今か昔日2
水を入れ、ある程度濡れた土を田んぼを囲う畦に盛り、壁のように整える畦塗りをする。
畦塗りは崩れているカ所やモグラによる穴などを土で埋めて補強する作業で、田んぼに入れた水が漏れないようにする。
鍬などで泥状になった土をすくって、あらかじめ少し崩して盛りやすくした畦に乗せ、鍬の背で縦や横に形をならして進む。
そして田植えに向けて、田んぼの一角に水を張り苗代を作る。
苗代は田んぼに植える苗を育てるところで、十日前後毎日新鮮な水に入れ替えて発芽させた種籾を蒔く。
準備は田植えとほぼ同じだけれど、畑みたいに土を盛り上げた畝状にしたところに蒔いた種籾を守るため、左右の両辺に何本か杭を立て糸を張って鳥除けとする。
だいたい一ヶ月ほどで植える苗が育つ。
そうして田植えの目処が立つと、代かきを行う。
水門を開いて水路から本格的に水を入れて、牛や馬に馬鍬という農具を引かせて行う。
その作業には荒代と中代と馬耕で行って、三度目の植代は柄振という道具を使用し、人の手で田んぼの土を平らにならす。
柄振押しで植代までしたら、苗代で育てた苗を植えかえる。
天気も悪くなく例年通りであるなら、水を入れての代かきから一週間弱で田植えに入れる予定。
大八車から馬鍬を降ろして、犂の時と同様に尾白から伸びる器具に繋いでいく。
そして今回は荒代をする。
地域や地質によって田起こし後の乾いた状だったり、土が浸る程度水を入れた状態だったりと、田んぼの作業には違いが出る。
準備が整うと犂の時と同様、父親が尾白に引かれる馬鍬を体重をかけて掴み調節する役だった。
「いいぞー、始めてくれ」
「行くよー!」
父親からの指示に尾白の背中から返事で返す。
手綱を緩く持ち、尾白に合図を送る。
すると水を含み僅かにぬかるむ田んぼを、ゆっくりとした歩みで尾白が動き出した。
水をかき分けて進む音と一緒に、けん引する馬鍬が引きずられる音が後から聞こえた。
馬鍬は横に倒した細長い木材に、櫛のように等間隔で取り付けられた並ぶ歯で土を砕く農具だ。
牛や馬にけん引させる時に持ち手を掴み、僅かに後へ体重をかけて行う。
まずは外周を一周、その端から端までを折り返すようにして全体に代かきをする。
近所の人の田んぼにも水が入れられ、日差しを受けて遠くまでキラキラして見えた。
畑にも土色の中に植えた緑が見受けられ、本格的に農業の季節が始まった実感がする。
苗代など用意する時だって始まる気はしていたけれど、田畑全体に春の息吹というのか、心躍る何かが訪れる兆しのようなものを感じてしまう。
証明に田へ水を入れてから、夜になるとカエルの声が聞こえ始めていて、数日中には合唱が始まるに違いなかった。
頭上から鳥の鳴き声も聞こえるようになり、一、二ヶ月後には耳なじみのあるトビの声も聞こえるだろう。
冬に比べると遥かに賑やかになっていく世界に、つられて気持ちも明るくなっていく。
「んっと、そうそう。そのままゆっくりね」
方向転換の指示を出すのと同時に、速くなりそうだったので尾白を抑え込む。
伸ばした手で触れ、落ち着かせながら、心地いい揺れに佳乃女も身を委ねる。
他に乗馬する機会もあったけれど、やはり佳乃女は尾白が一番安心した。
馬鍬での馬耕は土と水を混ぜて泥状にし、草の根を土に埋める。
代かきのし過ぎも良くないけれど、もう一巡して次へ行く。
これで二、三日後に柄振で植代をし、土の表面をならして植えるので、お昼を取った後も荒代を続けた。
仕事が終えると帰る前に尾白を自由にさせて休憩を取る。
「お疲れさま。ゆっくりしようか」
