良いってのもあるけど、お化粧も余りしなくていいって、若いって羨ましいわね」
おばさんの羨む声は聞き流し、佳乃女は普段よりも明るい着物と化粧、着飾った姿にちょっと頬が緩んでしまう。
お見合いは嫌なのに不覚にも嬉しくて、この着物姿を尾白に見てもらいたくなった。
しかし、外出する準備が出来るやいなや、縁談の会食に連れ出されてしまう。
「待って! 尾白に会ってから!」
「ダメですよ。相手を待たせないように、早めに出発しなくちゃいけませんからね」
ぐいぐい腕を引かれ、尾白は小窓から出す横顔を一瞬だけしか目にしていない。
しかも、お見合いは丸一日かかった。
村の入り口近くまで歩き、そこからバスに乗せられて村の外に出る。
路面の問題を差し引いても、普段から乗りなれない乗り物は、尾白の方がよっぽどお尻に優しかった。
しかも車酔いにあってしまい、途中下車してバス停で休憩し、一本遅らせることになり、仲人のおばさんは早く出発して正解だったと胸を張った。
嫌々、無理矢理連れてかれたにも関わらず、ちょっと村の外への遠出に非日常を覚えてわくわくしてしまう。
けれど結局のところ、予想通りだった。
お見合いは非常に退屈で、相手の名前も顔もあやふやで思い出せない。
それは帰り道の時点でそうだった。
見た目は堅実そうな男性だった気がするが、やたら見つめてきて気持ち悪かった印象しか残ってない。
好きでもない相手にジロジロ見られ、容姿を褒められたところで嬉しくないし、話は何も頭に入って来なかった。
『えぇ……』とか『あぁ……』とか『はい……』や『そうですか』くらいしか口を開いていない。
よくこれで帰らずに我慢したものと自分を褒めたいくらいだった。
素っ気ない態度だったにも関わらず、時間が来ても引き止めるくらいなので、控え目で大人しい女性と思われていたのかもしれない。
ただ佳乃女の頭には尾白に会いたいという思いしかなかった。
今朝は無理矢理背中を押されて出たので、出かけ際に一目しか出来ていない。
いきなり仲人のおばさんが現れ、一緒に相手と待ち合わせしている会食に連れて行かれてしまった。
あのお互いに好きなことを確認し、尾白と両想いだと分かって以来、毎日抱き付いて口づけをしている。
もちろん、両親には内緒でこっそりと。
それに元から好きだったけど、恋と自覚した途端に会わない時間が寂しく感じるようになった。
出来るだけ一緒に居れるように散歩を長くしたり、何かある毎に厩へ足を運ぶようになった。
しかも最近は尾白を思うだけで心が弾む。
なので、一日中ずっと早く帰って抱き付きたいと恋しかったくらいだ。
帰りも日が沈む前に帰ろうとしたのに、引き止められてすっかり暗くなってしまったけれど。
おばさん的には相手の反応が良かった証だと、前向きに捉えていた。
帰って尾白に会いたかったが、暗くなって心配したのか、父親が家に続く道までランプを手に出てきていた。
「おかえり、佳乃女」
そして顔を見るやお見合いの結果を聞かれた。
「別に興味ない。何なら顔も覚えてないし、何にも印象に残らなかった」
そう素っ気なく答え、下からランプに照らされる父親を睨む。
「だから、もう止めてよね。勝手にお見合いの日取りを決めるの。絶対に何があっても、二度と行かないから」
同じことは絶対に嫌なので、父親を冷たく突き放す。
父親は仲人のおばさんにお礼を述べた。
「今日は娘がお世話になって、ありがとうございました」
「いいえ。相手方も気に入ったようですし、また近い内に私の方からお話に窺うかもしれません」
絶対無いと父親の陰から、何にも悪くないおばさんを睨む。
そうして仲人を務めたおばさんと分かれ、親子二人夜道を帰る。
せめて一日の最後くらいは、尾白に今日の姿を見てもらって終えたい。
だから厩へ足を運ぼうとしたが、父親に腕を掴まれて母屋に引っ張られる。
「ちょっと! お父さん?」
「もう暗い。お腹も空いただろ? 晩ご飯を食べよう」
「? 今朝会ってないから、ちょっとだけ尾白に会いたいんだけど」
