今か昔日5
久しぶりに温かな陽気の縁側。
佳乃女は母親と一緒に包丁を手にし、もらった渋柿の皮を剥いていく。
今年できた甘柿は食べたので、これから作る干し柿が楽しみだった。
枝付きの渋柿を手に取り、包丁の腹に親指を置いた刃を皮にあてる。
ゆっくり柿を回しながら剥いていき、膝の上に帯状になった皮が折り重なっていく。
「上手くなったな」
干し柿作りの様子を目にした父親に褒められる。
父親は近所の男性何人かと、今年最後のキノコ採りに行っていて、帰ってきていた。
「お帰りなさい。でも、その言葉去年も一昨年も聞いたよ。小さい頃から手伝ってるんだから出来るよ」
「そうか? 去年よりもきれいに出来てる気がするが? 母さんみたいだ」
そう言って背中のカゴを下ろしながら、佳乃女よりも手元が速い母親に視線を移す。
「そりゃ、佳乃女の倍はやっていますからね」
小さく母親は微笑んで次の干し柿を手に取る。
口では何てこと無い風に返したが、褒められたことは満更でもなく、嬉しそうだった。
皮を剥いた柿はヘタの先に残した枝に縄を巻いて縛り、一本の縄に数個渋柿を取り付け、風通しの良い軒下に吊す。
佳乃女のところはそれほどでもないが、沢山干し柿を作るところは簾のように視界を埋め尽くす。
「お父さんの方はどうだったの?」
山で採ったキノコが入っているだろうカゴを見やる。
「例年通りかな」
たった一言そう父親は答えた。
「じゃあ、今日はわたしの好きなキノコ汁?」
佳乃女は母親を振り返り、嬉しそうにそう口にする。
本格的な冬の手前。
里山の樹木の計画しての伐採で出た丸太なんかを尾白に引かせ、馬搬で山から下ろす。
木が増えすぎて逆に陽射しが届かないのも良くなく、木々の間を抜けられる馬が役立つ。
話に聞く重機などでは通る場所を用意するため、必要の無い伐採をしなければならないし、木の根周りの土を押し固めてしまう可能性もあり、余りよくないという。
それに馬なら作業道がなくても間を縫って歩いて入れるため、自然に折れて倒れた木も楽に取り除くことが出来た。
切り出した木は尾白が牽引して家に運んだ後、残った枝を払って幹を切り、短い丸太状にして更に割って薪にする。
薪は乾燥させてから燃やさないといけないので、早くても一年後まで待たないといけない。
冬の間尾白は主に小屋の中だが、雪が深い時の外出にも乗ったり、荷物を背負わせたりする。
寒くなって外出が億劫になり、ふだんの着物の上に綿入れを着込み出す。
そしてお風呂の小屋も無事建て直された頃、友達に見合い話があがった。
それは噂などではなく、本人から直接聞いた。
自分のことじゃないのに、とうとうという気持ちにさせられる。
お風呂小屋が潰れ、かり湯をしに尋ねた日。
こっそり聞かされていたけれど、やはり友達として心配になった。
だからと言って何か出来る訳でもない。
もう彼女はお見合いを受け入れていた。
それどころか少し楽しみとまで口にしていた。
かり湯の時は戸惑った様子だったのに、時間を置いたため気持ちに整理がついたのかもしれない。
しかし、その気持ちは佳乃女には分からないものだった。
『あとは縁談が相手の中から、養ってくれる伊達男を選ぶだけよ。どうせ親が良いと思った話しか来ないなら、その中から選べば反対されることなんてないじゃない』
確かにそうだけれど、そうあっけからんと言われてしまうと、もう口出ししても良いのか分からない。
『なに心配そうな顔しちゃって。お見合いをするのは私なんだから、佳乃女は私がいい人を見つけられるように祈ってくれてれば良いんだよ。前に励ましてくれたから、お見合いを前向きに思えるようになったんだよ』
