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彼氏がなにも言わずに出ていった ~よし、お一人さまを楽しもう~

最後までおつきあいよろしくお願いします。

 ドアノブを回したが鍵がかかっていた。


「あれ? 出かけたのかな?」


 バッグの中から鍵を探すとキーホルダーがぶつかって音を立てる。鍵を開けてドアを引くと、キッチンにしか電気がついていないことで、誰もいないことがひと目でわかった。

 キッチンの電気を点けて出かけるのは、防犯のため。一人暮らしが長かった私の習慣は、恋人と一緒に暮らすようになっても続けている。


「マコト?」


 もしかしたら寝ているのかも、と思ってリビングに向かって声をかけたが返事はなかった。やっぱり出かけているようだ。


「あれ……? なんだろう」


 部屋の様子に違和感を覚える。べつに特に変わっている様子はないけど、でもなんだろう。辺りを見まわして、それからなんとなく食器棚を見ていると、あることに気がついて、ヒヤッとしたものが背中を走った。


「ない……」


 私とおそろいのデザインで、色違いのマコトのマグカップ。

 いやな予感がしてソファーに行くと、マコトのお気に入りのクッションがなくなっていた。


「どういうこと……?」


 慌ててマコトの部屋に駆けこむ。


「……うそ……」


 マコトの私物がすべてなくなっていた。服も、好きで集めていた眼鏡も、彼が持ちこんだタンスも、ベッドもなにもかも――。


「なんで……?」


 慌ててスマートフォンを取りだして、マコトに電話をした。

 長いコールのあとようやく「はい」と静かなマコトの声が聞こえた。


「マコト、どういうこと? なんで荷物がないの? 今どこにいるの?」

「……」

「マコト! 返事をして」

「……アンリ、ごめん。別れよう」

「……は?」

「俺……もう、君とやっていく自信がない」


 あまりに唐突で身勝手な言葉に頭が真っ白になる。

 君とやっていく自信がない、とは――?


「なにを言っているの……? なんでこんなこと……! せめて、なにが不満なのか言ってくれればいいのに、こんなふうに出ていくなんて!」

「ごめん……」

「説明してよ。こんなのあんまりだよ……!」

「……アンリの気持ちが、まだあの人にあることが耐えられなかった」

「……え?」

「俺を好きになってくれるまで待つって言っていたのに、ごめん。本当にごめん……」

「……」


 あの人。私がずっと好きだった仕事場の同僚タケヒロのことだ。


 高校が一緒だったけど学生時代はほとんど話したことはなかった。でも、今の会社に入社して、同じ営業部の営業担当として再会したとき、懐かしさもあってすぐに仲良くなった。それと同時に、営業成績を競いあう良きライバルでもあった。


 会社に入社した当時、タケヒロには恋人がいたが、仕事が忙しくすれ違うようになり、入社して二年後に別れた。

 私はそのときまでは、タケヒロを異性として意識していなかったけど、二人で酒を飲みに行ったり、休日に一人者同士だからと友人として出かけたりしているあいだに、私は彼を異性として意識するようになってしまった。


 周囲の人たちも、いつも一緒にいる私たちをお似合いのカップルだとからかうようになり、もしかしたら彼とつきあうことになるかもと思っていた。そんな矢先、彼は後輩のキョウカと交際を始めた。


 信じられなかった。わけがわからなくて、なにかの冗談だと思った。でも、冗談じゃなかった。


 その後、私の営業成績が下降した。そのせいでタケヒロのことが好きだったのに失恋してしまい、仕事に身が入っていない、と噂されるようになってしまった。


 タケヒロとは気まずくなるし、キョウカからは申し訳なさそうな顔をされるし。そんなこんなですっかり落ちこんでいたとき、よく通っていたバーでバーテンダーをしていたマコトと体の関係を持った。


 きっかけは、飲みすぎた私を介抱するというベタな展開だったけど、マコトは「軽い気持ちで関係を持ったわけじゃない。彼のことを忘れられるまで待つから、俺にチャンスをくれないか?」と真剣な眼差しを私に向けた。


 冗談っぽく「俺のことを好きになってくれたら、結婚しよう」なんて言ったけど、それが本気だとすぐにわかった。


 私はマコトの優しさに甘えて、つらい現実から逃げるようにマコトの胸に飛びこんだのだ。


「アンリが弱っているとこにつけ込んで家にまで転がりこんだけど、やっぱりあんな卑怯な方法で手に入れようとしてもだめだったね」

「そ、そんなことない!」


 マコトのことを好きになれるかはわからなかったけど、抱きしめられてもいやだとは思わなかったし、体の関係を持てるくらいの好意が私にもあったから、つきあうことにしたのだ。卑怯とかそんなこと――。


「無理しなくていいよ」

「違う、無理なんて――」

「いつも俺たちがどこかに出かけると、よくあの人たちもいただろ?」

「え? ……ええ」

「あの人に会いたかったんだろ?」

「誤解よ!」


 確かに、音楽フェスやお祭り、花火大会、スキーでもタケヒロたちと鉢合わせたことはある。でも、それらはすべて私が先にマコトと行こうと計画していたことだ。


 それを職場や飲みの席でちょっと話したところ、実は自分たちも行く予定だった、とか、おもしろそうだから自分たちも行く、とキョウカが言いだし、結果として鉢合わせてしまっていただけ。決して、タケヒロに会いたくてイベントや旅行に行っていたわけではない。


「そんなうそをつかなくていいよ。だいたい、出かけた先で高確率で遭遇するなんて狙ってないとありえないよ」

「そんなこと、私にだってわからない」


 ときには遭遇しないこともあったが、それでも不自然なくらい鉢合わせていたタケヒロとキョウカのカップル。それをマコトは、私が偶然を装って彼に会おうとしていたと勘違いをしているのだ。


「どうして、信じてくれないの?」


 だんだん悲しくなってくる。まさかマコトがそんなふうに思っていたなんて。


「信じられるわけがない。だって、君はあの人のことが好きなんだから」

「だから――」

「違うって言いきれるか?」

「……っ!」


 マコトの強い語気に驚いて言葉が詰まる。違うって言いきれるのに、全部言い訳に聞こえそうで、言えなくなった。


「あの人と遭遇するのが本当にいやだったよ」

「マコト……」

「仕事の話をするとき、必ずあの人の名前が出るのがいやだった。あの人と飲みに行くのも、あの人と行ったことがある店に行くのも、全部いやだった」

「そんなこといまさら言わないでよ……。タケヒロがキョウカとつきあうようになってからは、いつも彼女を交えて飲んでいたし、お店のことだって、いやなんて一度も言ったことなかったよね? それを今になって、いやだったって……」


 そういったこともすべて含めて、つきあったのではなかったのか?