空腹は確かに覚えるけれど、我慢出来ないほどじゃない。
それにお見合いの感触がよくなかったのを知り、会わせないようにしているとしか思えなかった。
「いいから。せっかくの着物が汚れるだろ? 先に着替えなさい」
「何で! この着物を見せたいの!」
「ダメだ。着替えて晩ご飯を食べるのが先だ」
父親に引きずられ、温かな家に入れられた。
「おかえりなさい。ずいぶん遅かったのね」
直前まで口ゲンカをしていたが、母親の顔が迎えてくれて、肩から力が少し抜けた。
「相手がなかなか帰してくれなくてね。つまらない話をずっとされてたよ」
ここでもお見合いは最悪だったと口にし、お見合いは本気で嫌だという印象を与える。
「そうなの。じゃあ、早く着替えて晩ご飯にしましょうか」
気まずい雰囲気を察した母親が、固い声で促して衝突を逸らそうとする。
「手伝って佳乃女」
「はい」
着替えたら二人で晩ご飯の用意をし、囲炉裏を囲み、円座の上に座って席に着く。
五徳の上には鉄瓶が置かれ、自在鉤からは汁物の鍋が吊されている。
「いただきます」
よそい終わった器たちを前に手を合わす。
早く尾白に会いたいけれど、正直出かけて退屈であってもお見合いに疲労していたため、母親の手料理の匂いを嗅いでしまえば、尚更食欲を無視できなくなった。
汁物の具を箸で押さえ、縁に唇を寄せて、器を傾けて飲む。
舌に具材から出た旨味が広がり、温かい汁物に身体から無駄な力みが抜ける。
食事中は黙っていても全然おかしくないので母親とも喋らず、順番に箸を伸ばす。
無駄でしかない縁談の話をしたくなかったので、彼女は咀嚼をいつもより多く噛むようにした。
けれど、不意に口を開いてしまう。
「お肉? 珍しいね。おいしい」
余り佳乃女の家では肉を食べないので、久しぶりの肉を箸で口に運ぶ。
すると父親がボソリと言う。
「まぁ、お見合いがどうなるかはともかく、佳乃女が頑張ったからな」
「……」
頑張ったと表現されると後ろめたさが無いわけではないが、無理矢理行かされた事実は許していないので、お詫びだと思うことにした。
「何のお肉?」
肉は余り食べないので、今口にしている物が何肉なのか気になった。
近所からおすそ分けで鹿やイノシシは年に数回食べるけれど、その二匹に比べてずいぶん臭みを感じない。
「ああ、馬肉だ」
この疑問は調理した母親に向けての問いかけだったけれど、予想もしていない父親から答えが返ってきた。
そして耳にした言葉に思考が止まる。
「え……ば、肉?」
直感で嫌な予想が浮かび、母親の顔を振り返る。
すると顔を伏せて、組み合わせた指を弄り出す。
視線に対しての返事が返ってこないが、言い淀んでいる姿が何よりもの証明だった。
急な息苦しさを覚え、動悸が異様に乱れる。
けれど信じがたくて、信じたくなくて繰り返し呼ぶ。
「お母さん?」
「あ、あのね佳乃女……お母さんは何も知らなくて……お父さんが突然ね。ウチもトラクターにするんだって。それでね……」
その先は聞かなくても想像出来てしまって、その場で呑み込んだ物を吐いてしまう。
胃がひっくり返るかと思えるくらい戻し、囲炉裏の灰の中にまで飛び散る。
箸と器が音を立てて転がり、円座の端を濡らして板張りの床を汚す。
喉がヒリつき、鼻からすえた臭いが抜けた。
視界が一瞬で涙に歪み、心の底から嘘であって欲しいと叫んだ。
だけど他の可能性が思いつかなかった。
馬肉の正体は一つしかない。
伏せていた顔を上げ、苦しげに目を眇めて叫ぶ。
「何で! 何でそんな酷いこと!」
吐しゃ物の糸を口端から引きながら、涙が頬を伝う瞳で睨む。
「お前が尾白と夫婦になりたいとか世迷い言を口にしたからだろ! ましてやーー!!」
父親は怒鳴り返しながら言葉を切り、囲炉裏の枠木に手をついて目を血走らせた娘を睨み返す。
「ぐっ……!!」
父親には厩の血に対する確認を娘にする勇気が無かった。
それが余計に不安と想像を掻き立て、尾白どころか、一時的でも娘にすら憎悪を向けてしまう。
あの厩で血が付いた床を目にした時、尾白に怪我は無く出血の様子も無かった。