いつもと変わらない笑顔で手を握られ、友達に何も言えなくなってしまった。
すると父親も佳乃女が心配になり、お見合いを考えだす。
しかし、彼女はお見合いに乗り気でない反応を見せた。
「わたしはお見合い……嫌」
「何でだ? 友達だってお見合いの話をしているんだろ? だったら佳乃女だってな」
「そんな知りもしない人と結婚するなんて嫌」
「全く知らないって訳じゃない。お見合いで会って話すんだ。お見合いで相手を知れば、知らない人ではなくなるから良いだろ」
「知らない人と会うのも嫌」
佳乃女の続くわがままに、珍しく父親が声を荒らげる。
「何を馬鹿な! そんなこと言ったら、どうにもならないだろう!」
普段怒らない分その落差から、余計に恐ろしく聞こえ、思わず肩をすくめてしまう。
「この前みたいなことが起こってみろ! たまたま盗み見られただけで済んだが、もしかしたら襲われてたかもしれないんだぞ!」
「だけど尾白が守ってくれた!」
「尾白は馬だ! 鳴いて知らせても、助けに入ってくれないだろ!」
「それは木に繋がれてたからーー!」
実際、木が丈夫だったから折れなかったけれど、友達がお風呂小屋に行くとき、葉擦れの音が風が吹いているようだったと聞く。それほど木が揺れていたらしい。
「いつも守ってくれる誰かが居るわけじゃないんだ! 覗き魔みたいな変なヤツに娘を傷つけられてたまるか! だから、その前に結婚をだなーー」
「何を言われても嫌! 嫌なものは嫌なの」
「わがままもいい加減にしないか! これが一番なんだ。素直に聞きなさい!」
何度言葉を交わしても平行線で、お互いに主張を曲げない娘と父親。
そんな親子ゲンカを見かね、母親が割って入る。
「そこまでにしましょ。佳乃女、お父さんは意地悪言ってるわけじゃないの分かるでしょ? 大切だからこそ幸せになってもらいたいの。ほら、お父さんも落ち着いて」
他がお見合いを始めたから、影響されて不安になってるだけだと母親は興奮状態の夫をなだめる。
「いいじゃないですか。もうちょっとゆっくりでも」
「ん、そうか?」
「そうですよ。他所は他所、家は家って言うじゃない」
「まぁ、そうだな。お前が言うなら、急がないが。それでも心配だろ」
納得しかけた父親だったけれど、説得してくる妻に問い返した。
「心配ですよ。けれどその分、本人にも気をつけさせて守ってあげましょ」
頷きはするけれど、まだ心配する夫をなだめる。
「ん。佳乃女、いつかはお見合いはするんだ。考えておくんだぞ」
父親も母親に言われて、落ち着いたようだった。
しかし、その娘を心配してお見合いの話をした余波が、ある日事件を起こす。
満月ではないけれど、戸の隙間から月明かりが差し込む深夜。
吐息のような呟きを漏らし、佳乃女は寝ぼけ眼で目を瞬かせる。
覚醒していない意識はぼんやりとし、遠くでいつか聞いた尾白の鳴き声がする気がした。
「ん、んん?」
部屋が暗い中、人の気配を感じた。
頭がぼうっとしていたが、すぐ側に誰か居ると気づき息を呑む。
両親が声もかけずに部屋へやってくるわけ無いので、悲鳴を上げようとすると口に強い力で手が押し当てられた。
「んんっ! んーっ、んーんッ?!」
声を出そうとしても塞がれた口からは呻きしか漏れず、顔の半分を覆う手の大きさから男性であることは間違いなかった。
とっさに逃れようとするも、一手早く布団の上からのしかかって押さえつけられてしまう。
「んー、んー!!」
