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馬にひかれた学生4 後編

 お互いに自己紹介をし、新谷(にいや)と名乗った女性と歩いていた。

「へぇ、二人とも馬術部なんだ」

「そうなんです。そこで後輩で入ってきたヒメ子ちゃんに馬蹄音を聴いてって勧めたら、好きになってくれて。ヒメ子ちゃんは見た目はカッコいいけど、のんびりしていて可愛い後輩なんです」

 手を引くヒメ子を振り向き、副部長が優しくはにかむ。

「じゃあ、休みの日まで競馬場にお馬さんを見に来るってことは、将来はそっち系のお馬さん関係の仕事が夢なのかな?」

 主に副部長と喋っていた新谷が、二人を交互に見やった。

 まだ僅かな時間しか過ごしていないけれど、副部長の柔らかな口調と態度で、かなり初対面の緊張が解れ、彼女と気軽に喋れるようになっていた。

「いいえ、私は事務系の就職が出来ればなって」

「そうなの?」

「はい。馬はあくまで趣味です。もちろん本気で部活はしてますけど、馬蹄音を浴び続けるなら土日休みの、休日が固定されたところが良いかなって思ってます」

 あっさり新谷に答えた返事が意外だったヒメ子は呟く。

「馬に関係なくても、てっきり大学に進学するのかと思いました」

「そお? たぶんヒメ子ちゃんが思ってるほど、大学に行けるくらい頭よくないよ。私」

 一応担任には大学の選択も、今からなら間に合うとは言われていると副部長は明かす。

「で、ヒメ子ちゃんは? 将来なりたい職業とかさ。それこそ馬に惹かれて入部したけど、進路はどうしたいのかな?」

 新入部員の自己紹介で馬に引かれた下りは話していたので、副部長にそう訊かれ、顔を伏せてキャップのツバを横に振った。

「分かりません。今馬が気になって惹かれてるだけで、将来就きたい職業とか分からない……三者面談でも想像も出来ないし、分からないって答えたら、勉強頑張るなら考える時間を延ばすため、大学へ行っても構わないって親から言われた」

「両親優しいじゃない」

「両親自身、大学に進学した理由はそうだったみたいで。わたし勉強すると眠くなるから、余り頑張りたくないです」

 新谷は話を始めた身として、申し訳なさそうな表情を見せるが、空気が重くなる前に副部長が明るく言った。

「ヒメ子ちゃんは一年生だし、悩むの先延ばしにして大丈夫だよ。だから、今日は競馬場を楽しんで! 絶対、全身で感じる馬蹄音は最高だから!」

 そう言って握られた手はヒメ子よりも小さく、励ますように優しく引かれた。

「ずっと考えてたってろくな答えなんて出ないんだから、今は目の前のことを楽しまないと。楽しく過ごしてれば見つかるかもよ」

「はい!」

 お喋りをしながら三人は、地下通路を抜けて内馬場の地上へ出る。

 今日は天気が良く、キャップをかぶっていても通路より明るい光に眩み、目を細めた。

 そして風はそこまで吹いていなかったので、過ごしやすい雰囲気を感じた。

 今週は内馬場の常設二店舗に加え、キッチンカーが出店しているという。

 あとスタンド側と異なり、人のガヤガヤした喧騒は子供の歓声が占める。

 その間からリズミカルな馬蹄音が耳に入り、馬術部の二人は反射的に後ろを振り返った。

 離れてはいるけれど、馬が一頭走っている姿が目に映る。

「ウォーミングアップ中だね。たぶん数分でゲートに入って、レースが始まるから見よ」

 教えられたにはパドックからコースに出た馬が軽く走る返し馬という最中らしい。

 競馬場経験者の副部長に先導されるまま、初心者の二人はついて歩いた。

「うわぁ、大っきー」

 スタンドに向けて立つ、ターフビジョン脇を通った時、新谷が見上げながら呟いた。

 ヒメ子もスタンド側から見たときに大きいとは感じたけれど、近づくとより大きくて振り仰ぐ。

「パパが言うには高さは白い悪魔よりも少し低く、横は怪獣王の身長よりもちょっと長いらしいよ」

 全くピンとこない解説の例えに、二人とも触れずに副部長の先導に続く。

「芝なら馬との近さ的にはスタンド側が近いけど、やっぱり人が居るから声や息を呑む雑音があるから、余り見る人が少ない内馬場から見ようか。人気がないレースというか、人の姿がまばらなら向こうで見てもよかったんだけど、なれずに人酔いしてもいけないからね。何度も言うけど、初心者のヒメ子に楽しんでもらいたいから」

