第51話 どんな困難も乗り越えて
「ねぇ、ハルくん。一体どこに行くつもりなの?」
真っ赤に染まった空、肉肉しい奇妙な物体に覆われた建物が並び、腐乱した体の化け物達が蔓延る不気味な街を駆け抜けながら、くるみが後ろから俺に聞いてきた。
「美術室」
「美術室? どうして?」
「多分、青葉とくるみが最後にいた場所だから」
俺達がこの世界に迷い込む前に、くるみはこつ然と姿を消した。いや、くるみの存在が世界から消えてしまった。くるみのことを覚えていた俺とこはくは必死になってくるみを探し、俺はあの稲荷神社に辿り着いたのだ。
おそらく、くるみは青葉の力によって神隠しに遭ったのだ。そしてくるみを探していた俺も神隠しに遭い、こんな不気味な世界に迷い込んでしまったのだろう。
では、俺と同じくくるみを探していたこはくはどうしているだろう? もしかしたら俺を追って神社までやって来たのかもしれない。あるいは、こはくも俺やくるみの存在を忘れてしまうのだろうか。
そんな不安を抱きつつ街を走っていると、俺が手を握っているくるみが言う。
「私、青葉ちゃんの絵を描いてたの」
「あぁ、知ってる」
「でね、それが完成したんだけど、その時に青葉ちゃんから聞かれたの。今でもハルくんのことが好きなのかって……」
俺は足を止めてしまった。それにつられてくるみも足を止める。
「くるみは、なんて答えたんだ」
俺がそう問うと、くるみは俺の手をギュッと握り直して答える。
「……青葉ちゃんは、ハルくんのことが好きなんだと思う」
くるみは俺の問いに答えてくれなかった。いや、その答えで話の流れはわかってしまうが、どうやら奇妙な三角関係が生まれてしまっていたらしい。
「俺が好きなのは、くるみだけだよ」
しかし、俺の気持ちは変わらない。
「だから一緒に帰ろう、くるみ」
俺はそう言って再びくるみの手を引っ張って駆け出そうとしたのだが、くるみが急に手を離してしまったので、俺は何事かと思って後ろを振り向いた。
「ダメ!」
くるみがそう叫んだ時には、もう俺は彼女の姿を視界に捉えてしまっていた。
『地上に戻るまで、絶対に後ろを振り向いてはいけませんよ』
俺は、禁忌を犯した。
『絶対に』
俺はくるみの姿を確認するために、後ろを振り向いてしまったのだ。
くるみは、俺の手を離していなかった。俺がそう勘違いしてしまっただけだ。
俺は、今も自分が掴んでいるくるみの手を見る。辛うじて人間の手であることはわかる、ドロドロに爛れた手だ。
くるみが手を離したと俺が勘違いしてしまったのは、俺が掴んでいたくるみの手が、彼女の体から千切れてしまったからなのだ。
──蛆たかれころろきて。
古事記には、そんな謎の一文がある。ざっくり言うと、腐乱した体にうじゃうじゃとウジがたかっている様子を表した部分らしい。
俺がどこでそんな言葉を覚えたのかは自分ですらわからないが、まさかそんな表現が似合ってしまうような状況に遭遇するとは思わなかった。
「ミ、ナ、イデ……」
俺の後ろにいたのは、皮膚がドロドロに溶けて体中にウジがたかり、どこかで落としてしまったのか両目も失っていて、言葉を発する度にドロドロとした体液を口の中から吐き出す、一応人間の形をした生物。
「く、くるみ……?」
果たして、俺の目の前にいる謎の生物は猫塚くるみなのだろうか?
俺は確かにくるみの手を引っ張って走っていたし、ついさっきまでくるみと話していたはずだ。俺が今も握っている腐ったドロドロの手らしき物体は、くるみの手のはずだ。
くるみがこんな姿になってしまったのは、俺が禁忌を犯してしまったからなのか? 俺が後ろを振り向いてしまったからなのか?