単に尾白と夜を過ごした日に限って月の物だった可能性もあるし、月の日は妻も気持ち的に余裕がなくなる時もあるため、良い子な佳乃女があそこまでお見合いに反対したのも、月の物からくる不安定さだと結びつけようとした。
その方が都合が良いのと、そうあって欲しいという逃避から、目を逸らしてしまった父親。
そもそも獣姦の疑惑を人に相談出来るわけがなく、見て見ぬフリをして自分だけの胸にしまい込む他になかった。
けれど人間はそう簡単に割り切れるようには出来ておらず、胸の内にしまい込むには問題が大き過ぎて、どうしても気がかりで心配で不安だった。
そんなおりトラクターを安くするという業者が父親の前に現れた。
しかも国内製の試作型のトラクターで、実際に使用してもらって利用評価を受け、問題を洗い出し、開発と改訂に役立てる目的もあり、試験も兼ねるから勉強させてもらうと交渉された。
農耕を牛や馬からトラクターなど、重機に変えた農家の話は耳に入っていた。
営業の男性は更に説明を続け、後部に取り付ける作業機を取り替えることで、田起こしや代かきなど基本的な農作業が行えると勧められる。
現実的に移行するとなると少なからずお金がかかるし、変更するという選択をする以上、ためらいや不安が付きまとう。
さすがに即決なんて無いと分かっている業者の男性は、父親に寄り添うように不安を持つのも仕方なしと言葉にした後。
もちろん一部馬搬でしていたことも可能で、後に畦塗りや他の作業も出来るように開発していく予定だと補足説明を口にした。
『エサもかからないし、動物でないので言うことを聞かないなんてこともありません。価格は抑えて安くするのでどうです? 試しに』
尾白が言うことを利かなかったことなんて即座には思い出せないが、動物でないという文言に引かれた。
『……いや、試しと言わず試験で使わせて下さい』
静かに返事をしたものの、これ幸いとばかりに購入し、とりあえずお見合いの算段を立てた。
そして今日相手に会って来いと娘を引き離し、その間に解体の上手い知り合いの手を借り、尾白を殺して肉に変えて加工した。
大人しい気性だったが、賢かったため何かを察したのだろう。
始めて見るくらい尾白は抵抗を見せて、知り合いたちと共に苦戦する。
ずっと農作業で働いてもらったので何も思わないわけではないが、娘の幸せを想いと娘を傷物にしたかもしれない憎さが勝った。
肉と皮になった尾白が目の前に並んだ時、寂しいような一安心したような言い表せない感情をいだいた。
けれど感傷も一時的なもの、家畜なら遅かれ早かれ訪れる運命であり、娘をたぶらかした障害を取り除けたことに手を握っていた。
誰かに引き取ってもらう方法もあるが、引き離すだけでは会おうとするのではと不安だった。
「うあぁぁぁぁーっ! はぁ、くっうぅっ……!」
涙目の佳乃女は悲しみよりも、理解の追いつかない怒りと混乱が渦巻いていた。
今も逆流しそうな嘔吐きを覚えながら、ヒリつく喉で必死に呼吸する。
確認するのが怖いけれど立ち上がり、ふらつく足で厩に向かう。
その様子に心配した母親が手を伸ばすが、佳乃女はその手をすり抜け、土間に下りて草履を引っかける。
上手く履けないけれど、急く気持ちは抑えられず、勢いよく戸を開いて飛び出した。
「佳乃女! 待ちなさい!」
背中に静止の声がかかるが無視をして、人の暮らす家よりも屋根の低い厩へ駆ける。
産まれてから数え切れないほど往復し、両想いと分かってから楽しみに歩いた道だ。
暗くても見えなくても迷いようがない。
喉が引きつりながらも走る肺に、冷たく凍りそうな空気が流れ込む。
剥き出しの肌に寒さが切りかかった。
「尾白……尾白! 尾ーー白っ!」
厩に前のめりになってたどり着き、思いっきり入り口を開け放った。
「尾白っ、くっ、ううっ! ああっ!」
板壁に囲われた中に尾白の姿は無く、がらんと虚しい暗闇が静かに存在しているだけだった。
まだ稲わらは敷かれたまま、壁にある首を出していた穴から風が通り抜ける。