必死に叫び抵抗するけれど、やはり押さえる力が強く相手の指の間からは息しか漏れない。
それでも諦めず、手脚を動かして抵抗をする。
布団から出した右腕は手首を掴まれ、左腕と両脚はのしかかられている布団がピンと張って押さえられ、簡単には抜け出せそうにない。
寝込みを襲われる恐怖と、自分の力だけでは対抗出来ない無能感に瞼に涙が滲む。
すると上から低い潜め声がかかった。
「しーっ! 静かにしろ。暴れるな!」
相変わらず顔は見えないけれど、暗闇から抜け出したような大きな気配が誰か、佳乃女は理解した。
夜這いをかけてきたのは、彼女に言い寄ってくるゲンカが強いと評判の男子だ。
「大人しくしていればすぐに終わる!」
そんなことを言われても、佳乃女は首を振って必死に抵抗を続ける。
「なぜ聞かない! お前、お見合いをするのだろ?」
確認の声に首を振る。
「嘘だ! お前の母親が話していたとお袋が言ってたぞ。お見合いが嫌で、知りもしないヤツのところにいくなら、俺の物になれ。俺はお前が好きだ!」
どうも佳乃女のお見合いを聞きつけ、月明かりがあるのに夜這いをかけてきたらしい。
思いっきり首を振って手を払い、暗闇と涙で見えない相手を睨み返す。
恐怖から喉が詰まったような、引きつった声で答える。
「わたしはーー好きじゃない!」
例え腕一本でも、好いてもいない相手に身体を触られ、ひたすらに拒絶しかない。
「生意気な! 大人しくヤらせてくれればいいものを。痛くてもしらんぞ!」
布団が剥がされ、胸元を掴まれて、無理矢理着ている物を剥がされそうになる。
「やっ! はっ、ん! 嫌!」
「黙れ! 前にお前の裸を見たときから抱いてみたいと思ってたんだよ!」
何を言ってるのか今の彼女では理解出来ず、身を捩り必死に拒み続けると、ゴツゴツした指が太ももの間に滑り込んできた。
「ひっ!?」
一瞬引きつるように息が止まり、思いっきり目をつむった。
零れた涙を耳の方に垂らしながら、佳乃女は抵抗を見せる。
「お前は小さくて心配したが、触れてみると他の女と変わらず女の体だ。それに控え目だが、ちゃんと下も生えてるな」
いつも断ってもしつこく言い寄って来る男子から、押し殺した焦りと興奮を楽しんでいるような雰囲気が伝わり、とても恐ろしかった。
まるで人間じゃない生き物を前にしているように恐ろしい。
「嫌がっても濡れてるじゃないか」
「や、違っ!?」
恐怖から漏れてしまっただけで、いやらしい悦が覗く男子の言葉を否定した。
「頼むから暴れるな! すぐ気持ちよくしてやるから! でないと殴ることになるぞ!」
脅されようともむしゃらに暴れ、身体の自由を奪いにくる男子に抗った。
「嫌われたくないから強引にしてこなかったが、お見合いをするとなれば別だ! 誰にもお前を渡すものか、今すぐ俺のモノにしてやる!」
興奮した語気も、吐きかけられる息も、全てが気持ち悪くて鳥肌が立つ。
しかも一瞬でも諦めてしまえば、手脚が役に立たなくなりそうだった。
「お前の意思を尊重してやってたが、もっと早くこうしておけば良かったな! 嫌われようが、抱いてしまえば俺のモノだ!」
ただただ獣に襲われるよりも恐ろしくて、涙が頬を零れ落ちて敷き布団を濡らす。
正直このままではすぐに体力に限界がきてしまうけれど、それでも無我夢中で逃れようと抵抗した。
力尽きた時が穢される時だった。
しかし、諦めなかった結果。
振り上げた頭が男子の顔面を打ち、痛みに相手の身体が仰け反った。
そして予想外の反撃に怯んだ男子の腹に、身を捩ってバタつかせた佳乃女の蹴りが入る。