 だから、大袈裟なくらい気を付けると言う。

 内馬場の柵に手をついて、三人並んで眺める。

 すると女性が小さな声を漏らした。

「あ……っ!?」

 たった一言でヒメ子も、どこを見て声が漏れたのか分かった。

「若い馬かな? 馬っ気出ちゃってるね」

 副部長も一頭の牡馬の勃起した局部を見て囁いた。

「ウチの部活で面倒みてるのは、牝馬か虚勢したセン馬だけだもんね。大っきいよね」

 見慣れているのか、副部長の態度は平然としていた。

 それに乗馬をするのに大人しい牝馬か、虚勢して比較的大人しいセン馬が相応しいらしい。

 発情したり気性の荒い馬は避けた方が無難だという。

 まして高校の部活で扱うのだから、安全対策という面で大人しい馬の方が好ましいのだろう。

「人間の物もあんなんなんですか?」

「えっ!? その……お馬さんの方が……凄いかな」

 答えづらい質問に返した新谷は言葉を濁す。けれど三人とも馬の局部に目が止まったのは確かだった。

 するとファンファーレが馬場のみならず、スタンドに反射するくらい大きく鳴り響く。

 これにより今見た物の話は自然とたち消える。

 首を向けたヒメ子の視線の先では、芝コースで順にスターティングゲート入りする競走馬たち。

 騎乗した馬をスタッフが誘導し、一頭ごとの枠に収めていく。

 しんと静まり、かけ声やピストルの音なのかと待った瞬間ーーカシャンっと音が聞こえたと同時に、開いたゲートから一斉に十数頭の馬影が飛び出した。

 それなりに見ている位置から距離があったはずが、地面を震わせているかと思うほどの馬蹄音が圧を持って押し寄せ、あっという間に迫った十数頭が目の前を走り去った。

「……!」

 馬蹄音を浴びると副部長が表現していたことを、理屈でなく実感として体感した。

 生で馬蹄音を体験した感想を伝えるため、抑えきれない逸る気持ちで副部長を振り向くが、何か言葉にするよりも早く副部長が動く。

「さぁ! 反対側まで走るよ!」

 柵から離れて振り返った副部長が、笑顔で二人を促した。

 疑問を返したりする暇を与えず、くるりと長い髪を振り広げて駆け出す。

「ーー先輩っ!」

 ヒメ子は反射的にその背中を追って踏み出し、一拍遅れて新谷も分からないなりに走り出した。

「まっ、待って!」

 ただ追いかける形で走り出した二人とは違って、副部長は迷いの無い走りでバラ園の脇道を行く。

 しかし、走っても問題の無い足元の女子高生二人に対し、新谷は走るのに適しているとは言えないヒールブーツを履いている。

 年下二人を一生懸命に追いかけながら、女性は顎を上げて叫んだ。

「ちょっ! もう少しーーゆっくり!」

 そこで立ち止まって振り向いた副部長は、途中ヒメ子の手を取り新谷の元まで駆け戻る。

「ヒメ子ちゃん!」

 女性の右手を握った先輩の一言で、察したヒメ子は反対側の左手を取った。

「いくよ~、はっしれー!」

 前を二人が新谷の手を引く形で再び走り出す。

 遊具で遊ぶ子供たちの声が響く公園や、芝生の広場でピクニックする人たちを縫って大胆に縦断する。

 この時分には副部長は新谷に手を引かれ、新谷はヒメ子に手を引かれていた。

 けれど一番後ろを走る副部長が、息を切らして叫ぶ。

「二人とも頑張ってー」

 急かされて走る三人の先、柵の十数メートル手前で馬群が駆け抜け、コーナーに向けて走り去ってしまう。

 馬のお尻で風を受けて揺れる尻尾が遠くて早い。

 とても人の足ではどうにもならないが、ヒメ子が走りを緩めただけで、誰も足を止めずに走り続けた。

 内馬場には色々な施設があるため、遊歩道は緩くカーブを描いてたりし、一直線に内馬場を突っ切って反対側の柵にたどり着くのは不可能。

 三人ともヘロヘロになりながら柵に手をついて、顔を俯かせて肩で荒い息をした。

 そして副部長は空を仰ぎ見て、大きく息を吸い、おかしそうに笑い声を上げる。

「あはははは、やっぱ間に合わなかったか~」

 人間と同じで走る距離にも寄るけれど、速度は50キロ後半から60キロ台で走り、より短距離の方が速い傾向にあって70キロ台を出すこともあるという。

 ヒメ子も突然走ったので心臓がバクバクし、口の中が乾いたまま乱れた呼吸を調える。

 無理矢理走らせてしまったけれど、柵を片手で握りながら、新谷は胸に手を当てて微笑んだ。

「久しぶりに走った~。大人になると走らなくなるから、何か学生の頃より体重いし、遅い気がするなぁ。ふふふっ」

「はぁーあ、次のレースはだいたい三十分後だから、飲み物と食べ物買い込んで戻って来よっか」

 今度は最初からこの芝生の広場の端で、美味しい物を食べながら、走ってくる馬蹄音を浴びようと副部長は言う。

「名物は午前中に並んどかないと、午後には売り切れちゃうからね。だけど常設はいつでも食べられるから、今日はキッチンカー優先。どうしても食べたいのは別で買い込も」

 副部長の食べ物調達の提案に、息を整えた初心者二人は賛成した。


「人数居ると色々買えて嬉しいな。いつもお昼はママとで食べられる分しか買えないけど、今日はヒメ子ちゃんもいるし、皆若いから食べたいの気にせず買えたよ。ママのお腹と相談しながら、最悪パパに押し付けよって選ぶんだけどね」

 その手にはタピオカミルクティーが握られ、一つでお腹いっぱいになっちゃうから、ヒメ子に半分飲んで欲しいとお願いされていた。

 今回のキッチンカーは韓国グルメ特集らしく、買い集めた食べ物は韓国料理が多めになる。

 新谷の手には10円パンが、ヒメ子は一周回って見なくなったチーズハトッグを手にしていた。

 手首から下げたレジ袋の中には、ヒメ子の分の10円パンを始め、トッポギ、ヤンニョムチキン、キンパなどが入っている。

「意外とトッポギ人生初かも」

「ヒメ子ちゃん、そうなの?」

 歩いて芝生の広場に戻る途中、トッポギを食べたことないと明かすと、副部長が首を傾げた。

「なんか沢山食べるから、色々な物を食べてるかと思った」

「私もキンパは初です」

 一つ隣を歩く新谷も、初めてキンパを食べると告白した。

「私は競馬場でフードフェアみたいなのが開かれた時に、だいたい食べてるから初は無いかな。でも、美味しいのは分かってるから楽しみ」

 デザートには訪れている競馬場の名物、ドーナツと馬の焼き印が押された今川焼きが待っている。

 買い出しの時に往復して通りかかったバラ園について、フランスではバラの育成に馬糞の堆肥を使うらしいから、もしかしたらここでも使っているかもしれないとうんちくを話してくれた。