背中から降りて畦に立ち、見上げるように頬へ触れて語りかけた。
尾白からも彼女の手に顔を擦り寄せて答える。
とりあえず手綱が繋がるハミは外せないけれど、一旦ハモと駄鞍を外して身軽にしてあげる。
帰る時には大八車を引いてもらわなければならないため、再び取り付けなければならないが、一時でも肩の荷を下ろしてあげたかった。
さっそく尾白は泥状になった田んぼに向かい、前足をついて身体を低くし、豪快に土の中へ横たわった。
「きゃあっ!?」
バシャッと泥が勢いよく跳ね、佳乃女は驚いて悲鳴を上げた。
幸い倒れた向きから、足元までしか飛ばず、両手で守った顔にはかからずに済む。
手を下ろして顔を上げると、そこには楽しそうに泥の中で身を捩る尾白の姿があった。
賢く穏やかな気質なのだが、こうして泥で遊ぶ様は子供と変わらない。
ばちゃばちゃと泥で体を汚していき、彼女も手で泥をひとすくいして、田んぼに足を差し入れる。
そして普段みたく撫でるように、まだ着いていない首にすくった泥を塗った。
「驚かした、お返し!」
弾んだ声で笑顔を向けると、尾白は首を振って佳乃女に鼻筋を押し付ける。
すると他の田んぼで親の手伝いを終えた子供たちが、尾白の泥で遊ぶ姿を見つけたようで走ってくる。
明るい声に辺りを囲われると、あっという間に泥合戦が始まり、佳乃女は手綱を長く持ちながら見守った。
尾白が立ち上がり、再び前足を折って寝転がると、周りに勢いよく泥が飛び散り、子供たちから歓声が上がる。
笑い声が水田に響き渡り、春の賑やかさが増す。
そして横になる大きな体に、ワッと子供たちが群がり、尾白に泥を塗り始めた。
「顔は濡れるの嫌がるから、泥は止めてね」
口の脇に指をそろえて広げた手を添え、声を張ってお願いすると、元気な返事が幾つも返ってくる。
「「「「「はーい!」」」」」
子供に付き合っている尾白は、大人しくして時たまくしゃみのような鼻息をした。
あっという間に唯一白い尻尾も子供たちの手にかかり、泥だらけにされてしまう。
泥を塗られるのは嫌いではないので、泥に汚れて白さの無くなった尻尾が、心地よさそうに揺れ動いていた。
その様子を彼女はしゃがみ、片頬に手を当てて眺めた。
「そろそろ、泥遊びも終わりー。さぁ、尾白帰る前に川で泥を落とすよ」
田んぼに居る全員に呼びかけると、尾白が立ち上がって、泥水の滴る全身を瞬時に震わせた。
すると細かな泥が再び広く飛び散り、子供たちの今日一番の歓声が聞こえた。
手綱を引いて泥だらけの尾白を連れて川へ行く。
「すっかり別の馬みたいになって。泥遊び楽しかった?」
泥だらけで尾白に乗れないので、蹄の音の隣を歩きながら語りかけた。
父親がタワシを入れた空の水桶を下げて、すっかり日も延びている夕方の川で泥を洗い流す。
泥のついた手を入れてみると、水はまだ冷たいが問題なさそうだった。
「洗うからね。大人しくしててよ」
そう彼女は言い聞かせて手綱を短くし、鼻筋を撫でて落ち着かせる。
浅瀬の流れの中、父親が桶で水を汲んで体にかけて、ざっと泥を流して落とす。
「ほらほら、大丈夫だから。きれいにしなくちゃでしょ」
かけられて足踏みを始める尾白の首を、手で優しく撫でて安心させる佳乃女。
先に流れでゆすいだ指に、泥が再び着いてしまう。
「草を食べて休めば良かったのに。泥に汚れたのも、洗わなくちゃいけないのも、全部尾白のせいなんだから。大人しく洗われなさい」
子供を叱るような口調で言うと、言葉が分かったかのように動きを止めた。
しかし、揺れる尻尾だけは不満そうに見えた。