「うっ! ……ぐっ!」
偶然でも相手は腹を強かに打たれ、痛みに呻いた瞬間を見逃さず暴漢の下から抜け出す。
いくらケンカが強くても、女で小柄な佳乃女だったため油断があったのだろう。
畳に手をつきながら逃れ、暗闇の中戸を開き、乱れた胸元を直すことなく走る。
男子が追って来ていても、佳乃女の方が自分家の中を把握しているため、暗闇の中でも難なく逃げることが出来た。
「ま、てっ!!」
月明かりが降り注ぐ外に出た背中に、歯の間から絞り出したような声がかかる。
だけれど佳乃女は振り返ることなく男子から逃げ、尾白の鳴き声の方に駆けていく。
肌を刺す空気の冷たさを、澄んだ月明かりがより鋭くしているように思えた。
地面は水のように冷たく、すぐにつま先の体温が奪われる。
それほど離れていない距離を、裸足のまま全速力で走った。
薄布一枚の全身を寒さが襲うが、気にしてもいられない。
「尾白……! 尾白! 尾白っ!!」
一直線に厩へ飛び込み、名前を呼びながら腕を伸ばし、太い首元に飛び込むように抱き付いた。
触れる腕や胸から尾白の体温を感じ、佳乃女は名前を呼びながら涙を流す。
寒さでなく身体が震え、歯が噛み合わない。
「おい! 待てよ!」
男子が戸を開け放ったままの厩まで追って来るが、尾白が入り口に向かっていななき威嚇した。
農村に住む以上、それが分からない訳でもない男子は足を止め、尾白は耳を後ろに寝かせて尻尾を荒く振る。
尾白の鳴き声が収まらないのを不審に思ったのか、母屋の方から戸が開く音に続いて両親の声が聞こえた。
男子は尾白を警戒しつつ、怯える佳乃女を睨む。
「クソッ、俺のことバラしたら分かってるな!」
焦りながらも低い声で口止めし、夜の闇夜に走って姿を消した。
驚きと混乱がなくなると、途端に恐怖がやってきて身体が小さく震え出す。
自分ではどうにもならない震えに、尾白に顔を押し付けてすすり泣く。
すぐに親の足音が聞こえた。
そして布一枚で尾白に抱き付いている佳乃女に、真っ先に母親が駆け寄った。
「佳乃女、佳乃女! 大丈夫?」
母親が肩に触れて何があったのか、静かに泣く佳乃女に聞くけれど、尾白の首に腕を回したまま離れない。
周りを見回ってきた父親も遅れて来るが、状況を呑み込めず、妻に娘を任せて見守るしか出来なかった。
いくら両親が家に戻ろうと言っても、尾白の側を佳乃女は離れようとしない。
仕方なく包まる物を用意し、一晩彼女を泊まらせることにした。
月明かりが差し込む中、腹ばいになる尾白に身を寄せ、佳乃女は布団に包まって毛並みを撫でる。
「尾白、ありがとう」
落ち着いた彼女は、守ってくれたお礼を囁く。
先ほどまで起こっていたことが嘘みたいに静かな夜で、尾白が小さく鼻を鳴らす。
「いつも困ってると助けてくれるよね」
あの男子の時ももちろん、小さな頃は道に飛び出してくるカエルが苦手で、夏のあぜ道は尾白の背中に乗せてもらっていた。
それは脚を太ももまで晒して遊んでいた時、飛び跳ねたカエルが貼り付き、太ももに滑りを含んだ感触がトラウマになった。
今では大丈夫だけれど、思い出すといい気がしない。
それに些細なことで悩んでいた時も、尾白と一緒に散歩に出ると不思議と楽になった。
だから、側に居てくれると佳乃女は落ち着いた。
「わたしはそんな尾白が好き、大好き」
夜這いから逃げる時も、家の中の両親より、真っ先に尾白に助けを求めるくらい好きだった。
囁いて語りかけると、尾白が顔を近づけてきた。
長い睫毛に覆われた穏やかな瞳に見つめられ、夜の闇のように尾白の目は黒いはずなのに怖くなかった。