 思いのほか買い込み過ぎて時間がかかったため、着く頃には次のレースが始まっていた。

「ごめん、見てから食べよ」

 おおざっぱにしか予定を決めず、その場で行動することは自分もするので、その確認にヒメ子は異論が無い。

 二人は残りの距離を走り、柵に寄りかかって馬蹄音を待ち構える。

 するとコーナーを曲がり、馬群が見えた辺りから音の気配がやってきて、すぐに地面が震える様な馬蹄音が押し寄せてきた。

 空気を震わす楽器演奏とは違って、足元から突き上げるような振動が全身を襲う。

「…………」

 1ハロンは200メートルと聞くけれど、コース脇に立つハロン棒からハロン棒まで、馬は一息で駆け抜けてしまう。

 その姿に目が釘付けになって、呼吸を忘れてしまいそうになる。

 見る見る間に馬との距離が縮まり、足元から響くだけでなく全身を震わす馬蹄音にぶつかられたような衝撃を受ける。

「ーーーーッ!?」

 芝生のコースまでの間には、ダートコースがあるはずなのに、その距離さえ感じさせない馬群の迫力に圧倒されてしまう。

 追って首を振り切った時には、夏の遠雷ほど蹄音が小さくなっていた。

「ヒメ子ちゃん、どうかな!」

 柵に飛び付いたまま振り向いた副部長に感想を訊かれ、ヒメ子は肌で感じた気持ちを素直に言葉にした。

「すごい良かったです! 生で聴く馬蹄音が滝つぼって感じで」

「?」

「今までスマホで聴いてたのが子守唄に思えました!」

「??」

 副部長の顔は困ったような笑顔だったけれど、気にならないほど興奮しているヒメ子を前に満足する。

 浴びると表現した副部長の言葉に違わず、控え目に言って全身で受け止めた馬蹄音は最高だった。

 直に馬蹄音を浴びた高揚感の余韻に、次のレースが待ち遠しくて落ち着かない。うずうずする。

 後輩の表現に困った副部長だけれど、ヒメ子のテンションが上がっている様子に勧めた側として嬉しくなる。

「あと馬蹄音も良いけど、見て欲しいのは馬の足が地面を蹴り抜くところかな。部活だと全力疾走の姿は見られないから、力強く芝やダートを踏み抜く迫力がおすすめ。後半坂だったりすると脚色が衰えたりするけど、その良さは変わらないはずだよ」