「とにかく、もう無理なんだ。ずっと一緒にいたかったけど、アンリと一緒にいても幸せになれる気がしない」

「マコト……」

「すまない。もう、連絡はしないでくれ」


 そう言って、マコトは電話を切り、私は呆然としたまま床に座りこんだ。

 まったく理解が追いついていない。


「どうして……」


 ショックのあまり涙も出てこない。いつの間にか外は真っ暗になっていて、キッチンしか明かりがともっていない部屋がどんよりと暗い。

 マコトと同棲をする前までずっと一人で住んでいた2LDKの部屋が、今はやたらと広く感じる。


「なによ……いきなりこんなの……。婚期逃しちゃうじゃん……」


 マコトと結婚をするのだと思っていたのに。結婚したかったのに。


「覚悟もないくせに、待つなんて言わないでよ……!」


 その後、マコトが働いているバーに行ったが、彼は二か月も前に辞めていると言われた。


「えー……知らなかったの?」

「仕事が忙しくて、ここにも通えていなかったから……」


 新しく入った二十一歳になったばかりの学生のバーテンダーは、同棲していた恋人が転職したことも知らない私に軽蔑の視線を送り、クスッと笑う。


「そんなんじゃ、逃げられても仕方がないね」


 その言葉が、すべてを物語っているような気がした。



◆◆◆



 駅近くのなじみの居酒屋。メンバーは、同僚のタケヒロと、タケヒロの彼女で職場の後輩のキョウカと、私の三人。正直に言えば、今日はタケヒロと二人で飲みたかったけど、彼女の手前そういうわけにはいかなかった。


「えー、先輩、彼氏さんと別れちゃったんですかぁ?」


 キョウカの声がずいぶんと大きい。まるで周りの人に聞かせようとして見るみたいだ。


「うん。まぁ、生活リズムが合わなくてすれ違いの生活だったから、仕方がないかな」

「えー、ざんねーん。二人はお似合いだったし、絶対結婚すると思っていたのにぃ」


 キョウカはそう言うけど、どう見てもそんなふうに思っている顔じゃない。


 実は最近、キョウカが私に対して好意的ではないことに気がついたばかりだ。


「俺も、アンリとマコト君はうまくいくと思っていたから残念だよ」


 タケヒロは心からそう思っているのだろうとわかる顔で「元気出せよ」と励ましてくれた。でも、キョウカはそれが気に入らないようだ。


「先輩が仕事ばかりしているからいけなかったんじゃないですか?」

「え?」

「それに、タケヒロや私と飲みに行くのもアウトだったかも」

「……」

「おい、キョウカ。なんでそんなことを言うんだよ」

「だってぇ、先輩ってタケヒロのことを好きっていう噂があったじゃん」

「……っ!」

「やめろよ。そんなくだらない噂、いまさら掘りかえしてくんなよ」


 タケヒロはそう言ってちょっとキョウカを睨む。


「やだぁ、怒んないでよ。私はただ、そういうことも原因だったのかもって思っただけだしぃ」


 あながち間違っていないから腹が立つ。でも、キョウカのこんな挑発に乗ってあげられるほど、私は若くない。


「キョウカの言うとおりかもしれない」

「え?」


 その言葉に驚いたのはタケヒロ。たぶん、私が彼のことを好きって部分に同意したと思ったのだろう。


「仕事中心の生活だったから、彼がいやになったんだと思う」


 私の言葉にタケヒロがハッとしたようにうなずく。


「あ……そうか……そうかもしれないな」

「うん。だから、私が悪いの」


 私が悪い。マコトにちゃんと気持ちを伝えなかったから。

 今さらでもちゃんと伝えたいと思って電話をしたときにはすで着信拒否されていて、メールアドレスも変えられてしまっていた。SNSはすべてブロックされていて、連絡をする術はなにも残っていなかった。


 ここまであからさまに拒否されればさすがに諦めがつくわ。


「アンリ」

「ん?」

「愚痴だったらいくらでも聞いてやるから俺に言え」


 タケヒロはそう言いながら私のグラスにビールを注ぐ。


「ありがとう」


 ビールの泡がグラスの淵で盛り上がって静かに沈んでいく。私はグラスを持ちあげるとタケヒロのグラスに軽くぶつけた。


 一気飲みの合図だ。


 だから二人で一気に飲んでグラスを空にした。小さなグラスの一気飲みは三回続けるのが二人の暗黙のルール。私とタケヒロは互いのグラスにビールを注ぐと続けて二回一気飲みし、ぷはーっと声をそろえた。それがおかしくて思わず二人で笑う。


「……なによ……それ」


 キョウカの舌打ちは、タケヒロの耳には届いていなかったようだ。


 翌日、私がマコトと別れたことが会社中に広まっていた。おかげで、いろいろな人から励まされたり、ひそひそと噂されたり。


 言いふらしたのはキョウカよね、きっと。


 私がマコトと別れたことを知っているのは二人しかいないのだから、疑いようがない。タケヒロは絶対そんなことを人に言わないし。

 でも、自分から言わなくてすんだし、もうどうでもいいわ。


 開きなおってしまえば、噂話なんてそれほど気にならないものだ。なにか悪いことをしたわけではないし、不倫をしたわけでも浮気をしたわけでもない。三十で男にフラれるのはさすがに痛いが、それで人生が終わるわけもでもない。


「先輩、すみませぇん。私がほかの人に、先輩のことが心配って言っちゃったら、みんなが理由を知りたがって。言っちゃいけないってわかっていたんですけど、隠しておけなくてぇ」


