第17話 乙女の背中は刺激が強い
まだまだ終わりそうにない夏の暑さのせいで汗だくになり、俺は帰宅してすぐに冷たいシャワーを浴びた。学校はまだ冷房が効いている空間が多いからまだ良いが、やはり登下校の暑さにはうんざりしてしまう。夏の気温はあと十度ぐらい下がっても良いと思う。
こうしてシャワーを浴びている間、普段なら特に深い考え事はせずに、冷蔵庫に何が残ってたかだとか、今日って何曜日だったけだとか、そういえばあのアニメの放送日だっただとか、そういうことぐらいしか考えないのに──。
『ハルさんは、変化を恐れているのですか?』
あのキツネの神様の言葉が、どうも頭の中で繰り返される。
青葉は一体、俺をどうしたいというのだろう。まさかくるみの代わりに俺の尻を叩こうとしているのだろうか。叩かれるどころか何か突き刺されそうで怖いぐらいだが、やはり一応は神様という肩書もあってか、青葉の言葉が真理を突いているかのように思えてずっと思考を巡らせてしまう。
一体どうしたものかと悩みながら、シャワーを止めて体を洗おうとした瞬間──浴室の扉がガララッと勢いよく開かれた。
「では、お背中頂戴いたしますね♪」
突然、俺の背中を狙う狐耳の刺客が現れたのだった。
それを言うなら流しますねだろ、というツッコミは置いといて。夕食の支度しているはずの青葉がバスタオルを体に巻いて、学校では隠していたキツネの耳と尻尾も生やしてウキウキな様子で現れたのだった。
「出・て・け!」
「なんですか、せっかく殿方にご奉仕しようと勇気を出した麗らかな乙女に対して失礼過ぎる物言いではないですか?」
「お前は乙女じゃなくて神様だろ」
「神様に対しても失礼な物言いではないですか?」
「確かに」
「そこは納得するんですね」
学校では普通の人間の姿だったから忘れかけていたが、青葉は元々は人間で、今はキツネになった神様だった。ややこしいなコイツ。
なんとも心臓に悪い奴だが、下手に神様に抗って機嫌を損ねられても恐ろしいし、俺が拒絶してもはいそうですかと引き下がるような奴とも思えないので、神様のご厚意に甘えることにした。
だって、こんなシチュエーションに浮かれない男子なんていないだろう? そうだろう?
「では失礼しますね~かゆいところはないですか~?」
「美容室みたいだな」
「何の変哲もない普通の背中ですね」
「悪かったな、何の変哲もない普通の背中で。傷跡でもあるかと思ってたのか」
「鯉だとか龍が描かれていたら面白かったんですが……」
「俺はいつまでも綺麗でありてぇよ」
少しはドキドキするかと思ったが、やはり青葉の物言いがいつも通りなので、いまいち雰囲気が出ない。いや、雰囲気が出るとそれはそれで困ってしまうのだが。
「では正面も……」
「やめろ。正面ぐらい自分で洗える」
「では私の背中を洗ってくださいな」
「いやなんでだよ!」
「洗ってくださらないのですか? 私には自分の背中を洗わせたくせに?」
「それもそうだな」
「話が早くて助かります」
別に俺が自分から背中を洗ってくれって青葉に頼んだはずじゃないんだがな。しかし浴室への進入禁止を青葉に命じても、絶対に入るなと言ったらつまり入れってことですねという謎理論で入ってきそうだし、逆に絶対に入れと言ったらじゃあ入りますって言って喜んで入ってきそうな、困った神様である。
もう俺にこの神様の勝手を縛る手立てはない。
「じゃ、じゃあ失礼する」
「はい、遠慮なくどうぞ♪」
青葉に背中を向けてもらって、俺は彼女の背中を洗おうとする。
さっさと済ませようと思っていたのだが、いざ青葉の背中を目の前にすると、真っ白な美しい背中に、つい見惚れてしまう。一応青葉は体の前面にバスタオルを当てているが、真っ白な背中を滴る水滴を目で追っていくと、彼女の細い腰回り、そして──。
「ぐぬおおおっ!?」
「は、ハルさーん!?」
俺は近くにあったシャンプーの容器で思いっきり自分の頭を叩いて、青葉に背中を向けたのだった。
「ど、どうされたのですかハルさん」
「青葉。俺には無理だ。童貞には刺激が強すぎる」
「背中だけでノックアウトですか……これでは先が思いやられますね」
この神様、どうしてこんなに見てくれは良いんだ。元々は人間だったらしいけど、これはその頃の姿なのか? ちょっと思春期の男子には刺激が強すぎるんだ、その艶めかしい体は!
「青葉。すまないが自分の体は自分で洗ってくれ。初心な童貞を笑うなら笑ってくれ、存分に」
「ご安心ください、私も処女ですのでハルさんの仲間ですよ。なので全然恥ずかしくなんてありません。せっかくですし確かめてみますか?」
「何を確かめるって言うんだよ!」
逆に青葉は経験もないのにどうしてこんな積極的になれるんだ。縁結びの神様だからか? それとも人間だった頃に実らなかった恋愛に未練タラタラ過ぎて性欲が凄まじいのか?