 更に独自に思う競馬の良さを聞かされ、ヒメ子は刺激される期待に落ち着きがなくなる。

「そうなんですね。次のレース、そこにも注目して見るの楽しみだな」

「次は三十分後だから、そろそろ女子会始めますか。ちょっとごめん、タピオカ持ってて」

 タピオカを受け取ると、副部長は自分のポシェットに手を伸ばす。

 すると付けられていたぬいぐるみキーホルダーを外し、裏側を開いて薄いレジャーシートを広げた。

 レジャーシートが中に仕込まれたぬいぐるみキーホルダーだったらしい。

「皆のお尻が乗るくらいはあるかな」

 パサッと大きく振ったレジャーシートは薄くて風に揺られてしまう。

「持つので敷くの手伝ってもらえますか?」

 ヒメ子は新谷に声をかけて、彼女の食べ物を受け取る。

 女性と風で揺らぐ端を二人で持つ副部長は、地面にしゃがみ込みレジャーシートを下ろす。

 すると二人で四隅を押さえている副部長が、ヒメ子を見上げて頼み事を口にした。

「ヒメ子ちゃん、先に真ん中座ってシート押さえてくれる?」

 先輩の頼みに背を向け、敷かれたレジャーシートの上に、腕を前に突っ張りながらゆっくり腰を下ろした。

 そして両側の二人も、手で端を押さえながら、慎重にお尻をつける。

「ありがと」

 副部長にタピオカを返し、新谷にも食べ物を渡す。

「どうも」

 それぞれ食べ物が行き渡ったところで、買い込んだグルメを食べながらのお喋りが始まった。

 主に副部長と新谷の二人が喋っていた。

 ヒメ子は時たま相づちや一問一答的に会話に加わった。

 一通りメインに舌つづみを打って楽しんだ後、デザートのドーナツや今川焼きに手をつける。

 グルメに一段落つくと、副部長は一度キャップを脱ぎ、髪を櫛で梳いて整える。

 新谷もスマホのカメラで前髪を直し、顔を振ってメイクの確認をした。

 二人が身だしなみを気にする中、ヒメ子は変わらず今川焼きにかじり付く。

 そんな会話に相づちを打ちつつ止まらないヒメ子の食欲に、新谷はお喋りを一旦止めて目を丸くする。

「本当、よく食べるんだね。男の子より食べているんじゃない? 大丈夫?」

 一時やっぱりパフェが食べたいと、一度抜けて買ってきた副部長。

 しかし、途中で食べきれなかったので、ヒメ子が残りのパフェをもらいつついている。

 パフェはソフトクリームが溶けてしまうので、途中キンパとトッポギの間に完食していた。

「ふすっ、ちょっとずつ色んなのが食べられて嬉しい」

 半分食べてと渡されたドーナツを、もっもっと食べるヒメ子。

 もちろん三つ購入したので自分の分も食べており、平気でパクつくヒメ子に副部長がおかしげに笑う。

「違うよ。ヒメ子ちゃん。新谷さんは太らないか、体重は気にしないのか言ってたの」

「それなら大丈夫」

 先輩の指摘に新谷へ頷いてみせた。

「それってヒメ子ちゃんは太らない体質の人なの? 私すぐお腹に付くから羨ましいな」

 首を傾げてため息をつく彼女。

 しかし、ヒメ子は首を大きく振って否定する。

「んーん、ちゃんと太る」

「へ?」

 返ってきた答えに新谷は目が点になる。

「身長があるから太った感じしないですけど、入学時はもうちょっとお肉あったんですよ」

 食べ物で膨らむ頬を指でつつく副部長の補足に頷く本人。

「馬術部に入ってから少し痩せた」

「入部の時に撮った物と比べると、ちょっと引き締まってるんです」

 副部長はスマホを取り出し、SNSのアプリを開いてその時撮った画像を見せる。

 ヒメ子を挟んで覗き込む新谷の隣で、ドーナツの後に今川焼きも完食した。