 午後、営業先を回って帰ってきた私の隣まで来て、わざわざそんなことを大きな声で言いながら謝罪するキョウカ。おかげでほかの社員の耳がダンボになっている。


「気にしないで。彼と別れたのは本当のことだし、私は全然落ちこんでいないから」


 うそだけど。正直、メチャクチャ落ちこんでる。だって、私がいないあいだに荷物運びだすって、普通じゃない。


「フーン……そうですか。あ、よかったら今日、女子だけで飲みに行きませんか。みんな、先輩のことを心配してて」

「え、でも」


 今日はひと区切りつけたい仕事があるんだけど――と言うより先にキョウカが強引に話を進める。


「ね、いいじゃないですか。はい、決まり。じゃ、六時半にイータリーで。あ、イータリーってわかります? 若い子に人気のイタリアンレストランなんですけど」

「あ、うん、なんとなく」

「もー、先輩はいつも大衆居酒屋ばかりだから、そういうおしゃれなお店、本当に知らないですよね。あとで地図送っておきますね」


 キョウカはそう言うと、手を振って自分の席へと戻っていった。


 思わず大きな溜息が出てしまう。

 すると隣の席に座っている、後輩のユキオが「なんだか大変ですね」と声をかけてきた。


「なんかあったら言ってください。手伝いますよ」

「ありがとう」


 珍しく気の利くことを言うユキオ。きっと彼氏と別れた三十女に同情をしているのだろう。

 私は、小さく溜息を吐いて、それから仕事にとりかかった。


 イータリーに着いたとき、すでに、キョウカを含めた女の子はワインを飲みながら盛りあがっていた。


「あー、先輩、遅いー。仕事、もっと早く終わらせることできなかったんですかぁ? そんなんだから、彼氏にフラれちゃうんですよぉ」


 キョウカは無遠慮に言いたい放題。ほかの女の子たちもクスクスと笑っている。

 私はキョウカの言葉を無視して席に座り、ヴィエ・ディ・ロマンスのグラスと、チーズとプロシュートの盛り合わせを注文した。


「ヴィエ・ディ・ロマンスとか、なに高いワイン頼んでんの」


 キョウカが小さく毒づいたがそれも無視する。


「アンリさん、彼氏さんと別れちゃったんですよね?」


 私の斜め前に座っている、総務課のヤヨイが憐れんだ顔で聞く。


「ええ」


 私が返事をすると、女の子たちが身を乗りだしてきた。


「えー、なんて言われたんですか? 私フラれたことがないから、なんて言われたのか気になります」

「そんなの決まってるじゃん。別れよう、だよ」

「無理無理、それで簡単に別れられるわけないないよ」

「わかるぅ。なんでか知らないけど、男の人ってあきらめないよね。必死に悪いところ直すとか言って縋りついてきてさ」

「そうそう。飽きたから別れるって言ってるのに、意味わかんなくてウケる」

「私だったら、ほかに好きな人ができたとか言っちゃうなぁ」


 次第にモテ自慢が始まって、いつの間にか女の子たちがマウントの取り合いを始めた。


 私は、運ばれてきたワインと、チーズとプロシュートの盛り合わせを楽しみながら、マウント合戦の結末を見まもる――ていうか、私、来る必要あった? と聞きたいところだ。


「でも、私、なんで先輩がフラれちゃったのかわかる気がする」


 いつの間にかマウント合戦は終わり、再び私がフラれたネタが始まった。


「タケヒロが言ってたんですけどぉ、アンリ先輩ってタケヒロに恋愛遍歴とか性癖とかガンガン言っちゃってますよね?」

「えー、うそ、信じらんない」


 キョウカの暴露に女の子たちが口をそろえた。


 まぁ、私も冷静になれば信じられないことを言ったものだと反省もしたが、酔って調子づいてしまったときのことだから仕方がない。しかも六、七年くらい前の話だし。


「えー、やばーい。男の気を引くために必死になってるおばさんみたーい」


 アヤネのよく通る声が、おしゃれなイタリアンレストランに響く。


「そう、信じられないでしょ? なんかぁ、タケヒロも先輩に全部言っちゃってんだって」

「まじ? ないわぁ」

「ありえないよね」


 キョウカの言葉にメグミとアヤネが大袈裟に首を振る。


「まぁ、確かに私も最初ないわぁって思ったんだけど、タケヒロが言うには、アンリ先輩を異性として意識していないから言えるんだって」

「……っ」

「ああ、そうかも。それなら言える」


 女の子たちはクスクスと笑いながら、私をちらちら見ている。


「そういうこと言っちゃう女の人って、だいたい男の人と友情築けるとか思ってるよね。あ。先輩のことじゃないですよ」


 ユウナがそう言うと、「本人の前でそんなこと言うわけないよね」とヤヨイがケラケラと笑った。


「ちょっとぉ、タケヒロとアンリ先輩は、ちゃんと男女の友情を成立させてるんだから、変なこと言わないでよ」


 キョウカはちょっと頬を膨らませ、わざとらしいくらい大きな声で「ねぇ、先輩」と首を傾げる。


 ばかばかしい。いったいなんのために呼ばれたのかと思っていたら、私をばかにしてマウントを取りたかっただけか。


 時間の無駄だった。こんなことのために、仕事を中断してきたのだと思うと、腹が立った。

 私はワインを一気に飲みほすと、財布から一万円を出してテーブルに置いて立ちあがった。


「帰るわね。みんなはゆっくりしていって」

「え? 先輩? どうしたんですか? なにか怒ってる?」


 キョウカが慌てて立ちあがって私の腕をつかんだが、私は軽く振りはらってキョウカをじっと見つめた。キョウカは少したじろいで視線を逸らす。


「私はね、暇じゃないの。金輪際、私をこんなくだらない席に誘わないで」

「くだらないって……!」

「キョウカ、私は今後あなたとは飲みに行かないわ。タケヒロとは行くけど。じゃあね」

「はぁ?」


 私はそう言って、さっさと店をあとにした。キョウカの「ちょっと待ちなさいよ」という声が聞こえたけど、どうでもよくなって無視をした。

 翌日、私がキョウカや昨日イータリーにいた女の子たちに暴言を吐いたという話が会社中に広まっていた。予想どおりだった。彼女たちはそういう人種だ。だから、気にしない。でも――。


「アンリ、ちょっといいか」


 タケヒロが険しい表情で私を呼びだした。


 あぁあ、タケヒロとの関係もここまでか。


 できればキョウカの言うことを信じてほしくはないけど、恋人と女友達なら恋人を取るだろう。一応ちゃんと昨日の出来事を説明するつもりではいるけど、耳を貸してくれなかったら仕方がないか。


 私はそんなことを考えながらタケヒロの後ろを付いていって、非常口を出た踊り場までやってきた。

 タケヒロは険しい顔をしたままふり返り、それから――。


「ごめん! キョウカが迷惑をかけて申し訳ない!」


 タケヒロは額が自身の足に突きそうなほど体を曲げて私に謝罪をした。

 予想外の展開に驚いた私は、思わず「え? え?」と目を丸くしてしまった。


「昨日、キョウカが泣きながら俺に電話をかけてきてさ」


 私を励まそうとレストランに誘ったが、急に怒りだして店を出ていってしまったと言ったらしい。しかも出ていく前に、私がタケヒロのこともらうから、と宣言したとか。


「アンリがそんなこと言うやつじゃないって知っているのに、バカなことを言うから、俺、怒ったんだよ。そうしたら、別れるって話になってさ」

「は? なにそれ」

「いや、それはもういいんだ。俺もあいつとつきあうのちょっときつかったから、別れたいと思っていたし」

「え? そうなの?」

「ああ」


 タケヒロは気まずそうな顔をして頭をかいた。


「あいつわがままだし、いつも高いレストランに行きたがるし、すぐつまんないとか言うし。まぁ、疲れんだよ」


 だからちょうどよかったんだ、とタケヒロが笑う。


「そんなことより、あいつなんかいろいろ言ったんじゃない?」

「まぁね。でも気にしていないから」

「そうか。本当にすまない」


 タケヒロはチラッと私を見て、それから建ちならぶビルのほうへと視線を向けた。


「あいつさ、俺が昔アンリのこと……好きだったから、気にしてたんだよ」

「は? なんて?」

「いや、だ、だから、俺がアンリのことを好きだったから、いつもお前のことを警戒してたの!」


 タケヒロがとんでもないことを口にした。私を好きだった? タケヒロが? いつ?


「でもさ、アンリには好きな人がいるってキョウカから聞いてさ」

「私に……? いやいや――」


 私が好きだったのはあんただけど? と言いかけてやめた。


「俺らがつきあい始めて少ししてからマコトさんと同棲を始めただろ? それで、ああ、あの人だったのかってわかったんだ」

「……そうか」


 そうじゃないけど、そんな説明はいらないね。


「イベントに行くたびにマコトさんと一緒にいるアンリに会っちゃうから、ちょっとつらかったな」

「え? そうだったの?」

「そうだったの」


 タケヒロは少し顔を赤くしていた。


「なんだか完全にキョウカに振りまわされちゃったわね」

「え? なんだって?」

「ううん、なんでもない」


 もしここで私が、タケヒロのことが好きだったと言えば、二人の関係は今までとは違うものになるのかもしれない。でも、もうタケヒロに対して昔のような感情は持っていない。少なくとも今は、関係性を変えたいとは思わない。


「それじゃ、これからはフリー同士、友情を深めあっていきましょう」

「……ああ、そうだな。じっくり友情を深めよう」


 タケヒロはそう言って笑った。


 それからしばらくは、私のせいでタケヒロと別れることになったなんて、キョウカが泣きながら騒いでいたため好奇の目で見られたりもしたけど、タケヒロがちゃんと訂正をしてくれたし、キョウカが女性社員にあまり好かれていなかったためほとんど相手にされず、騒ぎはそれほど長引かなかった。


 女の敵は女ってやつよね。



◆◆◆



「ひまー」


 マコトが出ていってから一か月ちょっと。

 ようやく一人の生活にも慣れてきたけど、仕事を持ちかえらなかった日はなにもやることがなくて、ゴロゴロするのにもさすがに飽きてきた。


「うーん、マコトとつきあう前は、けっこう一人でも出かけていたんだけどなぁ。……歳かな」


 そういうことにしておこう。


「そうだ、なにか趣味を見つけよう」


 なににしようか? 料理教室? 楽器を習う? 映画鑑賞? スポーツジム? 


