馬にひかれた学生6
文化祭。
馬術部ではエサやり体験を開いていた。
部長命令で文化祭中は宣伝も兼ね、部員は基本全員乗馬の格好遵守が言い渡される。
なので皆ポロシャツに乗馬用キュロット、グローブとブーツ。
乗馬の時以外、必要ないプロテクターは着けていないが、中にはヘルメットをかぶる男子の姿も。
「エサは指をそろえて広げた手のひらの上に乗せてであげてね。じゃないと、お馬さんが皆の指をエサと間違えて、噛んでしまってケガをしちゃいます。皆も痛い痛いは嫌だよね? なので、気を付けましょう。良いですか? 指を伸ばしてエサは手のひらですよ~」
副部長がエサやり希望の子供たちに注意事項を呼びかけ、同じく当番のヒメ子が子供たちにエサを渡す。
「手を開いてー、はい、ニンジン。そのままお馬さんたちに食べさせてあげてね」
小さく広げられた子供の手のひらに、小さめにカットしたニンジンを数欠片ずつ乗せる。
こうして手を開いていることを確認してから配り、すぐに順番を回すことで、指を囓られてしまう事態を未然に予防する作戦。
それぞれ担当馬に一人付いているので、ニンジンをあげたい子の前に並ぶ。
「指を伸ばして、手のひらを見せて下さい。あの奇妙な笑顔のお兄さんの馬にも食べさせてあげてね」
ヒメ子は中学生くらいの女の子たちにそう言った。
「奇妙なとは失礼だな。部長に対しての敬意とかないのか?」
「部長への敬意と列ぶ場所の説明の分かり易さは関係ない。部長の堅い笑顔のせいで、生馬が食べそびれてる。ターンステップは食べ飽きて食べなくなったのに」
そう返して二年の賀茂詩佳を見やるヒメ子。
彼女の視線を追った部長は、眉間を摘まみ上を向く。
「交代、しないか?」
まだ生馬担当の部員との交代には時間があり、エサやり希望者にニンジンを渡す係の交代を持ちかけられた。
ということでニンジンの詰まったタッパーを部長に預け、ヒメ子は生馬の隣に立つ。
「よろしくね」
挨拶で鼻を撫でると、生馬の方から顔を擦り寄せてきた。
朝や昼休みも顔を出していることもあり、担当馬以外の子からも懐かれている。
そのため、ターンステップ担当以外の部員から敵視されることもあった。
「ゼッテー、スカルラッティには近づけさせねーからな」
二年生の男子が無駄にも関わらず、担当馬のスカルラッティに近寄らせまいと威嚇してくる。
お世話をしているのは自分なのに、馬場で一緒になると構って欲しいとヒメ子に体を擦り寄せるスカルラッティが気に入らないらしい。
以前誰かに言われた。
『ヒメ子は人馬一体というよりも、自然体過ぎて馬と同化しそうだよね』と。
近くにやって来たヒメ子を、スカルラッティの目に入れないように、馬の視界を遮るように男子は立ち位置を変える。
「別に取らないよ」
「信じられるか」
「ペットの犬が友達に懐くの、別に気にならないでしょ。それと一緒」
「……」
先輩が黙って睨んでくるところを見ると、それもダメだったらしい。
「ニンジンあげても良いですか?」
お喋りしている間にエサやり希望の女性が立っていて、声をかけられたことでヒメ子の意識が戻る。
「どうぞ。指を伸ばして手のひらであげて下さい」
そう返すと女性は生馬の鼻先に手を差し出し、生馬が唇を開いて手のひらのニンジンを上手に食べる。
「鼻筋を優しく撫でてあげてもよろこびますよ」
エサやりを終えたのを見て勧めると、手を伸ばす女性。
始めは怖がっていた女性だったが、指先が触れて安全を確信したからか、前のめりに何度も撫でていた。
すると後ろに控えていた次の人は、今の女性の連れらしくキャッキャと触れた感覚を聞き、生馬とヒメ子の前に出た。
「手、こうで良いですか?」
ニンジンを乗せた手のひらを出し、上目づかいに確認してくる。
指の腹の先にネイルが覗き、ちゃんと指が伸ばされていることを目視し、相手に頷き返す。
「大丈夫ですよ。どうぞ」
「はい!」
元気の良い返事と共に手を出す。
これまでニンジンにありつけなかったからか、一気に平らげる生馬。
「撫でても?」
「ネイルで引っかいて驚かせないように、手を横にして撫でて下さい」
ヒメ子のアドバイスを受けた女性は、指が反るくらいそろえた手でそっと生馬の顔を撫でた。
「上手ですよ。気持ちよさそうに喜んでます」
「いぁああっ!」