それでも父親はタワシを使って、水で落としながら尾白の身体をきれいにしていく。
驚かせないためにも、顔から遠い部分から水をかける。
ある程度落としきるとタワシがけが気持ちいいのか、不満そうに揺れていた尻尾も、今では大きく振られて水滴を飛ばしていた。
「こらっ、はしゃぎ過ぎて顔にも飛んでるんだから我慢しなさい」
顔にも少なからず泥が付着していたので、父親が水桶を持って頭の方に来ると、察したように首を振り逃げようとした。
なので顔を両手で挟んで引きつけ、首を振って逸らそうとする瞳を見つめる。
「ね」
ムッと強めに呼びかけるも、長い睫毛に縁取られた眼が嫌がっていた。
それでも止めてあげるわけもなく、少しずつゆっくり水を垂らして泥を落としていく。
洗い終えると尾白は身体を震わせて水気を切った。
田んぼに戻ってハモを巻いて大八車を繋ぐ。
家に帰り着くと納屋に農具を片付け、厩で尾白にブラシがけする。
すでに日は落ちて暗くなってしまったので、母屋から持ってきたランプを頼りにブラシがけをした。
「今日もお疲れさま」
片手で身体に触れながら、もう片手でブラシを動かして、毛並みをそろえる。
短い毛並みのところは帰路の間に乾いているけれど、まだタテガミ周りに湿り気が残っていた。
台に乗っても出来るけれど、自分から首筋を下ろしてくる。
佳乃女が相手をしている間に、父親が餌や母屋の裏にある山から引いている水を桶に入れて飲み水を用意した。
お世話が終えると母屋に戻る前に、佳乃女はつま先立ちになって尾白の首に腕を回し、頬を密着させるように抱きついた。
触れる毛並み越しに引き締まった筋肉と体温を感じて、目を閉じる。
「おやすみなさい。尾白」
尾白は言葉を理解したかのように、首を震わせて体の中で唯一白い尻尾を勢いよく振った。
「また明日」
佳乃女は笑顔で手を振り、ランプを下げた父親と一緒に母屋へ戻って行った。
村には電気が通っていないので、眼下に広がる村は闇に包まれている。
太陽のある間に農作業を済まし、ランプの油を節約するために早めに寝るのが習慣で、月明かりや星明かりがあると村がぼんやりと影になって浮かぶ。
そうすると夜空よりも山の方が暗く、小さい頃は茂みや木々の奥から、何か飛び出してくるのではと恐ろしかった。
田植えが今週に入り、農具の柄振を使って植代をして苗を植える準備を整える。
柄振は丁字を逆さにしたような農具で、泥状になった土の表面を人の手でならす。
深さにムラがあると水の調節の際や、深い一カ所だけに生物が集まり、稲の育成に支障をきたすこともあるので大事な行程だった。
言ってしまえば、やることの全てには意味があるので、全部が必要なことであって大切じゃない作業なんて一つも無い。
道中ちょっと寄り道し、田畑の広がる一角に、ぽつんと建つ祠に立ち寄る。
「ちゃんと拝むんだぞ」
「小さい頃から手を合わせてるんだから分かってるよ」
本当に小さな田の神の祠でしゃがむ父親の隣に、佳乃女も膝をそろえてしゃがみ、稲や野菜が今年も良く育ち無事に収穫出来るように手を合わす。
目を閉じると自然の音と虫の声、近くで尾白が足踏みをする蹄の音だけになる。
何年、何百年、何千年経とうと、人は空の下で物を育てるので、雨が降りすぎてもなさ過ぎても困るので天候を祈る。
だから田植えを控えた春には春祭りがあり、夏には虫送りや天候や鳥による被害を心配しての行事を元にしたお祭りがあって、秋にも収穫したお米や野菜をお供えして感謝する秋祭りがある。
そうしてると後から声をかけられた。