「どうせ暇だし、全部やっちゃうか」


 まず今日できることは、映画鑑賞。ついでにスポーツジムを申しこんで、帰ってきたらお料理教室と習いたい楽器選ぼう。


「急に忙しくなる予感がしてきたわ」


 化粧は薄く、服はカジュアルに。短時間で身支度を整えて、さっさと家を出た。

 きっと、こういうのがだめなんだと思う。念入りに化粧をして、年齢に合ったブランド物のおしゃれな服を着て颯爽と歩く女性だったら、もっといろんな運気も上がって、婚期も逃さなかったはず。


「関係ないか……」


 マコトに好きだと言葉で伝えていなかったことが、一番だめだったということはわかるんだけど、一緒に暮らしていたわけだし、キスもセックスもしていた。言葉がなかっただけで事実婚も同然の関係だったのだ。


 浮気を疑われるようなことはなにひとつしていないし、タケヒロがキョウカとつきあうようになってからは、タケヒロと二人きりで酒を飲みに行くことはしなかった。


 それなのに自信がないとか、本当に意味がわからない。自分に好きな人ができた、とか言ってくれたほうがよっぽどよかった。


「待って……。好きな人ができた……?」


 いや、そんなことありえない。でも……。


「……どうでもいいや、いまさらそんなこと」


 一方的な別れだったとはいえ、もう彼に特別な感情はない。好きか嫌いかで言えば嫌いだけど、もうかかわることもないからどうでもいい。マコトは過去の人で、赤の他人だ。


 だからこんな不毛なことを考えて悩むのはやめよう。


「うん、不毛だ。不毛……。いっそのこと禿げろ、マコト」



◆◆◆



 お一人さま生活の気楽さと楽しさにはまって、結婚願望もすっかり薄れてしまった私のもとに、厚みのある可愛らしい封筒が届いた。


「ナオコ、結婚するんだ」


 大学時代からの友人で、今でもつきあいのあるナオコ。でも、社会人になってから彼氏を紹介されたことはなかったから、私みたいにお一人さま人生を満喫するのだと思っていたんだけど。


「まさか結婚するなんてねぇ」


 いったい相手はどんな人だろう。


「私の知っている人だったらびっくりなんだけど」


 なんてことを言いながら封筒から招待状を取りだし、名前を確認して目を疑う。


「なん、で……?」


『新郎 シラヌイ マコト』


 シラヌイ マコトってあのマコトだよね? え? 本当? っていうか、いつから? 私と別れてから……だよね?


 ナオコとは何度もマコトが働いていたバーに一緒に行っていて、マコトとも顔なじみだった。もちろん、私とマコトがつきあっていたことも、同棲をしていたことも知っている。


 そのマコトと結婚? その前に、元カノに披露宴の招待状なんて普通送ってくる?


 とはいえ、私とナオコは十年以上のつきあいだし、披露宴に招待しなかったら知り合いから変に思われるかもしれない。


「でもそんなの、都合が合わなかったって言えばいいだけで、どうとでもなるでしょ」


 いったい二人はどういうつもりなのだろうか?


「……いったん保留。さすがに簡単に返事はできないわ」


 いくらなんでもあんな別れをしているのに、二人の披露宴で再会とか泥沼すぎる。べつに傷が痛むとかそういうのはまったくないけど、二人の門出をいやな雰囲気にしたくはない。正直に言えば、マコトの顔なんて見たくない。


「やっぱり不参加かなぁ……」


 そんなことを考えていたのだけど――。


 招待状が送られてきてから二週間がたったころ、ナオコから電話がかかってきた。

 すこし気が重いが、ちゃんと話をしたほうがいいだろう。そう思って電話に出ると、とても明るい声で「アンリ、元気ぃ?」と変わらぬナオコの声。


「うん、元気だよ」

「ああ、よかった。ねぇ、届いた?」

「え? あ、披露宴の招待状?」

「そう。返事がまだだったから気になっちゃって」


 でも、返信の期限までまだ時間あるよね? と言いたいところだけど、そうじゃないよね。ナオコが言いたいことって。


「びっくりしたよ、新郎のとこにマコトの名前が書いてあったから」

「フフフ、そうでしょ?」

「いつからなの? 言ってくれればよかったのに」

「うーん、ほら、あんたたちいろいろあったじゃん?」

「あー、うん」

「だから、なんか言いにくくて」


 なるほど、そういう気持ちはあったのか。


「じゃ、それも知ったうえで私を招待してくれたってこと?」


 なにも言わずに出ていったとか、転職したことを内緒にしていたとか、タケヒロとの関係で悩んで別れたとか、そういったことを諸々理解したうえで。


「そう。だって、もう彼に気持ちなんてないでしょ?」


 別れてからこれまでナオコとは一度も連絡を取っていないのに、なぜもう気持ちがないなんて言えるのだろう。


「うん、ぜーんぜん」


 なんとなく不快に思いながら返事をする。


「え……? そうなの? 本当に?」


 自分で聞いておきながら、なぜナオコは驚いているのだろう。


「そりゃそうよ。だっていきなりなにも言わずに出ていくような男よ? しっかり自分の荷物を全部運びだしてさ。夜逃げかよって。そんなろくでもない男、いつまでも引きずるわけがないじゃない」

「そ、そうか。そうよね。アハハハ、安心した。もし、まだマコトのことが好きだったらどうしようって思っていたんだ」

「そっか、それならまったく心配いらないよ。今、私の生活メチャクチャ充実してるんだ。昇進も決まったし、お一人さま、万歳って感じ」


 変な気を使わせたくないから、努めて明るく。でも、べつに無理はしていないし、うそもついていない。だって、今最高に楽しんでいるから。


「そうかぁ。最近お一人さまって流行ってるよね。でも、それって本当に楽しいの? 結婚は諦めちゃったの? なんか私には、お一人さまが逃げにしか思えないけど」

「え? 逃げ?」

「だって、相手にしてくれる人がいないから、お一人さまなんでしょ? 結局一人きりじゃん? 昇進したって一緒に喜んでくれる人なんていないし」


 いやいや、会社の人とかメチャクチャお祝いしてくれたけど?


「一人で遊んだって楽しくないし」


 いやいや、人に気を使う必要がないし、自分のペースでいろいろできるからけっこう楽しいけど?


「結局、結婚できない女の強がりでしょ?」

「……ねぇ、なにが言いたいの?」


 ここまで言わせておいてなんだけど、完全にマウント取りに来てるよね? 


「だ、だから、お一人さまなんて言って強がっていないで、早く結婚相手探しなって。よく聞くじゃん。友達の結婚式で出会――」

「余計なお世話。私は、今の生活を楽しんでいるの。それに結婚が人生の目標じゃないから」

「だって――」

「悪いけど、私、披露宴には参加しないから」


 今決めた。迷う必要なんてなかった。最初からこれが正しい選択だった。


「はぁ? なんでよ」

「披露宴に参加したら、気分が悪くなるでしょ?」

「ならないよ。私たち、全然気にしていないから」

「私が」

「え?」

「私が気分悪くなるから、不参加で。今日中に返信するからよろしくね。じゃね」


 私はそう言って電話を切った。ついでに電話の電源も。


「なんなの、本当に」


 ナオコってあんなキャラだったっけ? もっと気遣いのできる子だと思っていたのに。


「まぁ、もういいや。マコトと結婚した時点で、気まずくて友達続けるのも難しそうだし」


 披露宴に参加しないと決めると一気に気持ちが軽くなったし、この決断は間違っていないはずだ。

 それから二日後。またまた懐かしい友人から電話が来た。


「あ、トモからだ」


 トモも大学時代からの友人で、大学を卒業してすぐに結婚をし、二年後には子どもが生まれ、今では三児の母だ。ずいぶん長く連絡を取っていなかったから少し緊張する。


「もしもし、トモ?」

「あー、アンリ、久しぶりー」


 トモののんびりした口調に思わず頬が緩む。学生のころから全然変わっていない。


「珍しいね、どうしたの?」

「うーん、実はさぁ――」


 信じられないことにナオコがトモに電話をして、アンリが披露宴に参加しないって言っているから、説得してほしいと泣きついたそうだ。


「ナオコ、アンリの元カレと結婚するんだってぇ?」

「そうなの」

「やっぱり気まずいよね?」

「まぁね」


 気まずいというより、ナオコのあの言い方が気に入らないっていうのが不参加の理由だけど。


 お一人さまを楽しんでいる私を、独身女の強がりと決めつけて、まるで結婚しないことがかわいそうだとでも言いたげなあの感じ。いや、言いたげ、じゃなくて完全に言っている。