佳乃女は見つめ返しながら、そっと大きくて逞しい体に頬を寄せる。
「おやすみ」
尾白の温かな体温に気持ちが落ち着き、呼吸に合わせた動きが心地よくて、厩なのを忘れて深い眠りについた。
翌日、佳乃女は一夜厩に泊まったのと、何より男子に触れられたのが気持ち悪くて、朝始めに大たらいで沐浴を済ます。
寒くはあったけれど、それはいつものことなので我慢できた。
そして男子に脅されたこともあり、顔は覚えていない知らない人だったと両親に嘘をつく。
夜這いから数日。
男子は目の前に現れず、いつも通りの日々を送っていた。
そんな、ある日。
いつも通りの夕食後、父親が重い口を開いた。
「佳乃女。お見合いをするぞ」
突然の宣言に振り向くと、父親は真剣な目で見返し見据えてくる。
疑いの眼差しを送るも、父親の瞳に迷いがなかった。
男子が行った夜這いにより、一度は治まった父親の不安が再燃してしまったように思えた。
それは無理も無いと理解できるし、ここ最近ずっと何かを考えている風だったのは知っている。
それでも。
「嫌。わたしの気持ちは変わらないわ」
「そんなこと言って、今度は寝込みを襲われたんだ。この前とは訳が違うんだぞ」
重々しく父親が縁談を説得してくるが、佳乃女も前と同様に首を振る。
「じゃあ、また襲われても良いのか?」
「嫌」
何で父親は分かっていることを聞くのか睨み返す。
「ならお見合いをしなさい」
「嫌!」
「佳乃女! あれも嫌、これも嫌ではダメなんだぞ! 子供じゃないんだ。分かるだろ!」
焦りも怒りも佳乃女を思ってこそだけれど、それでもお見合いとか誰かと結婚なんて考えられない。
受け入れられない。
しかし、隣から母親が身体を寄せてくる。
「そうよ、佳乃女。今回ばかりはお母さんも、お父さんの意見に賛成。あなたは優しいでしょ? だから誰とも分からない相手に初めてを奪われて不幸になるより、お見合いして結婚する男性とした方が良いと思うの」
佳乃女の味方にはなってくれないくらい、母親も今回の夜這いには危機感を持っているようだった。
「夜這いされるのが普通という空気も村にはあるけど、佳乃女、あなたは違うでしょ?」
聞かれて夜中に襲われた時のことを思い出し、恐怖と気持ち悪さに押し黙って俯いた。
「……」
「俺たちもそんな思いをさせたくないから、お見合いを佳乃女にさせようとしてるんだ」
太い腕を組む父親が真剣な眼差しで言った。
「それに好きなヤツも居ないだろ?」
その問いかけに、好きという言葉で真っ先に思い浮かべた相手を佳乃女は口にする。
「尾白……わたしは尾白が好き」
「「……」」
突然出てきた名前に、両親は一瞬言葉を失い息を吐く。
「佳乃女。俺が言ったのは、夫婦になりたい好きだ。お前は村の誰かに惚れたり、男と話したりしてなかったからな。そういうのも分からないか」
どうしたものか思案顔を浮かべる父親。
「男の子はだいたい小さい子たちばかりだったものね。それなら尚更、お見合いして男性と話してみなさい。お喋りなら出来るでしょ?」
母親は少しずつでも相手を知れば好きになるし、結婚したいという愛しい感情も分かると勧めてきた。
どうやら二人とも佳乃女が、異性にいだく好きが理解出来ていないと思ったようだった。
横から子供の頃のように彼女の手を握ってくるけれど、母親の言葉を受け入れる気にはなれない。
「わたしは本気だよ! 夫婦になりたいって思えるのは尾白だけ、人間の男性となんて結婚したくないんだから」