親子で振り返ると、そこには近所のおじいさんおばあさんの夫婦がおり、家畜の牛を連れて田畑の仕事に行くところだと言う。
「こんにちは。川瀬のおじいさん、おばあさん」
「おやおや、こんにちは。山口んところのということは、佳乃女ちゃんかい? 小さかったのに大きくなって」
おばあさんが笑顔で挨拶を返してくれた。
「そうそう美人さんなってな。もう、幾つだい?」
おじいさんの方も大きく頷き、褒めた後、年齢を聞いてきた。
年に何度も顔を合わすけれど、この夫婦と会うと必ず同じやり取りから会話が始まる。
だから馴れたもので年齢を答え、連れられていた牛にも挨拶する。
「ウメもこんにちは。元気かな?」
手を伸ばして触れ、撫でるとムチのような尻尾を振り、手の平に額を押し付けられた。
「よしよし」
更に湿った鼻先が触れ、舌で手を舐められた。
いつも通りの挨拶に下から首の辺りまで撫でる。
「ははは、ウメも佳乃女ちゃんが好きだって」
触れ合うようすを見ていたおばあさんが、そう言って牛の体を軽く叩いた。
すると嫉妬したのか、横から尾白がウメとの間に割って入ってきた。
鼻筋を押し付けるように割り込むが、のんびりしている牛のウメは、横にずれて位置を変えて撫でて欲しいとねだってくる。
対抗して尾白も迫ってくるので、思わず腰が後ろに反り、一歩足を引いて倒れるのを免れる。
自分よりも大きな二匹からの催促に、彼女は仕方なく両手をそれぞれに伸ばす。
「よしよし、尾白はケンカしないの」
その脇では父親とおじいさんたちが立ち話をしていた。
「じゃあ、もうそろそろ佳乃女ちゃんもお見合いとかかい?」
おばあさんが日常会話程度に聞いた。
「あぁ、はい。そろそろ考え出してもいいのかなと。早くもらい手があった方が安心ですが、父親にしたらかわいいだけに寂しくて中々」
「分かるぞ。とても分かる。息子はともかく、娘はな。かわいがっていただけに素直に喜べん」
確か息子の他に娘も居たおじいさんが共感をして深く同意する。
「でも佳乃女の幸せを願えば、行き遅れずに嫁いでくれるのが一番。どこかに任せられる良い男が居ればいいんですが」
その言葉に自分の娘を思い出し、難しい表情を見せるおじいさんの肩をおばあさんが揺する。
「そこは美人さんだし、こうしてお父さんの手伝いを文句一つ垂れずやってるから、心配ないんじゃないかしら」
「そうですか? 父親心は複雑ですが、やはり早くお見合いさせるに限りそうですね。変なヤツを好きになったら困るんで」
そんな父親の不安を耳にし、佳乃女は大人たちの会話に答える。
「大丈夫。変な男子は皆、尾白が追い払ってくれるから」
「まあな。尾白のおかげで、ちょっかいかける変な虫が寄り付かないのは確かだな」
「それに、わたしは尾白が一番好き。だから子供っぽい男子なんてどうでもいい」
そう発言した彼女は尾白の顔を胸に押し当てるように抱く。
「ん、まあな。お見合いは後々として、尾白が人間だったら良かった。気性が穏やかで、よく働いて丈夫だからな」
父親の言葉を聞いた尾白は、数度前足で足踏みをする。
褒められて嬉しかったのかもしれない。
田の神の祠でおじいさんたちと別れ、田んぼに向かって最終的な代かき、植代を父親が行う。
その間佳乃女は畦にしゃがんで、鎌を手に草刈りを始めた。
水田を囲う畦には白や黄色の野花、雑草が伸び伸びと成長しているので、農具運びと散歩を兼ねて連れて来た尾白にも雑草を食んで手伝わせる。
水路を流れる水音と、ついてくる尾白の気配に安心感を覚えた。
お昼前に家事を終えた母親が合流、風呂敷に包まれたお昼ご飯を一緒に摂って、娘と母親で草刈りを再開した。