 おかげで、二人を祝う気持ちもすっかり消えうせてしまった。


「なんかぁ、みんなに祝ってほしいって言っててさぁ」

「でも、新郎もそう思っているのかな?」

「あー、ねぇ?」


 トモのあいまいな返事。きっと面倒なことを頼まれたと思っているだろう。それに、私を説得する気もなさそうだ。


「ねぇ、トモ。私には十回くらい電話したけど出なかったってナオコに言っておいてよ」

「えぇ、いいのぉ?」

「いいの、いいの。私もトモからのお願いを拒否ったって言うより、電話に最初から出なかった、のほうが気が楽だから」

「うん、わかったぁ。ナオコにはそう言っとく」

「ありがとう。悪いね」

「いいよぉ。普通に考えて、元カノを披露宴に呼ぶとかありえないし、頭おかしいって思ってたから」


 トモは私が言いたいことをズバリと言って電話を切った。思わず大きな溜息が出た。


 なんで、ナオコは私を披露宴に参加させたいんだろう?

 だいたい、参加させたいならあんな言い方をしなければよかったのだ。わざわざ、私を挑発するようなあんな言い方を。


 次の日、今度はまたまた大学時代の友人のモトキが電話をかけてきた。

 モトキは、体は男性だけど心は女性の気の置けない友人。美意識が高くてサバサバしていて、女性としてお手本にしたい人だ。


「ちょっと、モトキ、まさかナオコに頼まれていないよね?」


 電話に出るなり私の口からそんな言葉が飛びだした。


「え? なに? やっぱりケンカかなにかしているの?」


 やはりナオコに頼まれて電話をしてきたようだ。


「ケンカって言うより、ナオコが一方的に私にマウント取ってきてるって話」

「やだー、そういうこと? なんかおかしいと思ったのよね。で、やっぱりナオコに男取られたの?」


 やっぱりってなによ。


「だってさ、学生時代からそうじゃん。アンリがつきあっていた男はみんなそのあとナオコとつきあうのよ」

「は……? なにそれ?」

「やだ、知らなかったの? 私らのあいだじゃ、けっこう知られている話だけど」


 その私らに、私は入っていないの? と聞きたい。


「ナオコってけっこうアンリのことを意識していたじゃん?」


 そうなの? 知らなかった。


「だからなのかわからないけど、いつもアンリがつきあっている男に手を出してたのよ。ああ、そういえば、アンリのことを好きだって言っていたカワカミ君ともつきあってたわよ」

「手を出してた? そうなの? カワカミ君なんて私、知らないんだけど」

「そりゃ、アンリに告白する前にナオコとつきあっちゃったから」


 なにそれ、その話。全部初耳すぎてちょっと気持ちが悪いんだけど。


「だからさ、私、この結婚相手も、ナオコに取られたんじゃないかって気になっているんだけど」

「……は?」


 そのあとの会話はほとんど覚えていない。だって、ナオコに取られたかもしれないって思うと、気になって気になって。


 一度、マコトに好きな人ができたのかもって考えたことがあったけど、それはないって、その考えを消したことがあったけど……。


「あったのかもしれない……」


 これはもう、参加するしかないってことかな。真実を突きとめる気はないけど、なんでナオコがここまでしつこく私に参加させたがるのか、興味が湧いてきた。

 だから私は、メールでナオコに参加する旨を伝えた。ナオコからは、大歓迎の返信が送られてきた。


 結婚式当日。


 腹が立つほど気持ちのいい天気。早朝から美容室に向かった私は、美容師さんにきれいに化粧をしてもらい、髪の毛もきれいに整えてもらった。

 デザインが特徴的で人と被らなそうだからという理由で、ドレスはセルフポートレート。マーメイドシルエットで、ピンクゴールドの生地に、スパンコールやビーズをふんだんにあしらったミディドレスだ。


 すべての準備が整い、いざ披露宴会場へ!


 ご祝儀は弾んだわよ。ケチだと思われたくないから。え、一人だから金が余ってるとか言われそう? 言いたければ言えばいい。だって本当に余ってるから。


「アンリぃ」


 離れた所から手を振って近づいてくるトモとモトキ。ちっこいトモと、すらりと長身のモトキ。学生時代、二人はよく一緒に行動していたからデコボコンビでけっこう目立っていた。


「久しぶりね」


 三人が顔を合わせると途端に大学時代に戻ったような気分になって、思わずキャピついてしまう。ここにナオコがいれば完璧だったけど。


「とりあえず、中に入りましょう」


 モトキはそう言って受付に向かう。私たちもあとに続いた。

 受付をすませて会場に入り、自分たちの席を探した。驚くことに、私たちの席は新郎新婦の目の前のテーブルだった。


「ナオコは本当になにを考えているのかしらね?」

「さぁね、わからない。でも、気にしないわ。私は食事とおしゃべりを楽しみに来たんだから」


 二人を祝う気も失せているから、二人の横に行って一緒に写真を撮ったりしないし、マコトに久しぶり、なんて声をかける気もない。


「いいと思うわ。二人とも、それくらいの覚悟はしているでしょうから」


 モトキとトモも賛成してくれた。


 式が始まった。新郎新婦の入場が伝えられ、扉が開くとそこには懐かしい顔があった。


 本当にマコトだった。茶色かった髪は黒くなっていて、筋肉質の体はダークグレイのタキシードのせいか少し細くなったように見える。


 隣に立つナオコはピンク色のグリッタードレス。スカート部分に立体的な花のモチーフをこれでもかというくらい付けて、乙女チック満載だ。


 ちょっとあのドレスはきついな……。


 ナオコに対してこんな見方しかできないなんて、私、けっこう根に持っているのかな?

 認めたくないけど、その可能性も捨てきれない――と思ったら。


「ちょっと、ナオコのドレス少女趣味ね。センスが悪いわ」


 モトキが私の耳に顔を寄せて囁く。私は思わずぷっと吹きだしてしまった。


「だってピンクよ? お花よ? グリッターよ? 女の子の憧れを全部詰めこんだようなドレスよ? 年甲斐もなく、なんて言いたくないけど、やっぱり年齢を意識することは大切だと思うわ」


 その意見には激しく同意。

 かわいいドレスはある程度の年齢までいくと着ることができなくなる。私のように、若い女性社員からおばさんなんて毒を吐かれる歳になってくると、ドレス選びは慎重にならなくてはいけないのだ。


 でも、一生に一度のことだと思えば仕方がないのかも。


「なに言ってんのよ。いまどき、チャンスがある人は二回、三回と着ているわよ」

「いや、チャンスがある人って。結婚式を二回も三回もするって、わりとハードな人生を送っている証拠だよ?」


 そんな話で盛りあがっていたら、マコトとナオコが私たちのテーブルまでやってきてしまった。


 マコトがトーチでテーブルの中央に置かれたキャンドルに火を点けながらこちらを見たとき、ぎょっとした顔をして口がパクパクと動いた。

 明らかに驚いていたし、あれは「なんで?」と言っていたと思う。


 やっぱり、マコトは知らなかった。ナオコはマコトに内緒で私を招待したんだ。その証拠に、さっきまで笑顔だったマコトの表情が一気に暗くなっている。


 なんだか私が悪いことをした気分。


 しかも、不参加表明をした私を無理やり参加させたナオコが、なぜか私を睨みつけている。

 本当に意味がわからない。いったいなんの茶番だよ。


 結局、披露宴が行われているあいだずっとマコトは私と目を合わせなかった。引きつった笑顔で、余興も全然楽しめていないようだったし、幸せいっぱいの新郎ではなかった。


「ねぇ、なんでアンリは招待されたんだろうねぇ」


 トモののんびりした口調がちょっと私をイラつかせる。いや、たぶん、なんでアンリは招待されたんだろう、という言葉に腹が立ったのだと思う。

 本当になんで招待されたのか私が聞きたいわ。


「ナオコに会いに行こう。このままじゃ悶々とするだけだよ」


 言いだしたのはモトキ。トモも「そうだよ、会いに行こうよ」と同調する。私はマコトのあの顔を思いだしてちょっと躊躇したけど、やっぱり理由が知りたくて、ナオコに会いに行くことにした。