俺が大人しく顔を洗っている中、背後から青葉が自分の体を洗っている音が聞こえてくる。見えなかったらそれはそれで、ただタオルが体に擦れる音が官能的に聞こえてきてしまう。
「ですが、これだけでダウンされては困りますね。ハルさんは愛しのくるみさんと一緒にお風呂に入られたことはないですか」
「六、七歳の頃まではあったはずだが」
「思春期を迎えてから、一緒に入りたいなぁと妄想したことはなかったんですか?」
「それは何回か……って何言わせてるんだよ!」
「正直なのは良いことだと思いますよ」
一応くるみとこはくと一緒にお風呂に入った記憶はあるが、遠い過去の話だ。全然覚えていない。うん、覚えていないはず。
くるみは俺が中学生になっても「一緒に入る?」だなんてからかってきたりもしたが、こはくがそんな冗談を言うはずがない。
そして体を洗い終えて、いざ浴槽に入ろうとした時──青葉が何やら楽しそうにソワソワしていたので、一応彼女に聞く。
「おい。まさかお前も入る気じゃないだろうな?」
「なんですか、せっかくハルさんの背中を流してあげたのに、一緒に湯船に浸かることを許してくださらないのですか?」
「確かにそうだな」
「段々素直になってきましたね、ハルさん」
素直になったというか、無駄に問答するのが嫌になってきただけだ。
幸いにも俺が居候させてもらっている家の浴槽はまぁまぁ広いので、二人一緒に入ってもそんなに狭くはないのだが……邪魔になるから青葉に尻尾を消してもらっても、どうしても青葉と背中を引っ付ける必要があるわけだ。
「とても、ドキドキしてらっしゃいますね」
背中がピッタリ引っ付いているため、俺の心臓がバックバクなのは青葉にバレバレだ。やっぱり青葉に尻尾をつけたままにしてもらった方が良かったか。
「ドキドキしてなかったらお前は困るんだろ」
「確かにそうですね。私のこの純潔の体に魅力がないのかと不安になってしまいます。いかがですか、実際に目に見えなくても、こうして背中に密着した感覚に色々と妄想が膨らむのではないですか?」
「やめてくれ、余計なことを考えさせてくれるな」
「もうっ、意気地なしなんですから」
一度はこういうシチュエーションに憧れたりもしたが、出来ればその相手はくるみが良かったなだなんて、未だに考えてしまう俺は本当に情けない奴だと思う。
だが、せっかくこうして縁結びの神様が直々に恋人になるって言ってくれているのだから、そのご厚意に甘えたいところである……と、俺はふと疑問が頭に浮かんで、青葉に聞いてみる。
「そういえばお前って神様なんだから、風呂に入ったり飯を食ったりする必要はないって言ってなかったか?」
昨日の夜、青葉がそんなことを言っていたなと急に思い出した。
すると、俺と背中合わせで湯船に浸かっている青葉の体がビクッと震えたように感じた。
「そそそそうでしたっけ? そんなこと言いましたかね、私は。多分言ってないと思いますよ、うふふのふ~」
……なんか、いつもひょうひょうとしているキツネの神様が、珍しく動揺しているように思える。図星なんだろ。
「やっぱり、俺をからかうために入ってきたんだろ」
「いえいえ。殿方の体を一度は拝んでみたいと思っただけですよ、後学のために」
「何が後学のためだ。入る必要もないのに風呂に入っても楽しくないだろ」
「いえ、とっても楽しいですよ」
青葉はフフ、と無邪気に笑って言う。
「こうして誰かと一緒に楽しくお風呂に入ることなんて、久しぶりですから」
……やめてくれ。
俺は、そういうのに弱いんだ。
きっと青葉も家族と入浴したことはあるにはあるだろうが、いや彼女の生前の身分を考えるとそこら辺はどうなのかわからないが、子どもの頃に家族を失った青葉は、やはり家族愛に飢えているように感じる。
似たような境遇を持つ俺は、どうしてもそんな彼女を放っておけなくて……。
「俺も、そうかもしれないな……」
なんて、呟いてしまうのだ。
五年前の俺は十二歳だったし、とっくの昔からずっと一人で入浴していたが、風呂から上がっても誰もいないという環境はやはり寂しいものがあるのだ。
「こうして誰かを側に感じていられることって、とても幸せなことなんですよ」
「そうかもしれないな」
その寂しさを、くるみの代わりに青葉が癒やしてくれる……。
「良い雰囲気になってきたことですし、ここで思い切って子作りを……」
「その発言が雰囲気をぶち壊してるんだよ!」
「せっかく目の前に最高級のご馳走が用意されているというのに残念な方ですね、ハルさんは。そうやって人はすぐ側にあるはずの幸せを逃して不幸になっていってしまうのですね。一体ハルさんが追い求める青い鳥はどこにいらっしゃるのでしょうか、あわれあわれ」
「ホント、人を煽るのは一丁前だな!」
「失礼ですね、人を誘惑することだって一丁前ですよ」
このキツネの神様は、少々我が強いのが残念なところだが。
まぁ、こうして賑やかなのも悪くない。
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