『見るなのタブー』というものがある。
これは、日本神話やギリシア神話を始めとした世界各地の神話体系に見られるタブーの一つで、ギリシア神話においては、死んだ妻エウリュディケを生き返らせるために冥界に赴いた音楽家オルペウスが絶対に後ろを振り向いてはいけないという約束を破ったり、ティターンの一族エピメテウスが絶対に開けるなと言われていたパンドラの箱を開けてしまったり、日本神話においては、絶対に見るなと言われていたのに愛する妻イザナミの朽ち果てた姿を見てしまったイザナギだったり。
あるいは、舌切雀や浦島太郎、そして鶴の恩返しに見られるように。
古来から、人は禁忌を犯してしまう生き物だったわけで。
そんな先人達から教訓を学ぶことが出来るはずなのに、こうしてまた同じ過ちを繰り返してしまうのである。
俺の目の前にいる生物は、もうとっくに両目の眼球を失っているのに涙を流しているように見えた。この朽ち果てた体を見られて怒るのではなく、見られたことを悲しんでいるのだろうか。
もはや、とてもくるみの面影なんてない酷い姿だが。
「くるみ」
俺は、彼女のドロドロの体を抱きしめた。とても人間の皮膚とは思えない感触が、ベトベトした液体が、鼻をつんざくような臭いが俺に襲いかかるが、俺はそれでも構わずに力強く抱きしめた。
「帰ろう、一緒に」
禁忌を犯したとはいえ、だからといって何かが起きるとは言われていない。青葉はただ絶対に振り向くなと言っただけで、その後に何が起きるとは言っていないのだ。
青葉の意図はわかる。きっと、こんな姿に成り果てたくるみの姿を見て、悲鳴を上げて逃げ出す俺の滑稽な姿を見て笑いたかったに違いない。
しかし、俺は決めたのだ。
どんなくるみも受け入れる、と。
「ハ、ル、クン……」
くるみは弱々しく俺の体に抱きつく。
「くるみ」
俺達は今まさに大きな困難に直面しているわけだが、これからも幾度となく困難に見舞われるかもしれない。
だが、くるみとなら乗り越えられる。乗り越えてみせる。
「俺と一緒に進もう」
こんな荒廃した世界の中で俺がそう決意すると────赤みがかった世界が段々と彩りを取り戻していき、俺達は竹やぶに囲まれた稲荷神社の前にいた。
俺もくるみも何が起きたのか一瞬分からず、辺りをキョロキョロと見回した。荒廃していた世界は彩りを取り戻し、周囲の竹やぶや草花は青々しく、そして稲荷神社の社殿や鳥居は朽ち果てていた姿に戻っていた……いや、戻ったというべきなのだろうか。
「は、ハルくん!」
そしてくるみも元の姿に戻り、泣きながら俺に抱きついてきた。
「俺達、戻ってこれたんだな……」
くるみに抱きつかれて一瞬体がのけぞりかけたが、俺もくるみの体をこれでもかというぐらい抱きしめた。しかし、無事に帰ってきたという実感が湧かない。
それもそうだ。俺達にはまだ、解決しなければならないことがある。
「つまらないですね」
声がした方を見ると、そこにはやはり青葉が佇んでいた。相変わらず白い着物を着ていたが、頭にはキツネの耳を、そして腰下からキツネの尻尾を生やしていた。
「も、もしかして青葉ちゃんって、神様だったの……!?」
くるみは青葉の姿を見てそう呟いた。やはりくるみもそう思うのか。
「いや、青葉はそういうのじゃない」
神様ではあるかもしれないが、多分くるみが期待しているような存在ではない。元々はそうだったのかもしれないが、今は俺達に災いをもたらす存在なのだ。
俺達がさっきまで見ていた恐ろしい世界は、本当に青葉が俺達を黄泉の国へ送ったのかもしれないし、ただ幻覚を見せていただけかもしれない。
「流石はハルさん、よくご存知で」
今なお、青葉は俺達にニコニコと微笑んでみせる。
「じゃあ、お前は何者なんだ?」
俺がそう問うと、今度はとぼけずに青葉が答える。
「私は、ハルさん達の恋を成就させるために生まれた存在です」
青葉は、神様とは名乗らなかった。だが、存在といはどういうことだろう?