 披露宴が終わって会場を出た招待客たちは、それぞれ機嫌よく騒いだり、久しぶりの友人との再会を懐かしんだりしている。


 そんな招待客のあいだを抜けて、ナオコたちの控室を探した。すると、私たちが向かう先から大きな声が聞こえる。どうやら、ドアが完全に閉まっていない部屋があるようだ。


 ナオコたちの部屋かな? と思ったら案の定。


「どういうつもりだ! なんで勝手に呼んだんだよ!」


 マコトがナオコに怒っているとわかる話の内容に、私たちは顔を見あわせた。


「私の友達なんだから、呼んだっていいじゃない!」

「そういう問題じゃないだろ?」


 本当に、そう。そういう問題じゃない。


「だいたい、来るアンリもアンリだ。普通断るだろ、元カレの結婚式なんて! クソッ!」


 さすがにカチンとくる。トモとモトキも「はぁ?」と顔をゆがませた。

 我慢ならなかった私はノックすると、返事も待たずに勢いよくドアを開けて部屋の中へと入っていった。

 私の突然の登場に驚いて目を見ひらくマコトとナオコ。


「言わせてもらうけど、私は何度も断ったわよ? 電話でも断ったし、招待状は不参加にしっかり丸を付けて送りかえしたわよ?」

「ア、アンリ?」

「ちょ、ちょっとなんできたのよ?」


 マコトは青い顔をして、ナオコは赤い顔をしている。


「ずいぶん勝手なことを言ってくれてるわね。でもね、ナオコがトモやモトキに、参加するよう私を説得してくれってお願いしたの。そうよね? ナオコ」


 私がそう言うと、ナオコは視線を逸らし、そんなナオコをマコトが睨みつける。


「どういうことだよ。ナオコ」

「……」


 仕方がないことではあるけど、マコトの物言いがずいぶんきつい。

 マコトがあんなふうに怒る姿を初めて見た。私は彼に怒られたことがないし、彼が誰かを怒る姿を見たこともなかったから。


 でも、怒るとあんなに冷たい声になるのね。


「マコトが……マコトが悪いんじゃない。いつまでもアンリのこと引きずっているから」

「それは……!」

「だから、しっかり区切りをつけてもらいたくてアンリを呼んだのよ」

「なんだよ、それ……!」


 本当に、なんだよ、それ。私を都合よく当て馬にしようとしないでよ! そう言おうとしたとき。


「最低ね」

「本当、最悪。なにこの人たち」


 トモとモトキが軽蔑の眼差しで二人を睨みつけていた。


「勝手に出ていったくせにアンリのこと引きずっているとか、意味わからないし、アンリを諦めさせるためにアンリを呼びつけるとか、ますます意味わかんない」


 モトキが言うとトモもウンウンとうなずく。


「なんか、がっかりよねぇ。自分の友達がこんなおバカさんだったなんて」

「違うの、そんなつもりはなかったの!」


 二人の言葉に焦ったのか、ナオコは涙を浮かべて首を振った。


「ほら、アンリもなんか言ってやんな。一番の被害者はあなたなんだから」


 モトキはそう言うけど、でも……なんだかそういう気分じゃないんだよね。この茶番につきあう気になれないというか、これ以上マコトのことで感情的になりたくないというか。


「もう、どうでもいいよ。いろいろ言いたいことがあったけど、よく考えたら、今日は二人をお祝いする日だし。騒ぎを起こして台無しにするのもなんだしね」

「なに言ってんのよ。そんなのとっくに本人が台無しにしているじゃない」

「まぁ、そうなんだけど」


 モトキの言葉にナオコが両手で顔を覆ってわぁっと泣きだした。


 いや、本当になんで? こうなることを想像できなかった?


「マコトが……アンリと別れたこと、後悔していたから……私と、結婚することを自覚、してもらいたかったのよ」


 泣きながら必死に言い訳をしているナオコ。


「そんなことに私を巻きこまないでよ」


 独り言のつもりだったけど、思ったより声が大きかったみたい。ナオコはますます声を大きくして泣きだした。


「ナオコ、いい加減にしてくれ。お前のせいで、なにもかもメチャクチャだ」


 マコトがそう言って首を振る。


 その意見には同意だけど、正直に言ってその態度に腹が立つし、私から言わせれば、あなたにそんなことを言う資格があるの? って感じだけど。まずは私に謝罪すべきじゃない? 言い訳なんて聞きたくないけど、ちょっとくらい誠意を見せろや! と怒鳴りつけたい。


 でも、なんだかくだらなくて、どうでもよくなってきた。だから、もうここで終わりにしよう。


「二人とも、金輪際私にかかわらないで。ナオコとは友達の縁を切る。マコトは赤の他人。それでよろしく」


 それだけ言って部屋を出る。


「え? アンリ、それだけでいいのぉ?」


 私を追いかけながらトモが聞く。


「いいの。いろいろ聞きたいことがあったけど、もう、うんざりしてきたから」

「そっか。それならいいね。ナオコ、私もあなたとはもうお友達じゃないから」

「私もよ」


 トモとモトキもそう言って私のあとに続いた。


 ナオコはなにも言わなかったし、どんな顔をしていたかもわからない。もう、二度と会うことはないからどうでもいいけど。



◆◆◆



 あの披露宴から一か月。


 ようやく二人に対する怒りも収まってきて、いつもの生活が送れるようになってきた。


 それまでは、一心不乱に仕事をしてジムで走りこんで、料理教室で覚えた料理を作りまくって、映画も見まくって――。ちょっと気を抜くとあのときのシーンが頭に浮かんでクッションを床に投げつけたくなるから、その衝動を抑えるのが大変だった。


 いつか私のとっておきのネタとして、飲みの席で披露してやる! と心に誓ったとき、インターホンが鳴った。


「あ、来たかな?」


 今日はお取り寄せのケーキが届くことになっているのだ。

 サツマイモが練りこまれたスポンジにサツマイモの餡を挟んで、ふわふわの生クリームをたっぷりまとわせた、至極の逸品、というのが売りで、届くまで三か月待ちの大人気のケーキ。


 それを食べるために、朝からジョギングをしてカロリーを消費し、朝食はサラダだけ。大好きなコーヒーはケーキが届くまで我慢して、ウキウキそわそわしながら待っていたわけだけど――残念ながらインターホンを鳴らしたのは、ケーキを配達に来た配達員ではなかった。モニターに映っていたのは――。


「ナオコ……」


 なぜ来た。


 居留守を使ってしばらく様子を見ていると、再びインターホンが鳴る。


「……はい?」


 しかたなくこれでもかっていうくらい低いテンションで出てやった。


「あの、私……」

「なにしにきたの?」

「話を、聞いてもらいたくて」

「お断りします。帰ってください」


 そう言ってインターホンを切った。しかし、ナオコは諦めずに再びインターホンを鳴らす。

 私は大きな溜息を吐いて、じっとモニターを見つめる。マンションの住民が次々と建物の中に入っていく中、モニターの前に立つナオコはうつむいたまま、私が入館の許可を出すのを待っていた。


 またもや大きな溜息が出てしまった。


 このまま無視をしていればそのうち諦めて帰るかもしれないけど、ずっとそこに立っていられるのは困る。マンションの住民と一緒に入ってきて、部屋の前とかに立たれたらもっと困る。