「次のレースはダートだから、芝より馬蹄音の迫力は劣るけど、砂を巻き上げるように蹴って走る足元は迫力あって悪くないよ」

 レジャーシートから立ち上がり、伸びをする副部長。

「まぁ、蹄の音を聞くだけならパドックもあるけど、私は勢いのある馬蹄音が好きだからレースが好き。でも、一応パドックも後で見に行ってみようか?」

 背中の方でファンファーレが響き、新谷をレジャーシートに残し、ヒメ子も立ち上がって手を空に向けて伸びをする。

 すると横から伸びてきた手が、ヒメ子の腹部を撫でた。

「おおー、ちょっとポコッとしてる」

 そして柵に二人寄り、地響きを轟かせながら迫る馬蹄音を肌で感じ、全身で浴びた。


 新谷の待ち合わせ時間が近づいた。

 内馬場からスタンド側の建物に戻り、副部長の先導の元通路を歩いていた。

「案内してもらってありがとうね。楽しかったよ」

「いいえ、困った時は、です。もしまた新谷さんをほったらかしにするような男性と来たら、その時はまた付き合うんで一緒に回りましょう」

 是非と副部長の背中を見ながら、ヒメ子の隣を歩く新谷が答えた。

 そして待ち合わせの柱がすぐそこというタイミングで、新谷が足元につまづき前のめりになる。

「っーー!?」

 あっと思う瞬間、ヒメ子が横から腕を伸ばす。

 傾く身体の前面を腕で受け止め、横から抱き締めるようにして新谷の転倒を防いだ。

「……っ」

 転びそうになった新谷も、ギュッとヒメ子の腕を抱え込んでいた。

 待ち合わせの前に立ち寄ったショップで買った馬のキーホルダーが揺れる。

「あ、ありがとう」

「いいえ」

 突然の出来事に三人とも息を呑み、副部長がほっとした声を零す。

「せ、セーフ。ヒメ子ちゃんナイス」

 二人が身体を離すのを忘れて固まっていると、向かっていた進行方向から声をかけられた。

「おい! 誰だよソイツ!」

 低い声に顔を上げると、ヒメ子たちから数歳上の男性が、隣の新谷に丸くした目を向けていた。

 受け止めていた彼女の身体を起こし、ヒメ子はそっと腕を下ろして男性を見やる。

「誰なんだよ」

 そう言いながら驚きとも怒りとも取れる男性が、ほぼ同じ目線の高さでヒメ子を睨んできた。

「ここで出会った子たちだよ」

 新谷は相手に答え、副部長にも目配せする。

「逸れたのに探しに来てくれないから、一緒に連れてってくれてここを案内してもらってたの」

 その説明に男性が納得した様子は無い。

「……」

 男性は、転倒寸前だった新谷を支えるヒメ子から目を離さない。

 すると副部長が男性に向かって言う。

「お兄さん、お兄さん。お兄さんが嫉妬する資格があると思うんですか?」

 そう切り出した副部長に、男性の敵意が移る。

「は? 関係ないだろ。他人は黙ってろよ」

「嫌です。お兄さんは怒られはしても、怒っていいわけないじゃないですか。お姉さんが居なくなって心配はしなかったんですか? むしろ離れ離れになっても、探しに来てくれないお兄さんを置いて帰らなかったお姉さんに感謝するべきです」

「お前なに言ってーー」

「もしもこれがデートでないにしても、お姉さんを見て下さい。こんなにオシャレして来ているんだから、一言くらい褒めても良いのに何ですか? お兄さんはTシャツにジャージで失礼じゃないですか。転ぶのから助けたヒメ子ちゃんに嫉妬するくらいお姉さんが好きなら、ちゃんと見た目気にしてコーディネートして来てからですよ。じゃないと一丁前に独占欲を誇示するなんて権利あるわけないでしょ」