その風に吹かれて、壁にかけられている物に気がついた。
僅かに端が揺れたそれは馬の皮で、すでに尾白がこの世に存在しないことを意味していた。
脚が崩れそうになりながら皮のかかる壁に駆け寄り、言葉にならない悲痛が佳乃女の口から飛び出した。
彼女は喉が割れるほど叫び、かけられている皮を握り締めてしがみ付き、小さな頬を当てて涙を流す。
昨日抱き付いた時と変わらず、まだ尾白のニオイがして、より恋しくなり胸が締め付けられる。
けれど失った悲しみに心臓が張り裂けそうでもあって、もう嵐のように感情が荒れ狂って自分自身分からなくなっていた。
するとランプを手に持った父親が追い付き、泣き崩れる娘に言葉をかける。
「いい加減目を覚ませ……人と動物なんて無理なんだ。佳乃女は子供じゃない。分かるだろ?」
「うるさい! 子供じゃないから……子供じゃないから! 相手に尾白を選んだんだよ!」
今は何も聞きたくない、一人にして欲しくて悲痛に叫び返す。
「なのに……なのに! こんな酷いことするなんて! お父さんは人間じゃない! お母さんも大っ嫌い!」
「佳乃女、お前!?」
皮になっても尚影響する尾白を父親は睨み、子供に否定された怒りを向けた。
父親はロウソクに火を灯す際に使うマッチを取り出し、着火させて皮の下に敷かれた稲わらに投げ入れる。
ある程度乾燥した藁はすぐに煙を上げ、側で火の付く様子を目にした佳乃女が勢いよく振り向く。
「何するの!?」
「その皮を燃やすんだ! 皮になってまで佳乃女をたぶらかすなんて化け物だろ!」
パチパチと爆ぜだし、煙が佳乃女にもかかりだす。
「嫌……もう嫌! 止めて!」
涙を零しながら壁にかかる皮を力ずくで剥ぎ取り、我武者羅にかき集めるように胸に抱えた。
立ち上がる勢いのままに厩を飛び出し、戸の前に立っていた父親を小さな身体で体当たりして逃げた。
冷たく肌を刺すような寒気が頬を襲い、駆けながら尾白を身体に巻いて暗闇の中に身を投げる。
父親の怒鳴り声が聞こえても、後ろは振り向かない。
家の周りなら明かりがなくてもどうにかなるけれど、どこに行くか考えた時、誰にも頼れないことに気がついた。
婚姻が決まっていなくても、友達には迷惑をかけたくないから頼れない。
助けてくれても、何があったか話せないし、話せずに黙ってしまうことに罪悪感を覚えてしまう。
涙に濡れた頬が凍りつきそうに冷たく、髪を乱すほどの風が吹きつけて余計に寒さを感じた。
「尾白……」
彼のニオイに包まれながら、雲間から星の覗く夜空よりも暗い里山に足を踏み入れた。
入り口付近は風に揺られて植物がざわついていたが、奥へ奥へ進むにつれ、よほど強風で無い限り静寂が広がっていた。
連れ戻されたら確実に尾白の皮が処分されてしまう。
だから追っ手を恐れて道を外れると、秋に積み重なった落ち葉に足を踏み入れる。
ガサガサと大きな音が立ってしまうが気にしている余裕なんて無い。
落ち葉が敷き詰められた地面に足を取られ、何度も足元を滑らせながら、木々に手をついて奥へ逃げ進んだ。
足のつま先さえ見えない中、闇雲に歩く。
斜面に加えて落ち葉で滑る足元に、体力を奪われて息が上がった。
歩き回っているとはいえ寒さには勝てず、鼻の頭や耳、指先の末端が感覚を失いそうなほど冷えてくる。
もう両親の元には戻れない。
きっと父親の様子から、今度こそ無理にでも結婚させられてしまう。
そうなれば男性に身体を触れられる。それを思うとゾッとする。
疲労と寒さが限界になった頃、夏場の避難用なのか小さな山小屋を偶然見つけた。
伸ばした指先に板壁が触れ、手探りで小屋を回り込み、建て付けが悪くなった戸を押し開ける。
入った中は人気は無く無人で、外と同様に暗いけれど、夜の外気に触れないだけ寒さが弱まる。
言っても寒くないわけではなく、土間から一段高くなった畳は驚くほど冷たかった。
触れた感じ畳はすり切れていたり、ホコリっぽかったりして、より冷えが助長するかのように感じた。
入り口の土間の隅には、薪と火鉢があったが、手探りでは火をおこせそうな物が見つからなかった。