「なに寝ぼけたことを! どうして突然俺たちを困らせることばかり言うんだ! あれは家畜だ。結婚は出来ないのは分かるだろ! そんな適当言って逃げようとしても、どうにもならないんだぞ!」
娘の馬と夫婦になりたいというふざけた発言に、 腹を立てた父親に叱られてしまう。
「わがままを言わないでお見合いをするんだ! 初対面なんて始めだけだ! ちゃんと嫁ぐ相手は佳乃女が良いって思える人で構わないから、とにかくお見合いはしなさい!」
幼少期に女の子が口にする父親と結婚するという言葉とは訳が違う。
物事の分別のつく年齢なので、家畜と一緒になるという世迷い言は許されない。
しかし、佳乃女は頷けるはずがなかった。
「だから、嫌」
「何度も言わせるな! 嫌じゃ済まされないんだ」
「知らない人と会うのも話すのもしたくない。人間の男の人となんて一番嫌、尾白が良いの……困った時に助けてくれるし、何度もわたしを守ってくれた! そうでしょ?」
真剣な目で訴えると父親は容易く否定する。
「それは誰が主人か理解しているだけだ!」
尾白は単に飼い主に危機を知らせただけで、そんな感情で動いた訳じゃないと言う。
「違う! ちゃんとわたしだからーー」
「違わない! 尾白が口を聞けないのにどうして分かる? 普通に考えて、飼い主だから守ったにすぎない!」
馬に人と同等の物を求めるのは間違っていたとしても、彼女の中で人間の男性との結婚は考えられなかった。
「わたしは、尾白じゃないと嫌なの! 好きなのは他の誰でもない尾白なの。夫婦になるなら尾白以外考えられない!」
自分の気持ちを偽りなく明かした。
「佳乃女、そんなこと言わないで。前はのんびりで良いって許した手前、お見合いしろって急に言われて戸惑ってるのも分かるけど、考え直してくれない?」
母親が優しい口調で訴えかけてくる。
「馬となんてお母さんたち孫の顔も見れないのよ? 分かるでしょ? 子供みたいなこと言って、お母さんたちを困らせないで」
眉尻を下げて手を強く握ってきた。
「ごめんなさい」
お願いは聞けないと目線を外して謝り、顔を俯かせる。
「佳乃女……!」
村で生まれ育てば、孫を見せられないことがどれほど親不孝か、周囲の様子から嫌というほど知っている。
母親は涙を流して泣き出し、何でと問いかけて鼻をすすった。
すると今度は父親が怒鳴り声を上げた。
「いい加減にしろ! 母さんを泣かせるんじゃない! お父さんたちの言う通りにお見合いを受ければ間違いないんだ!」
「嫌! それでも絶対にいーーッ!?」
感情による口論の応酬に、突如乾いた音が響いた。
反論の言葉が強制的に中断され、佳乃女の視界が横に九十度ズレ、頬にじんわりとした痛みが広がる。
「……」
信じられない気持ちで見やると、父親が片膝を立てて身を乗り出し、手が振り抜かれていた。
娘の頬を叩いた手を下ろし、父親は目を怒らせて言い放った。
「嫌でも何でもお見合いはさせるからな!」
「……っ!」
ヒリヒリと頬に痛みを覚えながら立ち上がる。
勢いよく円座が滑っていくが無視し、囲炉裏のある板の間を飛び出す。
「佳乃女! 待ちなさい!」
父親が腰を浮かして叫ぶが、一泣きした母親はそれをなだめるように止める。
「少し一人にさせてあげましょ? どうせ今から行くところなんて分かっているでしょ?」
確かに涙の痕が残る妻が言う通り、佳乃女が逃げ込める場所は限られていた。
もうほとんど冬の夜は肌を刺すような冷え方で、父親に叩かれた頬を更に寒さが襲う。
すぐに指先や鼻の頭、身体の先端がかじかむような気温の中、彼女は厩に滑り込んだ。