「勝手に喋んな!」

 男性が顔を歪めたところを見るに、痛いところを突かれたようで納得した様子は無い。

「それも嫌です。初めてのところに連れて来て放っておくとか、お兄さんを嫌いになっていてもおかしくないんですよ。ちゃんと考えて下さい」

「勝手なこと言うな!」

 新谷に対しては後ろめたさがあるのか、表情に変化が見える。

「むしろお兄さんは見捨てなかった新谷さんに感謝するべきです。デートにオシャレせず、競馬場に連れて来たのに放置し、挙げ句に助けた人に嫉妬して威嚇する。お兄さんカッコ悪すぎですよ」

「ぐっ……」

 年下にされた指摘に口を閉ざす。

 じわじわと副部長の言葉が効いてきたのかもしれない。

「競馬に注ぎ込むお金があるなら、半分でも新谷さんと過ごすのに費やしたらどうですか? 服装調えて二人で散歩したり、おいしいスイーツとか内装の凝った喫茶店で休憩して、またねって彼女の家の近くまで送るだけもして下さい。何なら競馬場の帰りに行っても良いんですよ。もちろん、これだとご機嫌取り程度ですけど、マイナスのまま今日別れて見捨てられるよりはマシだと思いません?」

「……はい……」


「新谷さ~ん、またねー!」

 離れ離れにならないよう腕を組み、小さく手の平を振る新谷に、副部長は胸の前で両手を振り返す。

 ヒメ子も手を振り、応援馬券のレースのため相手の姿が見えなくなると、そっと副部長の手が握られた。

「これから食べた分を消費するためにも、パドックに行きます」

 歩いたくらいでカロリーを帳消しに出来なくとも、少しでも消化しようと抵抗を見せる。

 何だかんだ副部長も、普段よりも甘い物食べたと自己申告していた。

「馬蹄音を楽しむのは私のおすすめ。せっかく競馬場に来たんだから、私の楽しみ方を押し付けるだけじゃつまらないかなって。ヒメ子ちゃんは馬に惹かれて馬術部に入ったんだから、色んな子をみたいでしょ? 競馬場の楽しみ方は人それぞれなんだから」

 はにかむ副部長に手を引かれ、人の流れに乗りつつパドックに舵を切る。


 ちょうど柵の前に一人分のスペースが空き、とりあえず男性が抜けた場所から見ようということになった。

「先輩、前に」

 副部長を先に通して柵に寄せ、ヒメ子は後ろから彼女の身体を避けて腕を伸ばして柵を握る。

 頭一つ分では無いけれど、支障なくキャップ越しに向こうが見えた。

 それと先輩からは良い香りがした。

 パドックは横に楕円の小さな馬場で、スタッフに引かれた出走予定の馬が姿を見せ、柵越しに人びとの前を歩いて周回する。

 柵に集まる人はだいたいが、歩様を見ながら馬にスマホのレンズを向けていた。

「ここで馬たちの様子を見てから、考えて来た予想をそのままで馬券を買うか、変えるか決める人もいるんだよ。オンラインだと券によってはレースが始まる数分前まで買えるから、本当のギリギリまで馬券を買わないことも出来るんだ。もしくは絶対この馬はこれってのを決めてあるなら、購入で混む前に建物内の発券機で各レースの馬券を先に買ってしまうのも手らしいよ」