部屋の中を更に手探りで調べた結果、使えそうなのは潰れて湿った敷き布団一枚。
仕方なく布団を半分に折って厚みを出し、身体を縮めて尾白に包まって横になる。
佳乃女は身体が小さかったので、余分に包まることが出来て寒さに耐えられそうだった。
尾白のニオイに包まれ、通じた日のことを思い出して寂しくなるが、とうに涙は涸れていて一粒も零れない。
「寂しい、寂しい、寂しいよ……尾白」
佳乃女は切なさと虚しさに胸を痛めながら、否応なくやってくる疲労に呑まれて眠りについた。
翌日。
瞼の裏に感じる眩しさに、佳乃女は眠りから目が覚めた。
泣き腫らしたのでやぼったく、眼に違和感を覚える。
それに疲れていても寒さでよく眠れなかったため、横たわる身体が重く感じた。
指先もつま先も冷たく、息をする度に冷たい空気が喉を通り、吐く息も幽かに白く煙った。
「……」
彼女は縮こまったまま、寒さに鼻をすすり、目を眇めながら首を廻らす。
眩しい陽射しは小さな窓からで、ずいぶん高いところに一つだけらしかった。
部屋の物も、暗闇で探索した以上の物は見当たらない。
そして昨夜の出来事を思い出す。
「くうぅぅ……っ」
身体に巻く皮を握り締めながら自身の身体を抱き、ニオイはするのに尾白が居ないことにすすり泣く。
夢じゃなかったと涙を零しながら、寒さが和らぐ昼間にもう一度寝て体力の回復を図るか、しばらく小屋に身を隠すかすれば良いと思った。
「尾白……」
一緒に眠った時の体温も呼吸も感じられない虚しさに、余計指先が寒さを感じた。
浅い眠りから身体を起こす。
眼は相変わらずやぼったさが残り、ぼさぼさの長い髪に手ぐしを入れる。
「小屋を出よう」
独り呟いて立ち上がり、尾白を頭からかぶって、小さな土間で草履を履く。
このまま小屋にいては捕まってしまう。
昨夜は暗い山の中を手探りでたどり着いたから時間がかかったが、小屋へは当然道があり、大人の足なら今日中に追いつくこともあり得る。
空腹と喉の渇きを覚えるが、村の方に下りていく気にはなれず、水を探すことにした。
馬肉が尾白と知らされ、胃の中の物を吐いてから、口の中をすすいでいない。
空腹感はあるけれど、尾白を美味しいと感じてしまったことが頭を過り、中身の無い嘔吐感に胃がキュッと痛む。
思考はずっとぐるぐるしていて、尾白がこの世に居ない絶望と、好きな相手を口にしてしまった罪から死を望んでしまう。
それに死ねば尾白に会えると思いながら彷徨った。
葉の落ちた枝の間から日が差すけれど、空気はしんとして冷たく、少しの風でも身体が震える。
時折足を止めて耳を澄ましていると、斜め後ろからガサガサと枯れ葉が立てる大きな音がした。
完全に川の音ではないのは明白。
この時期に珍しいが、まだ眠れていない熊かと、彼女は一番最悪な予感と共に振り返った。
「お前……佳乃女か!?」
何の偶然か言い寄り諦めずに夜這いをしてきた男子が目の前に現れた。
「ーーっ!?」
佳乃女は野良着姿の相手を前にし、夜這いの時の恐怖から身が竦む。
彼が野良着の上に防寒着を重ね着した腕を伸ばしてきた。
「おい、こんなところで何してるんだ? かぶっているのは皮か? そんなのかぶって一人でいると獣に間違われて危ないぞ」
穿いた脚絆で枯れ葉をかき分けながら、怯える佳乃女に手を伸ばして近づく男子。
「嫌! 来ないで!!」
指が目の前まで迫り、上半身を反らしながら躱した彼女は、背中を見せて更に山の奥へ逃げ出す。
「おい! 待て! そっちは危ないぞ!」
呼び止めながら男子が後を追ってくる。
しかも一緒に山に入っていた大人も居るようで、遅れてついてくる音が聞こえた。
「追ってこないでよ!」
後ろに叫びながら、合わせ目の首元を片手で押さえ、もう片手で木に手をつきながら走った。
道を走るよりも大変で息が上がり、振り向かなくても音だけで徐々に狭まる男子との距離に焦りを覚える。
なぜ追いかけられなくてはいけないのか、じわじわと迫る気配に身体が震えた。
「きゃっ!?」
