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突然、海斗が奈実の腕を強く掴んだ。
海斗の指に嵌められているペアリングが、肌に食い込む。
「あの時の約束、忘れたのか? 『いつか結婚しよう』って言っただろ?」」
それは奈実が高校三年生だった時、初恋の人から言われた言葉で。奈実にとっては、二度と戻れない夏の海と同じ。もう思い出になっているもの。
それをこの人が知っているということは、本当に。
「俺は……ずっと待ってたんだ」
続けられたその声は、震えていた。
「ご、ごめん。だって、名字ちがうから!!」
焦った奈実が慌てて謝ると、海斗は少し腕を掴む力を緩めた。
「名字が変わったのは…あんたのせいだよ。奈実のおじいさんに頼まれて改姓したんだ」
「名字を変えた? うちのじいちゃん、何てことを……」
祖父の横暴さが信じられずに顔を強張らせた奈実の頬を、海斗が空いたもう片方の手でそっと撫でた。
「奈実のおじいさんは、俺をあんたの婚約者にするために色々と動いたんだよ。留学もそうだ。あの時は俺もまだ子供で……理由までは分からなかったけど」
オレンジ色に空を染めていた夕焼けは、すでに藍色の闇に沈んでいた。青白い月明かりが、道に立つ二人の影を作り出す。
「でも…俺は後悔してない。奈実と一緒にいるためなら、何だってする覚悟だったから」
腕を掴んだまま、奈実をじっと見ていた海斗の目が熱を帯びる。
「覚えてるか? 高三の時、雨の中でずっとあんたを待ってた。あの時から…ずっとお前だけだった」
「えっと…それなら、何でもっと早く教えてくれなかったの?」
ぎこちなく聞いた奈実から、海斗は視線を逸らした。
「教えてどうなる?」
海斗は小さく言った。
「あんたは、俺のことなんて…」
続きの言葉は夜の風に消えた。言葉を切った海斗は掴んでいた腕を離すと、奈実の左手を優しく握り直す。
まるで大切なものを扱うように、海斗の指先が奈実の左薬指のペアリングを撫でる。
「あんたは世界中を飛び回るような女になってた。俺がこのシーグラスを見せたってきっと、またどこかへ行ってしまうだろ? そんなのは…嫌だった」
奈実を見下ろす海斗の目が、熱を帯びる。
「だから黙ってた。奈実が気づくまで……ずっと」
「それは……何かごめん」
その目にたじろぎながら奈実が謝ると、海斗は僅かに悲しげな笑みを浮かべた。
「それは、何に対しての謝罪?」
そのまま、至近距離で顔を覗き込まれる。
「俺のこと、忘れていたこと? それとも……今更気づいた自分の気持ち?」
「んー、てっきり? じいちゃんか父さんの遺産目当てでの婚約かなーとか思ってたから」
海斗は奈実の言葉に一瞬目を細めた。
「俺がそんな男に見える?」
突然、海斗は奈実の顎を掴むと、強い力で自分の方へ向けさせた。
「あの時…高校の校舎裏で、雨に濡れながら待ってたのは何だったんだ? あんたの笑顔を見たくて、何度も家まで通ったのは?」
彼の吐息が奈実の耳元で熱く震える。
「遺産なんて、俺には必要ない。欲しいのは……奈実だけだ」
「あはは……うん、ごめんね、海斗くん」
海斗は奈実の軽い謝罪に目を見開くと、気が抜けたようにふっと息を吐いた。奈実の顎を掴んでいた手が、ゆっくりと髪に移る。
「ごめんじゃ済まないだろ?」
その声は少し震えていた。
「俺は…またあんたに会いたくて」
海斗はスマホの間から、懐から古びた写真を取り出した。それは二人が高校生の時のものだった。
「覚えてる? 奈実が初めて笑ってくれた日だ」
彼の指先が写真の中で、制服を着て笑っている奈実に触れる。
「それからずっと…あんたのことしか見てなかった」
海斗は奈実の目を見つめた。
「今も…変わらないよ」
彼の手が奈実の頬に伸び、そっと撫でる。
「本当に俺のこと、気づかなかったのか?」
「その……うん。というか、海斗くんの顔、婚約した時、ちゃんと見てなかったというか……」
あはは、と誤魔化し笑いを浮かべた奈実を、海斗は逃がさないというようにじっと見つめていた。
「……ちゃんと見なかったってどういうこと?」
彼は奈実の左手を強く掴むと、自分の方に引き寄せた。
「あの頃の俺と今、そんなに違う?」
「だって名字違ってたし! それに海斗くんじゃないなら相手、誰でもいいと思ってたし……」
海斗は奈実の言葉に、ゆっくりと目を細めた。月明かりが彼の整った顔立ちを鋭く浮かび上がらせる。
「本当に? 今は?」
「い、今……?」
頬が熱くなってきた奈実は、落ち着きなく視線を泳がせた。けれど、ハッと思い出してして海斗の顔見上げた。
「でも! 海斗くん、彼女いるんでしょ!?モテモテなんでしょ!?」
海斗は奈実の質問に、どこか皮肉めいた笑みを浮かべた。
「彼女は……」
彼は奈実の耳元で囁くように言った。
「いるかもしれないし、いないかもしれない」
海斗の指先が奈実の頬をなぞり、そのまま顔が近づく。
「でも…あんただけは特別だ。他の誰かといる時も、いつも奈実のこと考えてる」
奈実は信じられない気持ちで目の前の、昔好きだった人を見上げた。
高校生だった彼はどんな人だっただろう。
眼鏡をかけて、背はそんなに高くなかった。穏やかな物腰で、奈実が話しかけるといつも笑顔で答えてくれて、——そんな、彼が。
「あの海斗くんが……チャラ男になってる……」
奈実の呟きに、海斗は少し口の端を上げた。
「そう見える? でも、奈実がいない時は楽しく生きるしかないだろ」
青白い月が空で光る。二人の横を、一台の車が通り過ぎて行った。
「高校の時は……奈実に近づきたくて、必死だったんだよ」
海斗の声が急に低くなる。
「見た目が変わったって、あんたの前じゃ、俺はあの時のままだよ」
「待って! ち、近い近い近いー!」
海斗は奈実の抗議を無視し、さらに顔を近付けた。吐息が奈実の唇に触れる。
「もっと近くにならないと、伝えられないことだってあるんだけど」
指先で奈実の下唇を軽く撫でた海斗は、奈実を抱きしめた。奈実の知らない煙草と香水の匂いが漂う。
「俺は……今も昔も変わらない。奈実だけが好きなんだ」
海斗は奈実を抱きしめたまま、囁くように言った。
「本当はずっと、俺のこと気づいて欲しかった。でも…あんたは俺の元にこなかった」
目の前にいるのは、奈実が知らない大人になった初恋の人。
「だから自分で会いに来た。もう逃げないでくれ」
「初恋が、叶った…?」
海斗は奈実の呟きに、ゆっくりと微笑んだ。その笑みはどこか狡猾で、でも優しさも滲んでいた。
「初恋?」
彼は奈実の顎を軽く持ち上げ、月明かりの下でじっと見つめる。
「まだだよ」
仄暗い光を灯すその目に、見つめられて息が止まる。
「あんたが本当に俺を受け入れるまで…俺たちの初恋は終わらない」
海斗は奈実を抱き寄せ、髪に顔を埋めながら囁いた。
「だから、もう逃げないで。ずっとここにいろ」