撫で終えると喜びの声を上げ、連れの女性の元に帰っていく。
「次の方どうぞ」
ヒメ子が次を案内すると、小学生の子が前に出て来た。
見ると後に三人が並び、しばらく生馬に人の列が出来る。
「あのっ、一緒に写真良いですか?」
他校の女子らしい子に声をかけられた。
なので、一段落して手の空いたらしい部長を呼ぶ。
「部長。生馬と撮りたいので、スマホ頼めますか?」
他の馬も子供とかと一緒に写真を撮られていたので、ヒメ子は生馬をカメラの方に向かせるため、部長に撮影係を要請した。
すぐに部長がやって来るが、女子が申し訳なさそうに言う。
「えっと、私が一緒に撮りたいのはお姉さんーーなんです」
「は?」
スマホを受け取る気でいた部長は、手を伸ばしたまま動きを止める。
「ダメ、ですか?」
ヒメ子は下から向けられた返事を待つ視線に、生馬と一緒ならと頷き許可した。
「じゃ、部長。お願いします」
頼まれた部長は、ヒメ子の満更でもなさそうな表情を目にし、苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「何かその顔ムカつくな」
斜め奥から生馬、ヒメ子、そしてヒメ子の胸に寄りかかるように他校の女子と並び、女子が横持ちにしたスマホで撮影する。
「ありがとうございます」
女子は小さくお辞儀して去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、エサやり体験なのにと内心思った部長が愚痴る。
「ヒメ子目的かよ」
「羨ましい? 部長も写真撮られたかった?」
「んな訳ないだろ。エサやり体験なのにヒメ子を撮ってどうすんだ。生馬の方がイケメンだろ」
「悔しがってる」
「誰がっ!」
「演劇部から文化祭の創作演劇に、馬に乗って登場して欲しいって言われたけどーー」
「絶対ダメだからな。人の多いところに馬を連れてって、馬たちに要らないストレスをかけるなんて許さないぞ。俺が卒業しても絶対するなよ……まったく、ヒメ子のどこが良いんだ?」
何があろうと許可しないと腕を組んで渋い顔をする部長。
「でも、生馬は部長の時にはもらえなかったニンジンをもらえてますよ」
ヒメ子は答えて、エサやりに並ぶ女の子を手招きする。
「……」
否定しようもない事実に、部長は口を閉ざして持ち場に戻る。
一時間弱のエサやり体験だったが、終盤にOBと名乗る男性がやって来た。
「まだ居たかー覚えているか?」
ニンジンを受け取った男性は、慣れた感じで生馬にエサをやり、顔だけでなく首筋も手慣れた動きで撫でる。
見た目は普通の成人男性で、声が大きい以外に特筆すべきところがない。
生馬の方も覚えているのか尻尾を大きく振り、甘えるように男性の手に擦り寄っていく。
その姿を目にし、ヒメ子はその場を離れ、部長の隣に立つ。
「部長、今どんな気持ち? これって寝取られでいい?」
「黙れ。そして戻れ」
ヒメ子の質問に相手がOBなため、目の前の光景に怒るに怒れず苦い表情を浮かべた。
「今日はずっとこんな感じだな。文化祭って楽しい物じゃなかったのか?」
エサやり体験時間が終わると、OBの男性はずいぶん前にノリで改造された自転車、チャーリー2改も懐かしいと跨がった。
チャーリー2改はU字のグリップが手綱を握る姿勢、鐙に見立てるため前後を切られて細くなったペダルの改造自転車だ。
臭い対策もあって厩舎と馬場は校舎から離れているので、部員の中には校舎に忘れ物など取りに行く時などに乗る。
離れていると言えば馬のボローー糞や馬房で敷いている稲わらやおが屑の古くなった物は、敷地の端の堆肥置き場に持って行く。
堆肥は学校の畑や花壇、近所の農家に持って行ってもらうようにして利用している。
校舎にはエアコンが完備されているので、窓を閉めていれば普段の学校生活に支障はない。
エサやり体験から時間を空け、部員による馬術の実演が馬場で行われる。
「思いのほか集まってる」
「ヒメ子ちゃんの宣伝効果が効き過ぎたんじゃない」
馬場の柵前に集まった来場者の数に、副部長が冗談めかして言った。
「バカ言ってないで、馬が驚かないようカメラのフラッシュや大声とか出さないよう、始まる五分前から注意喚起するぞ」