田植えの日を迎える。
朝から快晴で、空気が気持ち良い。
小さな鼻から思いっきり、早朝の空気を吸い込んだ。
母屋の前には家庭菜園ほどの畑が広がり、父親と交代で水やりを担当していた。
緑の茂る方からは、夜に鳴き始めた虫の音の余韻が聞こえる。
地面を踏み出す度に足元から、ジャリッジャリッと足音が響き、早朝の静寂に吸い込まれていく。
厩に近づいて行くと、足音に気づいたらしい尾白が、板壁の小窓から顔を覗かせた。
戸を開けると窓から後退し、こちらに歩み寄る尾白。
首を伸ばして見つめてくる円らな目を見返し、手を伸ばして鼻筋に触れる。
「おはよう。尾白」
優しく挨拶をしながら数度上下に撫でる。
尾白も首を振って手の平に頭を押し付けてきた。
「後で水とご飯持ってくるね」
そう囁いて朝の挨拶を済ます。
母屋の裏、山から引いている湧き水を桶にくみ、先に土間にあるカマド横にある水瓶に水を運ぶ。
湧き水はチョロチョロしか出ていないけれど、地域によっては共同井戸や水汲み場まで手桶と天秤棒を使って往復しなければいけないので、佳乃女の家は楽な方だ。
一応冬でも凍らず出るのと、湧き水を受ける大きなたらいを置いている。
カマドの火をおこすための薪を外から持って来たり、水瓶に水を運ぶ作業は子供の仕事なことが多く、佳乃女も子供の頃からの習慣で続けていた。
「お母さん、おはよう」
土間にやって来ると朝食を準備する母親の姿があり、朝の挨拶をして汲んできた湧き水を水瓶に移す。
釜がある土間には水瓶以外にも、火吹き竹や柿渋を塗って強度を上げた渋うちわ、火の調節で使う火ばさみなどがある。
「ありがとうね。お父さんもさっき起きたし、今日は二人とも早いわね」
そう言って小ジワを浮かべて笑いながら、汁物の野菜を刻んだり、自家製の漬物の用意をする。
いつも母親が朝食の準備をする物音で目が覚めるので、言われたように今日は少しだけ布団を出るのが早かった。
「水瓶も明日水汲む前に洗った方がいいかも」
幾度か水を注いでいると、底の方で砂が渦巻くのが目に入った。
どうしても湧き水なので、細かな砂が紛れ込む。
虫やホコリ除けにフタをしても、湧き水を使っている以上、水が落ち着くと細かな砂が底に沈殿する。
「そう? 分かったわ。明日一緒にお願い出来る?」
「もちろん、手伝うわ」
母親に頷き返し、満たされた水瓶にフタをした。
尾白に汲んだ水を運ぶと父親が餌の準備をしていた。
「お父さん、おはよう」
「ん、おはよう。水汲んできてくれたのか、助かる」
尾白の世話を終えたら、家庭菜園ほどの畑に水やりをして二人で手早く済まし、母親の用意してくれた朝食を三人で囲炉裏を囲んで摂った。
そして大八車に田んぼに目安を付ける木枠を乗せて、落ちないように縄で巻いて固定する。
田植えは近所の住人が集まり、協力して順番に田植えをしていくため、天候が荒れない限り今日から何日間は田植えの日々が続く。
なので普段よりも早く、農作業を始める必要があるため、まだ村全体に日が当たる前に家を出た。
田植えをするので、格好はかっぽう着にもんぺ、脚絆の作業着姿だ。
まだ空気はひんやりしていて、鼻がむずむずする。
静かな田舎道をガタガタ、大八車が音を立てて進む。
到着すると、さっそく父親が木枠を田んぼに下ろした。
筒状の六角形をした木枠を土の上で転がし、等間隔にそろえて植えるための目印を田んぼにつけていく。
父親がそれをしている間に、佳乃女は母親と苗代の十数センチに育った苗を分ける。
