第34話 ごまかせない気持ち
「た、ただの捻挫なのに、皆大げさ過ぎます」
保健室にて、捻ってしまった右の足首を氷嚢で冷やしながらこはくは言う。俺はベッドに腰掛けたこはくの前に座って彼女の足を見たが、少し赤く腫れているように思えたし、軽く触れただけで「いたっ」とこはくの体が震える。
「本当か? 折れてなかったとしても骨にヒビが入ってるかもしれないぞ」
「私、何度も捻ってますからわかりますよ、そういう痛みは。ちょっと安静にしてれば治ります」
こはくはそう強がって見せるが、心なしかその表情はいつもより険しく見え、痛みを堪えているかのように思える。
不慮の事故により転倒してしまったこはくを俺が保健室まで運び、保健室の先生の指示でくるみが父親に連絡して車で迎えに来てもらい、そのまま病院へ向かう流れとなった。
こはく本人はただの捻挫だと言い張っているが、だとしても念の為だ。
「どうしてハル兄さんは体育館にいたんですか? 性懲りもなくお姉ちゃん目当てで?」
「いや、くるみが絵を描いている姿を青葉が見たいって言ってたから」
「だとすれば、別にハル兄さんがついてくる必要はなかったのでは?」
「違いないな」
くるみ目当てかと問われたらそうだとしか答えられない。一度振られたというのに諦めの悪い俺を見て、こはくは呆れたように溜息をついていた。
他のバレー部員も心配そうにしていたが、こはくは一人で大丈夫だって言い張ったため彼女達は練習に戻り、くるみは体育館に置いていた画材を片付けに行き、青葉もそれを手伝いに行った。そして保健室の先生も今は席を外しているため、この保健室にいるのは俺とこはくの二人だけ。
この状況、ただただ気まずい。
元々俺とこはくはそんなに仲が良いわけではないから、いざこうして二人きりとなるとお互いに何も喋らず、ただ沈黙の時間が過ぎていってしまう。それに、この間──。
『私は、ずっと前から、ハル兄さんのことが────』
結局、こはくがあの時何を言おうとしていたのかは未だにわからない、いやわかるような気もするが、どうしてもそれを受け入れがたい自分がいて、こうして二人きりになるとますます喋れなくなってしまう。
こはくのことも心配だが、俺と二人きりという状況は彼女にとっても嫌だろう。だから、ここは俺が退くべきなんだ。
「じゃ、俺もちょっと帰りの準備があるから、また後でな」
こはくにそう断って俺は椅子から立ち上がり、さっさと保健室から去ろうとしたのだが────こはくが俺の腕をギュッと掴んだのだった。
「こ、こはく?」
前にもあった、こんなこと。バイト終わりに、くるみと青葉を置いて二人きりで帰った時。
あの時と同じように、こはくは切なげな眼差しで俺を見つめて口を開く。
「行かないで、ください」
俺はそのままこはくに腕を引っ張られ、彼女の隣に座らされた。
「ちょっと離れてください」
君がここに座れって引っ張ってきたのに?
「な、なんで?」
「……なんですか、ハル兄さんは私の汗の臭いでも嗅ぎたいんですか?」
「あぁそうか、すまん」
確かにそれは俺にデリカシーがなかった。別にそんな変な臭いはしてこないが、向こうは俺が何かを言っても何も言わなくても気になってしまうのだろう。
と、きっかけはどうであれようやく沈黙が破られたので、俺も少しは気が楽になり、こはくに声をかける。
「足、やっぱり痛いか?」
「……はい。少しだけ」
「わかった。親父さんが迎えに来たら、車までおんぶしてやるから」
「べ、別におんぶじゃなくても」
「じゃあ抱っこか?」
「……おんぶで」
いつものこはくに比べると若干覇気がないのは、やはり足を捻ったことによって気落ちしているからかもしれない。
このまま会話が途切れても困るため部活の調子はどうかと聞こうと思った矢先、俺の隣に座るこはくがうつむきがちに言う。
「ハル兄さんは、今でもお姉ちゃんのことが好きですか?」
俺が避けようとしていた話題を、容赦なくぶっこんでくるこはく。
思えば、始業式の日にこはくと二人で登校した時もそんな話をしたような気がする。
「俺の答えは変わらないさ。俺は、くるみとずっと一緒にいたいんだ」
くるみに振られ、そして青葉という存在が側にいても、くるみへの恋を忘れられるどころか日に日に彼女への気持ちが強くなっていくばかりだ。
例え、こはくの気持ちに気づいていても。
「私じゃ、ダメですか?」
こはくは俺の右手に触れると、そのままギュッと握りしめてきた。
「私なんかじゃ、ダメなんですか?」
こはくはうつむいたままだが、その小さな体が小刻みに震えていた。
そんなこはくの、悲壮感さえも混じったような訴えを聞いても──。
『ハールくんっ』
俺の脳裏に浮かぶ女の子の笑顔は、こはくのものではなかった。
「ごめん」
俺は、こはくに掴まれていた手をスッと振り払った。
「ダメなんだ。くるみじゃないと」
俺はついこの間、人生で初めて告白してそして振られてしまったわけだが、こうして誰かを振るというのも初めてのことで、まさかその相手がこはくだとは思いもしなかった。
そして、行場を失っていたこはくの手は、保健室のベッドのシーツを掴んでいた。
「どうして、ダメなんですか」
今は、今にも泣き出してしまいそうなこはくの声を聞いているだけで、ここから逃げ出したくなってしまうぐらい、胸が張り裂けそうな気分だ。
でも、逃げるわけにはいかない。
「俺は、ガキンチョだった時からくるみのことが好きだったんだ。でもその好きってのは恋とかじゃなくて、友人愛に似たようなものだったんだと思う。その頃の俺にとっては、くるみもこはくも大切な幼馴染だったさ。でも……五年前のあの事件がきっかけで、俺は家族愛を求めるようになって、孤独になりかけていた俺にたくさんの愛を注いでくれたくるみのことをさらに好きになってしまって……ただの幼馴染でも姉でもない、特別な関係になりたくなってしまったんだ」
こうして自分の気持ちを誰かに赤裸々に伝えることなんて殆どしてこなかったのに、ましてや普段はあまり話が弾まないこはく相手だというのに、俺がこんなに素直に喋れるようになってしまったのは一体どうしてだろう?