馬術の実演を行うのは二年生で、音楽に合わせての規定演技のデモンストレーションなどを予定している。
大会に入賞した部員などは居ないため、馬を扱う練熟度と何か起きた際の対処など運営の分担を考えると、二年生が馬に乗り三年生がサポート、一年生が来場者に対応するのが良いのではという決定だった。
部長の指示通り足を運んでくれた来場者には柵より近づかない、柵に寄りかからないなどアナウンスして周り、撮影機器のフラッシュや大きな声も馬が繊細だから控えるように説明する。
もちろん、学校の新聞部や放送部の部員にも、エサやり体験からちょくちょく顔を出すので、先に禁止事項を説明済みだった。
「あとは思いのほか集まったから、馬たちが演技に集中出来るかが気がかりだな」
馬術部の誰よりも馬と馬術に真剣な部長が懸念を口にする。
「柵に寄りかからないようお願いしまーす」
「すみません、後ろの人が見えるように風船を胸まで下ろして下さい。ありがとうございます」
「もう少しで始まるからね。人にぶつからないように走らないでね」
一年生が来場者に呼びかけて周り、副部長が主なアナウンス兼司会役で、プラスチックの瓶ケースの上に立っていた。
「お集まりいただいた皆様にお願いがあります。馬場の柵には寄りかからないで下さい。お馬さんは人に馴れてはいますが、臆病で大きな声や音が苦手です。なので馬術の実演中に大きな声、音は出さないようにお願いします。スマホやカメラによる撮影は可能ですが、馬が驚いてしまうのでフラッシュやライトの使用はお止め下さい」
子供や大人、集まる人々を見渡しながら、副部長はアナウンスを続行する。
「スマホやカメラは後ろの人が見えるように高く上げないようにお願いします。続きますがスマホやカメラで撮った物は、SNS等にアップするのは禁止でお願いします。その他馬術の実演に支障をきたす行動が見られた場合、その都度部員の方から声をかけさせていただくこともあるのでご協力お願いします。長くなりましたが、もうじき実演が始まるので、楽しみにしてしばらくお待ち下さい」
馬術の実演はジムカーナと馬場馬術の二つを行う。
ジムカーナは馬場内に設置した三角コーンや横木を障害に、速歩で三角コーンの間を通したり、旋回などして走らせ、横木の上を跨いで越えさせる。
本来は高さの低い障害のコースでタイムを競うため、見ていて分かりやすく動きがあって飽きないため、地味な馬場馬術の前に持ってきた。
普段の障害馬術ーー障害飛越競技よりは、ジムカーナの方が障害物は低く、左右に蛇行するスラロームなど単調にならず良いのではないかというのが決定の理由。
それだけだと見てる人には物足りないかと、障害飛越競技で使うバーを渡した垂直障害を一台設置してある。
コースの最後に跳ぶようにして、見応えがあるように考え、部員たちで設置した。
馬場馬術は決められた順路を決められた歩様、常歩、速歩、駈歩でリズム良く正確に、美しく動と静を行う必要があるので、騎手と担当馬の集中力が試される。
見るだけでは退屈かもしれないが、馬に乗ったことがある人には、その難しさや凄さが理解してもらえるはずだった。
そして実演は予定通り進み、ムジカーナで観客から声が湧き、賀茂詩佳とターンステップの馬場馬術の演技で終わりとなる。
しかし、何も無く無事に終えると部員の誰もが思った瞬間、大きな破裂音が辺りに響いた。
それは鼓膜を打ち、音楽をかき消すほどの音。
「割れたー」と、子供の声が聞こえたが、ほとんどの人の視線は、体を起こし前脚を浮かすターンステップに注がれていた。
「あっ……」
ターンステップの背に居た賀茂詩佳が、悲鳴を上げる間もなく、砂地の馬場に落下した。
握っていた手綱は一瞬ピンと張って彼女の手から離れ、驚いたターンステップが馬場の奥の方に逃げ出す。
部長ともう一人の先輩が賀茂詩佳の元へ走り、柵を越えてしまわないようヒメ子が、ターンステップの元へ全力疾走する。
顧問の後藤芽枝も部長に遅れて、賀茂詩佳の元に駆けつける。
自分も心配だろうにザワつく来場者に向け、副部長は落ち着くよう呼びかけていた。
「落ち着いて下さい、落ち着いて下さい! 申しわけないですが、最後の演目でもあったので、ここで終了したいと思います!」
馬場では部長が駆け寄ると、自ら身体を起こす賀茂詩佳の姿があり、プロテクターやヘルメットのおかげで大事にはならなかったようだ。