「入って」


 しかたなく扉を開錠し、ナオコをマンションの中に入れた。

 しばらくすると部屋のインターホンが鳴って、モニターを見るとナオコが立っていた。ドアを開け、ナオコに「どうぞ」と入室を促し、私はさっさとダイニングに戻る。


 お茶でも出すべきか? とちょっと考えたけど、やめた。さっさと帰ってほしいから。

 私がイスに座ると、ナオコはおずおずと私の向かいのイスに座った。


「それで、なんの用?」

「あの……」


 ナオコは忙しなく視線をキョロキョロと動かすだけで、ここに来た目的をなかなか口にしようとしない。


「ねぇ、なにも言うことがないなら帰って」


 今日は楽しみにしていたケーキが届くんだから。ホールを丸々一個食べる予定なんだから。ずっとウキウキしながら待っていたのに、あなたが来たせいでテンションダダ下がりなんだから。


「お、お願いがあって来たの」

「は? どの立場で?」

「……っ!」

「あ……っと」


 いけない、いけない。最近ちょっと性格がきつくなっているから、気をつけないって思っていたんだった。


「どうぞ、続けて」


 ちょっと偉そうな態度をとってしまう。


「あ、あの、もし、マコトがここに来ても部屋には入れないでほしいの」

「…………は?」


 また、わけのわからないことを言いだした。


「ちょっと、あれから私たちうまくいってなくて……。帰ってこないの、マコト……」

「……」


 さもありなん。


「もしかして、ここに彼がいるかもしれないって思ったの?」


 私の質問に躊躇なくうなずくナオコ。


 本当にどうかしている。なんでそんなふうに考えるのか。


「……ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど、もしかして、私とマコトがつきあっているあいだに、あなたとも関係があった?」

「……うん」


 やっぱりそういうことか。


 思わず、これでもかってくらい大きな溜息が出た。


「ア、アンリがつかまえておかなかったのがいけないのよ」

「は?」

「彼はずっと、アンリが好きだった会社の人のことを気にしていたの。アンリが好きって言ってくれないことも気にしていたわ。彼、待ってるってアンリに言ったでしょ? だから、聞けなかったのよ。自分のことを好きかって。それで悩んでて。だから私が相談に乗ってあげていたの、そうしたら、そういうことになっちゃって」

「なに、それ」


 ベタすぎない? ていうか、本当にたった二文字が言えなかったせいで、私たちの関係は終わってしまったということなの? 


 正直に言うと、マコトに好きって伝えるタイミングがわからなかった。一緒に住んで、キスもセックスもしていたから、いまさらだったし、いざ言うとなると恥ずかしくて。でも、ちゃんとマコトのことは好きだったし、伝わっていると思っていた。


「私……アンリとつきあうより前から、マコトのことが好きだった」

「え?」

「だから、二人がつきあいはじめたとき、本当にショックだったよ」


 なんか、私とタケヒロの関係みたいなこと言いだした。


「でも諦められなかったから、バーに一人で通って、彼の恋愛相談に乗って」

「……」


 客が少なくて店を早く閉めた日、マコトと二人で別の店に行って酒を飲んで、それからホテルに行った。


「二人で飲みに行ったあとは、必ずホテルに行ったわ」

「最っ低! よく、友達裏切ってそんなことができるわね」

「好きだったんだから仕方がないでしょ? 彼だって、私と一緒にいたほうが幸せになれると思ったから、あなたと別れたんだし」


 もしかして、ケンカを売りにきたの? 


 そう思っても仕方がないくらい、開きなおった彼女の態度に腹が立つ。


「私のことを好きになってくれたわけじゃなかったけど、私は待ったわ。彼が私を選んでくれるまでずっと待ったの。アンリを忘れて、私だけを愛してくれるまで」


 ナオコとマコトの関係って、マコトの立場が逆になっただけで私とマコトの関係と同じ。これってなんか伝染するの? 待つのが流行っているの?


「マコトが私との結婚を決めてくれたとき、本当にうれしかった。アンリに勝ったと思ったわ」

「私に勝った? いったい私たちはなんの勝負をしているの?」


 するとナオコが目をつり上げて、私を睨む。


「は! 出た! 私はなにも知りませんっていうその感じ。本当に腹が立つ」

「え? なに、突然」


 豹変したナオコの態度に驚く。


「本当にあんたはズルい。私が好きになる人はみんなあんたのことを好きって言うし、私が行きたかった会社にはあんたが採用されるし、あんたばっかり!」

「なによ、それ……。ぜんぜん私は悪くないじゃん」


 とんでもない八つ当たりにびっくりだよ。


「マコトとあんたがつきあう前に、私、マコトに告白したんだから。そうしたら、アンリのことを好きだからごめんって言うし」

「……」

「あんたは私がほしいものを全部持っていくくせに、私が奪っても平気な顔をして。私は、本当は……あんたが大嫌いだったのよ!」

「……」


 言葉もない。なんで、縁を切った人からこんなことを言われなくてはいけないのか。しかも完全な八つ当たり。でも、本当にどうでもよくなって、かえってすっきりした。


「話はわかったわ。そろそろ、帰ってくれる?」

「は?」

「あのね、今日は楽しみにしていたケーキが届くの。私はね、コーヒーを飲みながら、大人気のケーキをホールで食べるために、一週間甘いものを我慢して、コーヒーだって一週間飲んでいないの。わかる? 私のこの並々ならぬ努力が。ホールのケーキを食べるために走りこんで、朝ご飯はサラダだけ。休日の朝なのに大好きなコーヒーを飲まずに我慢をしている私の期待値の高さ、あなたにわかる? そんなウキウキした時間を台無しにしたってこと、あなたわかってる? 今、本当にあなたが邪魔なの。わかる? わかるなら、さっさと出ていって」

「え、だって……」

「出ていって。そして、二度とここには来ないで。ついでに、あんたの旦那が来たら警察に相談するから」

「なっ!」

「早く! 出ていって!」

「あ……うん」


 私の怒りがようやく通じたのか、ナオコは慌てて立ちあがってバッグを握りしめると玄関に向かい、靴を履いて振りかえった。私と目が合って肩をビクンと震わせたナオコ。


「もう……友達には戻れない?」

「当たり前でしょ。さっさと出ていきなさい」


 なんで大嫌いだったなんて言う人と友達に戻れるんだっての! 私はナオコを敵認定した。マコトもだ。だから、二度とかかわってくれるな。


「じゃ、じゃあね」

「……」


 私は返事をすることなく、ナオコが出ていくとすぐに鍵をかけた。


「……なんだったの……」


 本当に、彼女はなにをしにここに来たのだ。


「あ、マコトが来るかもしれないって心配してか……」


 もし来たら、すぐに警備に電話してやる。


 私は、そのあと届いた直径十五センチホールケーキを平らげ、コーヒーを三杯飲んで、いやな出来事をすっぱり忘れることにした。


 それからしばらくして、ナオコとマコトの披露宴に参加した友人から、二人が別居していることを聞いた。友人の話では、披露宴のあとから二人は別居していて、離婚も秒読みだそうだ。