根元を持って泥を軽く落とすように、根に気をつけながら揺すり、分けた苗を脇に避けて置いていく。
すると大人に連れられた子供たちの声が近づいてきた。
「おはよう! 佳乃女お姉ちゃん」
近所の女の子が手を振るので、手を止めて振り返す。
「おはよう。今日はよろしくね。一緒に田植え頑張ろうね」
「うん!」
元気に頷いてくれる女の子の他にも子供の姿があり、中にはよく尾白と遊ぶ子供の姿もあった。
主婦の一団は挨拶の後、一緒になって苗を分ける作業を手伝ってくれる。
するとあっという間に終わり、それぞれ腰に下げた苗カゴに分けた苗を移し、田んぼ表面に付けられた印を目安に植える準備が整った。
中には腰に苗カゴをつけた子供も居るのは、近所で順番に手伝って協力して周囲の田んぼの田植えをする。
だから農家の子供たちは田植えの手伝いのため、この時期は学校が田植え休みになるためだ。
「佳乃女お姉ちゃん一緒にしよ」
「私も私も。男の子たちふざけるから嫌い」
子供たちの中ではお姉さんにあたる歳の女の子が側にやって来た。
女の子が見やる先には、尾白にちょっかいをかける男の子たちの姿。
耳をピクピクさせてちょっと煩わしそうな様子を見せるが、嫌がって足踏みをして怖がらせることなどなく佇んでいる。
時折荒い鼻息をしては、男の子たちは驚きながら笑い声を上げた。
「ダメ?」
「いいよ。一緒に田植えしようか」
手を取ってくる子たちの手を笑顔で握り返す。
「やった!」
喜んだ女の子が繋いだ手を振り上げたので、つられて手が腰よりも高い位置に上がった。
「じゃあ、あねさんかぶりにしてあげるから後ろ向きな」
肩に触れて背中を向かせ、手ぬぐいを受け取り、額辺りに中央を当て頭と首の付け根で端を縛る。
「ありがとう!」
「どういたしまして。かわいいよ」
「私も! 私も!」
自分で手ぬぐいを巻いた他の子も、どうしてもほっかむりみたくなるからと、わざわざ一度手ぬぐいを外してねだってくる。
あねさんという言葉に憧れてしまう女の子たちの姿に、小さい頃の自分を重ねて微笑ましい。
「順番ね」
「よう。今日から頑張ろうな」
そう釣りが得意でケンカが強いと評判の男子が声をかけてきた。
短髪に逞しい眉、目には自信が窺え、服の上からでも骨格がしっかりしていると見て取れる体格をしていた。
普段は顔を合わせても挨拶ていどだけれど、彼の方から喋りかけてくる。
「どうだ? 一緒にやろうぜ」
身長差からも上から誘われ、答えようとしたけれど、先に女の子たちが返事をしてしまう。
「ダメ! 佳乃女お姉ちゃんは私たちと一緒に田植えするの」
「約束したんだから」
ケンカが強いと評判の年上を前に、二人は佳乃女の影に隠れながらも声を上げる。
「私たちが先だったんだから!」
精一杯の反抗に佳乃女のかっぽう着が、ぎゅっとして離さないと握られた。
「はぁ? 知るかよ。子供は子供同士で仲良くやれよ」
彼は顎で尾白の周りに居る男の子たちを指した。
「嫌! 男の子はふざけるし、うるさいから!」
「お姉ちゃんと女の子同士一緒にするの。男の子も男の子同士でいいでしょ! あっち行ってよ!」
相変わらず佳乃女を盾にしているものの、女の子たちは彼に一歩も譲らない。
もっとも女の子たちが答えたくても、突然誘ってくるような男子を佳乃女は断るつもりだった。
「ごめんなさい。もうこの子たちと約束しちゃったから」
そう返すと女の子たちは明るい顔で佳乃女を見上げ、断りの言葉に男子は表情に難色を示した。
「そんな約束どうでもいいだろ。ガキとなんてつまんないから、俺とやろうぜ。絶対楽しいからさ」
後ろの二人を一睨みし、一歩詰め寄ってくる男子。