部員たちの肩から僅かに力が抜ける。
ターンステップも文化祭の会場に逃げ込むことなく、ヒメ子が手綱を掴み、身体を撫でて落ち着かせる。
とりあえず副部長の指示で、来場者を退場させるため一年生の誘導が始まった。
「ありがとうございました! 急がずゆっくり戻って下さーい。ありがとうございましたー」
「また来年も見に来てくれたら嬉しいです。文化祭はまだまだ時間あるんで、他の催しも楽しんでいって下さいね~」
「もし乗馬に興味があるようでしたら、インストラクター付きの乗馬体験がおすすめです。犬でいうリードと同様引き手のリードロープで補助してくれるので安心安全だと思います。スマホで『乗馬体験』や『乗馬クラブ』で調べていただければ、地元の乗馬クラブが出てくると思うので、興味持ったら挑戦してみて下さいねー」
出来る限り、落馬という事故で暗くならないように、明るく見送る部員メンバーたち。
ヒメ子はターンステップを撫でて落ち着かせながら、落馬した賀茂先輩を見やった。
賀茂詩佳は手を取られながら歩いていたし、ターンステップは落ち着かせてから馬房に戻した。
ほどなくして部員と一緒に保健室から養護教諭がやって来て、痛みがあるという賀茂詩佳の足首を触診し、念のために顧問の後藤芽枝が病院へ連れて行くことになった。
幸い賀茂詩佳は左足首を痛めただけで、その他の怪我もなくて皆胸をなで下ろす。
文化祭の方も部長と副部長に任せたので、顧問が抜けても問題なかった。
後藤芽枝が不在の片付けはもちろん、その後の重くなる部員間の雰囲気も、男女それぞれ文化祭に連れ出して励ましていたと、養護教諭から聞かされる。
「私が女子高生だった頃より、全然しっかりしたフォローで、私の仕事なんて『遊びに行ってらっしゃい』だけでしたよ」
そう言って養護教諭は苦笑して見せた。
こんな感じに賀茂詩佳が大事なかったため、部活は普段の日々をすぐに取り戻していた。
なので部員はもちろんヒメ子は、冬に馬の毛刈りを経験したり、雪の馬場で乗馬したり、馬術部で三年生の卒業を祝ったり、概ね平穏な高校生活を送った。
あと事件があったとすれば、一年がマネージャーとして入部した時に起こった。
マネージャーは馬術をしない以外は普通の部員と変わらず、飼育している馬の担当の生徒が都合悪い時に代わり世話をしたりする。
そのことを副部長になっていたヒメ子が今さら知り、馬術で騎乗をしなくても入部出来ることに驚愕していた。
この頃には部内で一位二位を争えるほどの実力を持っていたけれど、お世話だけで練習せずに済むなら、四頭いるのでずっと馬に接せられてたと怒りを爆発させた。
結果的にだけれど高校卒業後、ヒメ子は馬術が上手いので馬術部のある大学に進学する。
そんな彼女が卒業してから二年後、大学生になった彼女の様子を見に後藤芽枝は大会を訪れた。
この頃はまだ顧問として指導出来ていたかは自信がない時期で、一応元教え子になるヒメ子には声をかけず、観戦だけさせてもらうつもりだった。
彼女が出るのは障害馬術で、馬場への入り口に向かう姿を見つけた。
高校卒業時よりも大人びた感じがあるが、緊張らしい緊張が見られない様子に、ヒメ子本人の面影を見る。
「変わらないわね」
すると彼女以外に目が向いた。
次の順番の馬なのか、ヒメ子に興味を示す素振りを見せている馬がいる。
それを周囲への不安や緊張と受け取った騎手は、鞍前の首に触れて語りかけていた。
「集中だぞ。大丈夫大丈夫」
まだヒメ子が演技中だけれど、前足で地面をかいて落ち着きがない。
「落ち着いて行こうマークシックス」
競技が始まる前に疲れてはいけないので、何とか騎手がなだめようとするも、中々上手くいかずに背に乗る男性は焦りを見せる。
それでも見に来た目的、競技中のヒメ子に意識を戻す。
演技はトリプルのバーと奥行きある障害物のオクサーで後肢が引っかかり、バーを落とした分減点されてしまっていた。
規定タイムの超過は減点対象だけれど、ここまでで二位となる得点ではあった。
それなので元教え子に拍手を送る。
馬場から退出のため出口に向かうヒメ子と入れ替わりに、入り口から次の選手と馬が馬場に入った。
すると鞍上のヒメ子の耳に振動する低音が聞こえた。