 知っても結局は馬券の買えない年齢の二人。

 引かれてやって来る競走馬の歩様を見て、カッポカッポした蹄の音を耳にしながら、脱力してパドックを眺めた。

 列をなして流れ行く馬の聞き慣れた三拍子の間から、周囲の男性たちのボソボソとした独り言が聞こえてくる。

「首を振って、緊張か? やっぱり体付きもまだどことなく若いし……どうすべきか」

「歩きに余裕があるか。期待してみるのが正解か」

「落ち着きないな。周りの人に驚いてるだけなら良いけどーー」

「重賞馬ではあるが……得意な距離が」

「体重プラス2か~」

「二回目のダートだったな」

「親も先行の馬だったが……今日の騎手はまだ若手か……前回はタイミングを迷ってまくりきれなかった感じか。う~ん」

「あんまりマッチョでもって感じで……変えるとすればさっきのか?」

 そんな気にすべきことなのか、初心者では判断できない内容に、最後の呟きに一日が一年になる部屋で修行した親子みたいなことだろうかと想像する。

 歩く時に浮き上がる筋肉は立派だけれど、走るには必要ない物で、力強さの引き換えに可動域とか速さを失ったりということなのだとか。

 ヒメ子的には、一度に十数頭の馬を間近で見られたことが一番だった。

 副部長から表情は見えないけれど、背中を押してくるヒメ子を感じ、彼女に聞こえないくらい小さく、囁いて口元に笑みを浮かべる。

「ヒメ子ちゃんには、やっぱりこっちだったか」

 また内馬場に行って馬蹄音を浴びる前に、副部長の家族と合流した。

 放って置かれることに慣れていても、母親がどう過ごしているか、気になった副部長と様子を見に行ったところ偶然皆集まった。


「もう少しだけ頼む!」

 副部長の父親が母親に頼み込んでいた。

「今日の分は渡しましたよ?」

「人気の馬にかけていれば問題ない。複勝、馬連、ワイド辺りで楽しめば一日楽しめるし、堅い。そう思わないか?」

「そうね」

 付き合う内に何となく馬券の用語を覚えたらしい副部長の母親は、一応の同意を見せた。

「俺も競馬場に来る前までそう思ってたが、お気に入りが出て来て、つい目にしたら多く賭けたくなってしまって、そしたら負けてしまって……」

「言い訳は聞き飽きてますよ」

「言い訳じゃ……位置取りが上手くいかなかったのと捲り上げ切れなかったんだ! 前京都にもかかわらず、惜しい追い上げを見せてたから、ここなら高低差もたいしたことないからーー」

「そういうことを言ってるんじゃないの分かる?」

 相手の説明を遮り、問うて確認をする。

「敗因を知りたいんじゃないの」

「それは……もちろん。でも頼む。少しで良いんだ」

 恐ろしいオーラを出していても、競馬にかけては引かない副部長の父親。

「ダメです。頼んでも追加で渡さないのは分かってるでしょ」

「それでも頼まずに帰ったら、もしママに頼んでいたら、もしかしたら……と後で後悔したくないんだ」

「そんなの今日までの経験から分かるでしょ? 馬券のためのお金はもうありません。賭けずに予測だけして競馬場を楽しんで下さい」

 熱い想いを語られても、母親は首を縦に振らない。

「賭けないと面白くないだろ? やらない後悔より、やる後悔だ」

「競馬になるとこれなんだから……これまでの負けの後悔をして欲しいわね」

 頬に手を当て困って見せるも、相手の耳には全く届いていない。

「酒もタバコもしないんだ。趣味と言えるのも競馬だけ、他に散財はしないだろ? 頼む。それを踏まえて考慮してくれないか」

 父親の競馬のこととなると口数が多くなる姿は、ある意味好きなのが伝わってくる。

 ギャンブルが必ずしも良いとは言えないけれど、生きていくための潤滑剤程度なら、燃え上がって無くなってしまうガソリンにならなければ、ギャンブルも必要なのだろう。

「馬券買う人は皆自分の予想? 勝ち筋みたいのがあって、それでもレースは馬たちが走るまで分からないからさ。負けちゃうんだよ。私たちが自信持って断言出来るのは、レースを振り返った時だけ」