長い尾白の皮が掴まれ、後ろに引かれて倒れそうになる。
とっさに足で踏ん張って振り向き、肩で息をして表情を歪める男子を泣き腫らした目元で睨め付けた。
「触らないで!」
誰にも尾白に触れて欲しくなくって腹が立った。
だから瞬時に傾斜を利用して身体ごとぶつかっていく。
力で叶うはずないので、直感的に不意打ちを食らわせる。
奇襲をかけた佳乃女の予想通り、衝撃を受け止めきれない相手から声が上がる。
「うわぁっ!?」
男子は足を滑らせて斜面を転がり、ガサガサバリバリと大きな音を山に響かせる。
一緒に追ってきていた大人が、落ち葉を巻き上げながら転がる彼を助けに駆け出した。
佳乃女は軽かったために、男子ほど地面を転げ落ちず、二回転ほどして落ち葉の中で止まった。
「大丈夫か!」
葉の落ちた木々の間を、大人の驚いた低い声が響く。
佳乃女は落ち葉を散らしながら起き上がり、より尾白をきつく身体に巻き、男子たちには一瞥もくれずに逃亡を図る。
尾白を失って生きている意味も分からないのに、会いたくない男子に追いかけられ、余計に守ってくれていた尾白が恋しくなった。
一心不乱に山の中を彷徨いながら、いっそのことこんなことになる前に、交わった夜に二人で逃げ出せば良かったと涙が流れる。
こんなことなら一緒に逃げて、海を見に行ったりすればよかったと後悔した。
きっと尾白となら知らない土地でも生きていけいけるし、根拠なんて一つも無いけれど、二人でなら何とかなるという自信がいくらでも湧いてくる。
そんなことを考えてしまうと、尾白に会いたくて会いたくて堪らない。
こんな気持ちは初めてで、わけ分からなかった。
後悔に頬を濡らし、顔をぐしゃぐしゃにして、喘ぎながら逃げ続けた。
しかし、再び男子に腕を掴まれてしまう。
「離して! 触らないでよ!」
身を捩り抵抗するけれど振り解けない。
あの夜這いの夜を思い起こされ、頭で分かっていても抵抗を止められない。
「バカ! この近くは最近崩れて危ないんだぞ!」
本気で心配して注意してくれるが、掴まれている部分がおぞましくて振り払う。
「知らない! 放っておいてよ!」
もう腕を掴まれないように、胸の前で両手を握り背を向けた。
一刻も男子から逃れたくて、手の届かないところまで逃げたくて、再び木を縫って駆け出す。
今は誰にも会いたくないし、誰の言葉も聞きたくない。
「待て! そっちは!!」
背中に怒声がかかった瞬間、佳乃女が踏み出した片足が空気を踏み抜いた。
「ーーっ!?」
続いて残った足が地面の切れ間で滑り、浮遊感を全身に感じて息を呑む。
地面が崖状に崩れて急に足元が無くなり、ゴツゴツとした不揃いな岩が無数に落ち葉の間から覗く地面が眼下に広がっていた。
縄を垂らして下りるなんて、到底無理な高低差で、大きく崩れた影響で樹木など無く開けている。
そして佳乃女の身体は、その岩の突き出た地面に向かって落下する。
身体に巻いていた皮が広がり、長い黒髪が尾を引いて揺れた。
「尾白……」
好きな相手を呟いた佳乃女は、尾白が離れないように抱き締め目を閉じた。
確実に助からないことを悟った彼女の身体は、容赦なく岩の突き出た地面に叩きつけられた。
「はぁはぁはぁ、はぁっーー」
鈍い音を聞いておきながら、男子は息を切らして崖下を覗き込む。
男子と一緒に彼女を追った老人も崖先を見下ろし、落ち葉散らばる岩肌の覗く地面の上で、ピクリともしない若い娘に手を合わせた。
崩れたところを避けて下り、二人で佳乃女の遺体を回収。
厩が焼けたらしい家へ帰した。
全身に強く打った打撲痕が残り、頭からは一筋出血が見られた。
死んでも尾白の皮を羽織ったまま離さない遺体は、佳乃女が彼を追ったように両親の目には映った。
ーー翌年、村の田畑は不作になった。
原因は天気などの気候によるものだが、村人の中には佳乃女と尾白の不在を口にして一緒に語ったため、いつしか不作の原因として結びつけられてしまう。
ーーそしていつしか春先の朝靄に娘と馬の姿を目にした年は、豊作になるといういわれが村に語り継がれるようになる。