耳にすると背筋に寒気が伝うような音で、直後、馬が突如立ち上がった。
反射的にタテガミを片手で掴み、手綱で馬に横を向かせる。
周囲がざわめき立ち、また振動するような低音ーー蜂の羽音が唸った。
一度着地した前脚は蹄を振って再び跳ね上がり、興奮して体を捩り暴れる。
「くっ……おっち!?」
手綱を捌こうとするも、背に乗っていられず落馬。
ヒメ子の視界が急速に回り、気づいた時には地面に叩きつけられていた。
彼女の視界に蜂に驚き、更に近くの障害物に当たり、遠くに走り去るのではなく、跳ね戻るように混乱した蹄がヒメ子に迫った。
各所から悲鳴が上がる中、控えから馬場に入ったマークシックスが、騎手の静止を利かずに駆け出す。
障害馬術をする馬場の端から端までは、馬にとってあっという間だけれど、それでも混乱した馬がヒメ子を踏みつけるには十分な時間だった。
マークシックスは一気に砂地を走り、直前で前脚を上げて嘶いて暴れる馬を威嚇する。
蜂に驚き興奮する馬は、新たな脅威を前にして逃走を図った。
混乱から振り下ろされた蹄から彼女、樋目野川美都里子を助ける。
脅威を遠ざけたマークシックスは、地面に横たわった彼女に首を下げた。
本来は呼吸なりで身体の動きが見て取れるけれど、ヒメ子は起き上がらないどころか、手足から力が抜けているように見えた。
「だっ、大丈夫ですか!」
マークシックスから飛び降りた騎手が、地面に膝をついて呼びかけた。
けれど彼女から返事らしいものは見て取れず、柵の向こうから担架を持った男性を始め、何人ものスタッフが駆けつけた。
しかし、落馬の際に打ったところが悪かった上、馬の重い体重で踏まれもして助からなかった。
それが分かっていた訳ではないだろうが、庇った馬は悲しそうに首を下げて鼻先を寄せる。
事故後にその姿が人のようだと一時話題になった。
馬好きの彼女が馬によって命を落とすなんて皮肉が効いている。
落ち方によっても落馬は危険と頭では理解していたが、目の前で元教え子が事故に遭う様子はショック以外の何物でもなかった。
後にヒメ子の代に当たる部員とも顔を会わす機会があり、特に部長が亡くなったことにショックを受けていた。
何でも卒業式の日にヒメ子を呼び出して告白したらしい。
けれど、いつものつかみ所のないのんびりした雰囲気のまま、眉一つ動かさず断られたという。
『馬が好きなのは分かってたが、好きって言われたんだから、何かしら反応しろよって話しじゃないか。余りにも特殊過ぎてショックで、本当に気持ちを伝えたのかさえ怪しかったんだぞ。そのせいでまだ告白した時のことが忘れられねーよ』
怒りなのか悲しみなのか分からない感情に、副部長が『まぁ、そういう子だったし』と慰めていた。
『しかも大学で良い馬が居たら紹介しろとか! 普通フった直後の相手に頼むか?』
『ヒメ子ちゃんなら頼むんじゃないかな。頼まない方が、死んじゃったくらい信じられないけどね』
一緒にターンステップ担当だった賀茂詩佳も泣き笑いのような表情を見せる。
それを言ったら顧問の後藤芽枝も、覚えている彼女との会話があった。
ヒメ子が二年生になったばかりの頃。
『先生、ずっと聞けなかったんですけど』
『なに? 樋目野川さん』
『一年生だった去年の今頃、お昼も厩舎にいたわたしに先生はよく話しかけてくれてましたけどーー』
『あぁ、あの頃は』
『ーーもしかして、ぼっちだったんですか? わたしを心配してくれてもいたのは、実は職員室で他の先生から嫌み言われるから逃げてきていたとかないです? 今は全然そんなことはないですが、大丈夫になりました?』
まさか心配していたのに、逆に心配されていたことに驚いた。
『そんな風に思ってたの?』
『はい。厩舎の辺りには顧問で無い限り教師も来ないので』
もちろん、教員駐車場に向かう教師がすぐそこを通るけれど、厩舎の方に回ってくることはない。
勘違いだけれど心配してくれたことには素直に『ありがとう』と返し、問題ないことを伝えた。
だから樋目野川美都里子という名前を聞けば、どんな生徒だか鮮明に思い出せる教え子だった。
ヒメ子の死亡は誰にとってもあっけなく、信じられない出来事で間違いなかった。
それに彼女を助けた馬は大会後、練習中に転倒して助からなかったと風の噂で耳にした。