「ごめんなさい。約束しちゃったのもあるけど、女の子同士のお話もしたいからいいわ。それともお花とか好きな子の話してもつまらなくない? 大丈夫? 聞いてくれるの?」
「……それは……仕方ない。約束は大事だからな」
面毒さそうに眉を寄せて腕を組み、男子は背中を見せて行ってしまう。
「良かったぁ」
女の子が地面に座り込み、脚に抱き付いてきた。
「そうだね。良かったよ」
ちらりと大人しく男の子たちの相手をしている尾白の姿に小さく息を吐く。
しつこく男子が誘っていた時、身長差から見下ろしながら睨まれて怖かったが、視界の端で前脚を足踏みしている尾白の方にひやひやした。
今にも駆けてきて、頭で男子をど突きやしないか気が気でなかった。
「ほら、田植え始めるから遊んでないでこっちくる!」
男の子たちの誰かの母親が声をかけたのを合図に、皆が田んぼに足を入れて田植えが始まった。
横一列になり後ろ向きに下がりながら、腰に付けたカゴ苗の束を取り出し、四から五本を一束に分けて苗を植えていく。
手植えした苗が水に浮いてしまわないように、田んぼの水も下げてあり、苗を摘まんだ指の第二関節辺りまで真っ直ぐ土に植える。
そして周りと息を合わせて手植えをし、特にまだなれていない子供などのために、田植え歌を皆で歌う場合もある。
だから佳乃女も左右の女の子たちと田植え歌を口遊む。
歌うことにより周りと植える調子を合わすほかに、単調な作業も紛れるし、声が重なることで楽しく飽きさせない目論見もあるのだと思う。
この村では早乙女姿で手植えをするのは、豊穣を祈るお田植祭の時だけだった。
子供や女の子は泥に足が埋まりながらも、大人たちについていき、よく足が抜けなくなって手を引かれたりする姿を見る。
田んぼは一反ずつ仕上げていき、お昼の休憩ではおにぎりを食べ、子供たちが尾白に群がって背もたれ代わりに寄りかかっていた。
お茶やお漬物をかじりながら休憩を挟み、午後から再び田植えが始まる。
この日は田んぼを持つ家の田植えを幾つか終えた。
夕方の切り上げる頃には、元気な子供も腰が痛くなったと笑う。
子供の腰が痛いは大抵一時的なもので、男の子のんかは拾った太めの枝を杖にふざけたりして遊んでいた。
当然子供なので途中で飽きる子も居るので、その時は子供は交代制にして手伝わせた。
「疲れたー。もう田植えは来年までいーや」
母親に主張して明日はサボろうとする男の子。
「私も疲れた」
「お疲れ様だね。二人とも疲れてるのは、ちゃんと田植えしてくれた証拠だよ。ありがとう、良く出来ました」
そう言って泥を落として洗った手で、二人の頭を髪の流れに沿って撫でる。
「最後まで偉いでしょ」
「偉い偉い」
言葉を繰り返して褒め、頑張り過ぎて体調悪くなった時は、無理せず素直に話して欲しいと優しく言い聞かす。
子供は良い子でいようとして、無理して倒れることもある。
遊びながら田植えを手伝う男の子たちくらい気楽にとは言えないが、お喋りしたり歌いながら楽しく出来たらと思っていた。
「バイバーイ!」
「明日も絶対に一緒だからねー」
二人は手を繋ぎ佳乃女に背中を向け、女の子たちの後ろを母親たちがお喋りしながらついて行く
手を振り返して見送った後、悪くない疲労感を覚えながら尾白の背中に跨がった。
普段と違う帰り道。
のんびりと歩く蹄の立てる音に、夕日を映す水面が遠くまで広がっている。
そして一日を思い返して高い視点から見える水田も、数日中には薄らと緑に染まるのかと思うと、やはり皆で力を合わすと凄いと実感した。