小さく息を切らした佳乃女の前に、何かあったのか黒い瞳で見つめ、ゆっくりと歩み寄る。
俯き立ち尽くす彼女に、尾白がそっと近寄り顔を寄せた。
尋ねるように叩かれた頬へ、短い毛に覆われた頬を自ら擦り合わせる。
父親に叩かれた痛みか、空気の冷たさによる痛みか、触れる頬に尾白の温かさがほんのり伝わった。
「尾白、ブラシがけしよっか」
緊張の糸が切れたように、涙が滲みそうになったので、根ブラシを用意して大きな身体に触れる。
毛並みに沿って静かに、ゆっくり優しくかけていく。
薄暗い中にブラシがけをされ、長く白い尾がゆったりと左右に揺れた。
ランプを取りに主屋には戻りたくなかったので、明るさは心許ないがロウソクを灯してある。
いざとなれば尾白の飲み水をかけて消火するつもりだ。
ロウソクは残り長くないが、火が消えてしまう前に寝てしまえば、夜を明かすわけではないので心配無さそうだった。
「わたし、誰ともお見合いしたくないけど良いよね?」
影が川の水面のように揺らめく中、手元に視線を落としながら呟いた。
尾白が応えてくれるとは思ってないけれど、誰かに話したいし聞いて欲しかった。
「鳴いて教えてくれた夜、男子に触れられてすごく嫌だった……」
あれから男子の言葉を思い出し、かり湯の時に友達のところで覗いていたのも、ケンカの強い男子だったと判明した。
彼女の一かけ一かけが丁寧だったが、よりゆっくりとブラシが尾白の体表を撫でる。
「人間の男と結婚なんて嫌、わたしは尾白と結婚したい」
伏し目がちに呟きながら、ブラシを持つ手を動かす。
もう空いている方の手は、肉の隆起が触れると分かる体に添えていた。
「ダメなのかな?」
問いかけて顔を上げると、幽かな明かりを反射する黒い瞳と目が合った。
「きれい……尾白はわたしのこと好き?」
長い睫毛に縁取られた真っ黒な瞳に目が奪われ、自然と言葉が口から零れていた。
実際に口にしてみると、思いのほか恥ずかしく、尾白に手を当てたまま動きを止める。
頬や耳が熱くなるのを感じ、顔を伏せようとするけれど、鼻先が差し入れられ、下からすくうように顎を上げさせられた。
「尾白……?」
名前を呼ぶと額を押し付けてきて、佳乃女の額と合わす。
「うん? これって尾白もわたしが好きってこと?」
身体が後ろに押されそうになり、ブラシを手放し、両手で顔を挟んで問い返した。
上目遣いに見つめると、小さく鼻を鳴らす尾白。
すぐに見せた反応が返事のようであり、体の正面に回ってもう一度問い返す。
「わたしは尾白が好き、尾白もわたしが好き?」
今度は顔中が熱を持ち、息が詰まりそうなくらい胸がドキドキする。
不安に口元を引き結び、ロウソクの光がちらちらする瞳を見つめ、じっと静かに待った。
すると再び白い尾が毛先まで躍り、前脚を一歩踏み出して擦り寄ってくる。
「うれしい! ありがとう!」
佳乃女からも身体を寄せて、太い首に腕を回して抱き付いた。
思っていたより何倍も、尾白が自分のことを好きと答えてくれたことが嬉しくて、抱き付かずにはいれなかった。
胸の奥が喜びで破裂しそうなくらい苦しくて、この尾白への思いをどうやって発散させれば良いのか、分からなくて逆に辛くなる。
「どうしよ……本当に今までにないくらい嬉しくて、どうにかなりそうで怖い!」
一度離して頭を抱えるように、胸に尾白を抱くようにする。
「分かる? ものすごくドキドキして……」
一緒に居て鼻がなれているはずなのに、尾白のにおいを強く感じた。
春から夏にかけて発情期のある牝馬と違って、特に発情期のない牡馬は発情した相手がいればいつでも交尾可能だった。