きっとくるみもそれを疑問に思っただろうが、青葉は構わずに話を続ける。
「なので、私はハルさん達の恋が上手くいくように色々と手助けをしてきました。私もですね、夢小説や同人誌を読んで色々な恋を学んできてまいりましたので、恋に関しては一家言あるつもりです」
いやどうして夢小説や同人誌で恋を学んでるんだ、というツッコミをしたくてたまらなかったが、今はそういう空気ではない。
「ですが、私には一つ困ったことがありました。それは、他人の恋を助けるべき立場にある私が、ハルさんに恋をしてしまっていたことです」
青葉が俺に好意を向けてくれていることは本人の口から聞いていた。しかし青葉自身は縁結びの神様だからと、俺との関係に線引きをしていたはずだ。いつも子作り子作りとうるさかったが。
「私はハルさんと結ばれたい、しかしハルさん達の願いを叶えなければ力も失ってしまう。これはとても困ったことです。そこで私は思いつきました、ならハルさん達にとても大きな困難を与えて、その恋を諦めさせてしまおうと」
と、笑顔で説明する青葉を見ていると、そんな姿も彼女らしいと思えてしまう。とんでもないことをしでかしてくれたが。
「ハルさんが私との恋を願ってくれたら、私はまだこの世界に存在することが出来ます。一年でも、一ヶ月でも、いや一日でも長く、私はハルさんと一緒にいたかったのです。しかし私に残された時間はあまりにも短いものでした。おそらく、私が自分の責務を投げ出してハルさんとイチャイチャしていたからでしょう。きっとハルさんと本当に子作りしていたら私の存在は消えていたかもしれません」
俺の隣にいたくるみが「そうなの!?」と驚いた様子で俺の方を向いたので、俺は慌てて首を横に振る。
いや、俺は無罪のはずだから。一緒に入浴したり同じベッドで寝たりしてたけど。
あれ? これって結構な爆弾だな?
「私はハルさんの幸せを願うと同時に、ハルさんの恋が成就しないよう邪魔をしていたのです。ですが、とうとう叶いませんでした、私の願いは」
そう言って青葉は笑ってみせたが、突如として彼女の両目が赤い光を放ち始めた。一体何事かと思ったが、何か仕掛けてくるのではと思って俺もくるみも身構える。
「どうして、私の願いは叶わないのでしょう」
そう言って、青葉は一歩ずつ俺達の方へ歩み寄ってくる。
「好きな人がいる人を好きになってはいけないのでしょうか?」
俺達は神主でも霊媒師でもなんでもないから、青葉を撃退するための術を持ち合わせていないのだ。
「ど、どうしよう、ハルくん」
「わからない……!」
一度は危機を脱出することが出来たが、どうすれば俺達は乗り越えることが出来るんだ?
『私は、ハルさん達の恋を成就させるために生まれた存在です』
青葉は、確かにそう言っていた。おそらく、その言葉に嘘偽りはないはずだ。こんな目に遭っているのに、まだ青葉のことを信じようとしている情けない自分がいる。
青葉が神様なのか怨霊なのかはわからないが、もし俺達の恋を成就させるために生まれてきた存在なのだとすれば、その役目を終えたらどうなるのだろう?
俺達の恋が成就すれば、青葉の存在は必要なくなってしまうのではないか?
「くるみ」
青葉がじりじりと迫ってくる中、俺はくるみの方を向く。
「な、なに?」
「こっちを向いて」
恋の成就とはなんだろうか。
恋愛未経験の俺にその答えはわからないが、一つの解を示すことは出来るかもしれない。
「う、うん」
俺の意図を汲み取ってくれたのか、くるみが俺の方を向いてくれたので、俺は彼女の頬に手を添えた。
くるみが目を瞑った。
今まで、こういった物理的に近い距離感になったことはあるのに、こういう感情でくるみの顔を捉えたのは初めてだ。
ありがとう、青葉。
青葉のおかげで、俺の願いは叶う。
「ダメ!」
俺達の意図に気づいたのか青葉はそう叫んだが、その時既に、俺とくるみの唇が触れ合っていた。
「やめて────」
出来ることなら、もっとロマンチックに。
わがままを言うなら、ちゃんと自分の想いをくるみに伝えて告白した時にしてみたかったけど。
「おねがい────」
どれだけの時間触れ合ったかはわからないが、口づけを終えると、今更恥ずかしくなっているのかくるみの頬は赤くなっていて、照れくさそうに笑う。きっと俺も信じられないぐらい顔が真っ赤になっているはずだ。
そして、俺達の恋が成就したと同時に──。
「成就、しないで────」
悲痛な叫びを上げた青葉の胸が、鋭い刃に貫かれていた。
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