「くるみは優しくて、可愛くて、勉強も出来て、絵も上手くて、料理も出来て、でもちょっと抜けてるとこもあるけど、家族を失った俺のためにずっと頑張ってきてくれた。だから俺は、くるみに恩返しをしたいんだ。くるみの側で……」
今、思えば。
俺がくるみに告白した時、俺は一体どんなセリフを言ったのだろう?
くるみが目の前にいなければ、こんなにスラスラと自分の素直な気持ちを話すことが出来るのに。
そしてこんな語りを、くるみの大切な妹であるこはくを振るために使ってしまった自分が情けなくなってきたのだった。
「完敗ですね、私」
俺から顔を背けてうつむいたまま、こはくは自嘲するように笑った。
「私も、最初はハル兄さんのことを実の兄のように思っていたんです。私はとても幸せでした、いつも一緒に遊んでくれる姉と兄がいてくれたので。嬉しい時も悲しい時も一緒にいてくれたから、私も頑張ることが出来たんです」
あの頃のこはくは今と比べると笑顔も多くて、感情表現が豊かな子だったと思う。いや、今でも俺以外の人間を相手にする時はこはくも結構明るい子だけど。
「でも小学五、六年ぐらいになると、周りの皆が恋バナとかし始めるようになったんですけど、なんだかクラスの男子のことが好きになれなくて……その時、私は気づいたんです。私は、ハル兄さんのことが好きなのかも、と」
「そ、そんな前から俺のこと好きだったの?」
「はい。気づいてくれなかったんですね」
正直に言うと、こはくから告白されるまで俺は彼女に好かれているだなんて一ミリも思っていなかった。逆に嫌われているのかもって思っていたぐらいだ。
「でも良かったんです。私の気持ちにハル兄さんが気づいてくれなくても。私は知っていましたから、ハル兄さんはお姉ちゃんのことが好きなんだって。お姉ちゃんもハル兄さんのことが好きだと思っていたから、私は……我慢、してたんです。お姉ちゃんと、ハル兄さんの二人の幸せのために……」
我慢、していた?
こはくのその言葉で、これまでのこはくの振る舞いの謎というか、どうしてこはくが俺の前では不機嫌そうにしていたのか、ようやく納得がいった。
「私は、ハル兄さんに嫌われたかったんです。私はハル兄さんのことが好きでしたから、ハル兄さんがお姉ちゃんのことを好きなら、それを邪魔したくなくて……これ以上ハル兄さんに近づくと、ますます好きになってしまいそうだったので、私もハル兄さんのことを嫌いになりたくて……」
こはくは俺と同じように自分の素直な気持ちを赤裸々に語ってくれていたが、段々と言葉に詰まるようになってきて、無理して話さなくても良いと俺が言おうとしても、こはくは語り続ける。
「ハル兄さんがお姉ちゃんに振られたから、私にもチャンスがあるかもって思って、でもそこに青葉さんが現れて、ハル兄さんが取られちゃうかもって怖くなったから、私は、私は……」
大切な姉の幸せを願い、俺に嫌われようと、俺のことを嫌いになろうとしていたこはくにやってきた、千載一遇のチャンス。
「例え神様にダメだって言われても、私は今じゃなきゃダメだと思って、だから、だから……」
しかし、こはくの恋が実ることはなかった。
俺がまだ、くるみのことを諦めていなかったからだ。
「私、ハル兄さんのことを嫌いになろうとしたのに、そう思えば思うほど、好きになっちゃって、自分がもうわからなくなって、どうすれば良いのかわからなくて……!」
そして、こはくが顔を上げて俺の方を向いた。
「こんなにも……」
その瞳から一度涙が溢れ出ると、それはもう留まることを知らず。
「こんなにも、好きなのに……」
制御できない自分の感情に戸惑いながら、こはくは子どものように泣きじゃくっていて。
そんな大切な幼馴染が目の前で泣いているのに、俺はこはくを慰めることも、抱きしめてやることも出来なくて、こはくの思いを無下にした自分にそんな資格があるとは思えなかったから。
俺は歯を食いしばりながら、こはくが泣いている姿をただ眺めることしか出来なかった。
そして運命というのは残酷なもので、こんな状況で保健室の扉が開かれた。
「こはくちゃーん、パパが迎えに来たよー……お?」
画材の片付けから戻ってきたくるみの目には、ベッドに並んで腰掛けている俺とこはくの姿が目に入ったことだろう。今の状況を見れば、俺がこはくを泣かしたのは何よりも明白なことだ。
「お、おわぁ……」
まさか、保健室の中でこんなことが起きていただなんて予想だにしていなかったらしいくるみはそんなリアクションを取りながらも、俺達の側へとやって来たのだった。