そっとしゃがんで下を覗き込み、追って首を下げた尾白の顔を再び両手で受け止める。
膝をそろえてしゃがむ状態で、上目づかいに躊躇いがちに問いかける。
「尾白になら、尾白になら……わたしの初めてをあげても良いよ」
いざ口にすると恥ずかしく、身体の体温が数度上がった気がした。
彼女の言葉に尾白は鳴いたり鼻を鳴らすなんてことはなかったが、じっと見下ろしてくる宝石のような瞳が語っていた。
だから、尾白の口端に唇を寄せる。
「んっーー待っててね」
添えていた手を離して立ち上がり、身に着けている着物の帯に指をかけた。
外は凍えるほどの夜だというのに、佳乃女は全身に汗をかいていた。
直後よりも呼吸も落ち着き、熱が引いていく。
横たわる尾白の身体に裸で触れ、手探りで着物、布団と肩にかけて覆いかぶさった。
脚の付け根がジンジンと痛むけれど、好きな尾白が与えてくれたものだと思えば、どうってことないし満たされた疲労感に包まれる。
呼吸に合わせて動く体に心地よさを覚え、初めてを捧げた相手に穏やかな声で呼びかけた。
「温かくて落ち着く……ずっと一緒に居ようね」
彼女の言葉に尾白は顔を寄せ、返事のように尻尾を振り動かした。
「尾白」
不思議と名前を呼ぶだけで舌の上に乗せた砂糖のように甘く、答えてくれるだけで春の陽射しのように胸が温かくなる。
すでにロウソクの火は消えて、暗闇には佳乃女と尾白の気配だけが存在していた。
言い表せない安心感に、尾白の体温と揺れが心地よく、瞼が自然と閉じていく。
「尾白、おやすみ。大好きだよ……」
まるで尾白に守られてるようで、不安や寒さなんて気にならない夜だった。
翌朝。
佳乃女は沐浴をし、土間で朝食の用意をしていた母親に謝った。
「おはよう。昨日はごめんなさい」
謝罪の言葉に手を止め、娘の顔をちらりと見てくる。
「おはよう。ご飯の支度、手伝ってちょうだい」
特に何か言われることもなく、言われた通りご飯を準備を手伝う。
きっと昨日のことに触れれば、また言い争いになるからに違いない。
母親は普段通りの背中を見せる。
しばらくすると父親も姿を見せ、気まずそうに固い声を出す。
「お、おう。おはよう」
完全に昨日のケンカを気にしている態度に、母親は普段と変わらない返事をし、佳乃女は意識しながら父親の前に出る。
「おはよう……」
「あ、おう」
「昨日は、その……ごめんなさい」
小さくだけれど頭を下げる。
父親も口には出さないが、昨夜のケンカはお見合いの話を急に切り出したからだと反省していた。
「そうか」
飛び出していった後、口を利いてくれなくなるのではと心配だったので、父親は多少気を取り直して頷く。
「でも、お見合いは絶対嫌だから」
そう佳乃女は相手の目を見て、自分の気持ちを伝えた。
「まぁ、なんだ。今はいいだろ」
娘の言葉に反対しても、また再燃して口論になるだけなので、仕方なしに父親は一旦反論を呑み込む。
父親は昨日の反省から、先に決めてからお見合いの話題をするべきだったと後悔していた。
とりあえず、娘から無視されるような事態にならず、今は胸をなで下ろしていた。
いつも通りの空気感とはいかないけれど、家族三人で朝食を摂ることが出来た。
母と娘は洗い物をし、父親は厩の掃除をしに母屋を出る。
「昨日は佳乃女を泊めてくれてありがとな。ほら、ご飯だ」
尾白を外に出して餌と水を摂っている間に、掃除を済まそうとする。
けれど、父親は入り口で動きを止め、血に染まる厩の床を前に戦慄した。