 そう副部長にヒメ子は耳打ちされた。

「そう言われてもダメです。ちゃんと今日楽しめる分は渡しました。そんなに言うなら、もう帰りましょ。恥ずかしいわ」

 子供相手みたいな語りかけ方に、まだ副部長の父親は繰り返し食い下がった。

「競馬の楽しみくらい許して欲しい。酒もタバコも、女もしないんだから」

「そうね、風俗なんか行ってたら許さない。殺すわ」

 さらりと告げられた死刑宣告に、またも副部長がヒメ子の耳元で囁く。

「パパはママを愛してるけど、ママはその倍パパのことが好きなんだよね」

 両親の様子を心配するどころか、嬉しげに目を細めて副部長は語る。

 その仲の良さが恥ずかしいより、誇らしいと思っている辺りすごいと感じた。

 ヒメ子だったら知り合いの前でこんなやり取り両親にされたら、色んな意味で恥ずかしくて仕方ない。

 父親とは話さないので尚更だし、嫌いになってしまう可能性しかなかった。

「前にパパ失敗してるんだよね。まあ、ギャンブルで失敗して負けない人はいないんだろうけど」

 副部長は呆れ声で呟いた。

「次のレースは重要なんだ。それに夕食が豪華になるかもしれない」

「それは〝勝てたら〟ですよね? 前にも似たようなこと言って、許してお金を渡したらどうなりました?」

「あ……うん、どうだったかな」

 問い返されて父親は口ごもってとぼける。

 そんな相手に母親は笑顔で圧をかけた。

「素うどんでしたよね?」

「でも、美味しかったろ」

「でも? 美味しかった? 反省してないんですか?」

「反省したからこそ、本番に挑むために復習したんじゃないか。今度こそ当てるために」

「なら、負けたその日。素うどんじゃなくて、何を食べに行こうって言ってたか当てて欲しいな」

「それはっ……えー、その……」

「反省して復習したんでしょ?」

 明らかに相手が覚えていない反応を見せていても、追求を止めない母親。

「どうなのかしら?」

 徐々に娘ですら怖くなる圧に屈せず、父親は諦め悪く頼み込む。

「回答は後だ! 時間が無い! 早く馬券を買いにいかせて欲しい。頼む!」 

「パパ大学生の頃から競馬はしていたみたい。ママも付き合う時には知っていたけど、何だかんだパパは負けて無駄遣いはしても、借金とかはしたこと無いから許してたんだって。でも、お姉ちゃんと私が産まれてから、禁止はしないけど馬券を買うお金は管理し始めたんだ」

 交渉の続く両親を見ながら、嬉しげに副部長は話してくれた。

 お姉ちゃんがお腹に出来るまで、大学生の頃や社会人の時は、競馬仲間と競馬場を訪れていたらしいと。全員負ければコンビニで買ったお酒片手に反省会をし、勝つ仲間が居れば負けたメンバーに奢り合っていたという。

 そして勝って気分が良くなり、酔って次の日のデートをすっぽかして仲間と飲んでいたり、デート中トイレに行くフリして競馬の確認で待たせたり、挙げれば切りが無いほど怒っても、結婚した両親が好きだと副部長は教えてくれた。

「お姉さんは大丈夫?」

 ヒメ子たちの隣に並び、夫婦の様子を眺めていた副部長の姉に問いかけた。

 確か父親と一緒に競馬を楽しんでいたはずだ。

「心配してくれるの? 優しーい!」

 ヒメ子に突然抱き付き、姉は両親を見やり、言葉を続けて質問に答える。

「私は大丈夫。反面教師がいるからさ」

 キメ顔で姉はかけていたサングラスを頭に押し上げ、にいっと白い歯を覗かす。

「人の振り見て、我が振り直せ?」

「ちょ~っと違う気もするけど、そうだよ~。それにいざとなったら、馬選びに悩んでる人を見つけて、一緒に考えてあげるからって声をかけて、勝った時は牛串かクレープでも奢ってって交渉するかな」

「声かけるの知らない人です?」

「そうだよ」

「大丈夫? 色々と」

 心配するヒメ子に抱き付いたまま、姉は再び疑問に答える。

「そこは大丈夫な人にしか声はかけないよ。それに新聞に顔近づけて悩んでる人とか、同じように負け込んでるなって自分と同じ状況の人に話しかけたり、かけられたりするのは競馬場じゃ当たり前だからね。話が合うと友達みたく仲良くなって面白いんだよ」

 訊いてなくても自分たちが産まれる前の競走馬の話や人生語りが始まり、他人の人生など聞くのが好きな人は楽しめるとのことだった。

 その後、再び副部長と内馬場に戻ったヒメ子は、残りのレースを本馬場入場、返し馬、輪乗り、ファンファーレ、ゲート入り、発走と見て、競馬を十分に楽しんだ。


 帰りはシワが寄って縦に丸まった競馬新聞や、はずれ馬券が無雑作に座席に残されている光景を目にしたという。

 ちなみに副部長の姉は、ギリギリプラスで終わったとのことだった。

 父親は言うまでもない結果に終わったそう。

 帰りは少し遅めになってしまったけれど、自宅まで送ってもらったとのことで、一番人付き合いが心配だった子が大丈夫そうで、改めて後藤芽枝は安心した。

自分でもどうかと思う力不足な文章と、フィクション満載の競馬場の設定や描写でした。

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