 好きな人と結婚して幸せになるはずだったのに、自分がすべてを台無しにして。


「本当に、なにやってんのかね……」



◆◆◆



「そう、そのまま腕をキープ!」


 今はジムで三か月集中パーソナルトレーニングの最終日。目的はボディーメイク。腹が縦に薄く割れ、目標をしっかり達成して最終日を迎えたことに大満足している。


「はい、ゆっくり上げて」


 体を前に倒して両手に二キロのダンベルを持ち、腕を横に伸ばして引きあげる。


「勢いで上げちゃだめですよ。ゆっくり、そう」


 指導をしてくれているアキラさんは、ジムで一番人気のトレーナーで、半年先まで予約が埋まっている。かく言う私も五か月待ってようやくだ。


 でもおかげでかなり体は締まったし、体調もすこぶるいい。スタイルもちょっと良くなったような気がする……。


「はい、お疲れさまでした」


 みっちり二時間のトレーニングで汗ダクダクだし腕や足は重くて、腹が痛い。化粧もすっかり落ちて、眉毛がかなり薄くなっている。でも、気持ちはすっきり。


「アキラさん、三か月間ありがとうございました」

「よく頑張りましたね」

「アキラさんが応援してくれたので、頑張れました」


 そう言いながら床に置いていた水筒をとって、乾いたの喉を潤す。


「僕の応援が役に立ったのならよかったです。あ、アンリさん」

「はい?」


 水筒に蓋をし、タオルで汗を拭きながらアキラを見る。


「プログラム完走のお祝いに、前に話した居酒屋に行きませんか?」

「ええ、ぜひ。私、あまり日本酒に詳しくないので、いろいろ教えてもらいたいです」

「ああ、よかった。それでしたら、ほかのトレーナーにも声をかけますね。日程が決まったら連絡します」

「はい! 楽しみです」


 私はウキウキしながら頭を下げて更衣室に向かった。

 実はこれまでに何度かジムのトレーナーたちと一緒に飲みに行っている。


 ジムのトレーナーと飲むなんて言うと、周囲の人たちは気をつけて、なんて言うけど、トレーナーの中には女性もいるし、私だってなにも知らない小娘ではないから、なにか起こるかもなんて期待――じゃなくて、警戒くらいはしている。


 それに、ワインバーで飲んだときも、馬肉専門の居酒屋で飲んだときも、たくさん飲んで楽しい時間をすごしたけど、何事もなく帰ってきた。


 だから、なにも心配はしていない。けど――。


「アンリさん、よかったら僕とつきあってもらえませんか」

「え?」


 飲み会が終わって解散し、同じ方向だったアキラさんと一緒に歩いているとき、突然そんなことを言われて驚いた。


「僕、ずっとアンリさんのことが気になってて。パーソナルトレーニングの申し込みが来たとき、すごくうれしくて、すごく楽しみにしていたんです。アンリさんのことを知ることができるから」


 アキラさんはそう言って少し恥ずかしそうに「なんか、ストーカーみたいですね」と笑った。


「あ、もしかして、好きな人、できちゃいましたか?」


 アキラさんが慌てて私に聞く。

 前に今は好きな人はいないし、お一人さまを満喫しているって言ったのだった。


「いいえ」


 私は首を振った。


「それだったら、僕とつきあうことを考えてみてください。返事は急ぎませんが、言ってしまった以上、アピールはさせてもらいます」

「はい……」


 まさかこんな展開になるなんて想像していなかったから、急に緊張して来て心臓が速く動きだす。

 それから二人は無言のまま歩いて、駅の改札口に着く。私が改札を通ってふり返ると、アキラさんはまだ改札の向こう側にいた。


「え? アキラさん?」

「あ、僕、あっちだから」


 アキラさんが指をさしたのは私たちが歩いてきた方向。

 そこでようやく、わざわざ送ってくれたのだと気がついた。


「あ、ありがとうございます」

「いいえ、遅いから気をつけて。じゃあ」


 アキラさんは踵を返すと、もと来た道を歩きだした。そのあいだ、何度かふり返って、私に早くホームに行くよう指で指ししめす。私は、わかったとうなずいてエスカレーターに向かった。


 告白されてウキウキしている自分がちょっと恥ずかしい。でも、うれしい。


 アキラさんはお酒が好きで、運動も好きで、私がお一人さまを極めようと思うって言ったら、おもしろそうですね、僕もご一緒させてください、なんて言ってしまう天然だ。


 性格がよくて見た目もいいから女性に人気があるし、何度も告白されていると聞いたことだってある。


「私もまだまだ捨てたもんじゃないってことかしら?」


 最近いろいろなことがあって、恋愛なんて全然する気なかったのに、告白された途端ちょっとその気になっている自分がチョロすぎて笑えてくる。

 でも、お一人さまと同じくらいお二人さまも楽しいことを知っているし、相手に合わせることで新しい楽しみを見つけることができることも知っている。


 だから、真剣に考えてみる。アキラさんとのことを。ちゃんと話もしようと思う。もう、あいまいな関係を築きたくはないし、後悔もしたくない。


「あれ? なんか、もうアキラさんへの答え、出てない?」


 とっくにつきあうつもりでいるノリノリな自分がおかしくて、一人ニヤニヤしながら電車に乗った。こんな私の姿を見たら引かれちゃうかもしれないけど、それも含めて私を見てくれる人だったらいいな、なんて思う。



◆◆◆



 三年後。


 ベビーカーを押しながら歩くアキラの横で、私はあのとき電車の中でずーっとニヤニヤが止まらなかったことを話している。


「周りの人が、変な人を見る目で私のことを見ていて、いたたまれなかったわ」

「なんか、想像できる」


 アキラと結婚をして二年。ベビーカーで眠っている娘はもうすぐ一歳だ。


「アンリはさ、けっこう感情がすぐ出るからわかりやすいし、素直なんだろうなって思ってたよ」

「そう? 私、顔に出る?」

「顔より、態度とか雰囲気ね。仕事中はわからないけど、僕が知っているアンリは、すごくわかりやすい」

「えー、そうなの?」

「それに、ちゃんと言葉にしてくれるからね」


 言葉にするのはとても大切って学んだから。


「そういえば、タケヒロさん頑張っているよ。かなりバッキバキになってきた」

「そうなの?」


 今、タケヒロはジムに通って、アキラからパーソナルトレーニングを受けている。彼も、半年後には結婚する予定で、バッキバキの体で式に臨みたいんだ、なんて言っていたけど、冗談かと思ったら本気だった。


「人生、いろいろ、だね」

「なに、突然?」


 私は呟くと、アキラがクスクスと笑う。


「なんかさ、数年前は自分がこんなふうに、アキラと子どもと三人で散歩をしている姿なんて、想像できなかったなぁって思ってさ」


 タケヒロとつきあっている自分を想像したことがあった。マコトとこんなふうに歩いている姿を想像したことがあった。お一人さまを満喫して、バリバリのキャリアウーマンになっている姿を想像したことがあった。


 でも、アキラとつきあってからは、あまり先のことは想像しなかった。アキラは、私が自分の時間を大切にしていることを尊重してくれて、二人の時間も大切にしてくれていたから、私はすごく気楽だったし、彼のことを大切にしたいって心から思っていた。


 アキラと別れることは想像できなかったし、これからもずっと一緒にいたいと思うようになって、私からプロポーズした。


 あのときのアキラの驚いた顔と、その次に見せてくれたうれしそうな顔は今でも忘れられない。


 あの瞬間、私は二人で歩く未来を明確に想像することができたのだ。


 さらに数年後、私たちはどうなっているのだろう。アキラとの関係は? 成長した娘は? 私は、どんな道を進んでいるのだろう。


「そう考えると、これから先が楽しみだね」

「うん、すごく楽しみ」


 私たちは顔を見あわせてクスクスと笑った。









最後までおつきあいくださり、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
マウント取る為だけに 大切な自分の時間を費やせるなんて なんてもったいないことをしているのか… 結局 自滅して 不幸になるなんて 主人公 素敵でした かっこいい こうゆう人は 何があっても 不幸には…
友達が酷い。マウント合戦怖い。 気づいてなかった主人公も鈍いのだろうが…ちゃんと怒れて良かった。
禍福は糾える縄の如しと言いますが、アンリは素敵な未来を自分でしっかりと手繰り寄せたのだと思います。 また、それを維持しさらに良いものにしようとする姿勢が素敵女性だなと思いました!
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