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翌日。海斗と夕方の六時にカフェで会う約束をしていたのに、奈実の仕事は終わらないまま、時刻はすでに夕方の五時半を超えていた。
『ごめん、仕事が長引いちゃって。少し遅れそう』
昨日作っていた資料の修正がまだ終わらない。奈実は焦りながら海斗にメッセージを送った。
このままだと、カフェに着くのはどんなに頑張っても六時を超えてしまうだろう。
「あと二か所? あ、違う、三か所だ!」
先輩社員の手も借りて資料を修正し、上司へ提出した時には、六時をとっくに超えてしまっていた。
「やばい、急がなきゃ!」
けれど、奈実が待ち合わせのカフェに到着した時、カフェには店員以外、誰もいなかった。
「……もしかして、帰っちゃった?」
奈実がカフェの扉を開けて、どうしようかとウロウロと視線を彷徨わせていると、カウンターの店員が彼女に目を止めた。
「あ、夏目さんのお連れさまですね。夏目さんは少し前に来られて、また出て行かれましたよ」
夏目。確か、海斗の名字だ。
また出て行ったって……帰ったってこと?
うーん……と奈実は少し悩んだ後、「よし!」と心を決めた。
海斗くんが帰ったのなら、わたしも帰ろう! そして、今度謝ろう!
答えを出した奈実は「お邪魔しましたー」と、店員に挨拶して店を出た。
今日の晩ご飯はどうしようかな。あ、カレー食べたいな。帰りにカレー屋さん寄ろうかな。
奈実がそう思いながら帰宅する方角へ歩き出すと、背後から声がした。
「待てよ、奈実!」
振り向くと、海斗が息を切らして走ってきた。
黒いジャケットから見えるシャツの襟は乱れ、髪は汗で額に張り付いている。
「約束しただろ……」
肩を上下させながら海斗が、驚いている奈実の腕に手を伸ばしてきた時、海斗のスマホが鳴った。
取り出した画面を見て表情を変えた海斗は、すぐに通話ボタンを押した。
「菜子?……いや、今忙しいんだ。後で話す」
すぐに電話を切ろうとした海斗に、奈実は慌てて言った。
「友達? いいよ、ゆっくり話して。わたし、カフェで待ってるから!」
海斗は奈実の言葉にほっとしたように息を吐くと、そのまま相手としばらく電話で何かを話しはじめた。
奈実はもう一度カフェに戻ると、店員へ席を用意してもらえるよう頼んだ。
店内は夕方の光が柔らかく差し込み、どこかノスタルジックな雰囲気があった。
「悪かったな」
しばらくしてカフェに入ってきた海斗は、奈実に向かって軽く笑いながら席に着いた。
「ううん! わたしも遅れちゃったし、ごめんね」
奈実の向かいの席に座った海斗が、手にしていたスマホの画面を下向きにしてテーブルに置いた。海斗の指先が、そわそわと落ち着きなくスマホの背面を撫でている。
「あのさ…」
メニューを見ている奈実をじっと見ながら、海斗が口を開いた。
「さっき、迎えに行ったんだけど…気づかなかった?」
「さっき?」
海斗は瞬きをした奈実の反応を見て、軽く肩をすくめた。
「遅れるって言ったから……あんたの会社の前まで」
「え、そうなの!? ごめん、気づかなかった」
もしかして、この人、わたしの会社の前から走ってきたから、あんなに汗だくだったの?
何か悪いことしたなあ……。
奈実が運ばれてきたアイスティを飲みながらそう考えていると、目の前で海斗がグラスの水を一口で飲み干し、小さく呟いた。
「……まぁ、いいや」
そのまま、海斗は軽い口調で続けた。
「ねえ、折角会えたんだし……久しぶりに今夜、俺と一緒にどこか行かないか?」
奈実はその言葉に、少し首を傾げて答えた。
「久しぶりも何も……わたしたち、最後に会ったの、婚約した時だよね?」
海斗の表情が一瞬、凍りついたように見えた気がした。しばらく何も言わずに黙っていた海斗は、ゆっくりと、どこか仄暗い笑みを浮かべた。
「そうだったな。婚約した日は……あの時は楽しかった。でも、それ以来……」
急に伸ばされた海斗の指先が、戸惑う奈実の頬に触れる。
「あんたは仕事ばかりで、俺のことなんて眼中にないんだろ?」
その指先の冷たさに、思わず奈実が身をすくめると、海斗は奈実にしか聞こえない声で言う。
「だからこそ…今夜だけでも」
次の瞬間、海斗は奈実の手首を掴むと突然立ち上がった。まだ飲み物が入っているグラスが、振動でカチリと音を立てた。
「場所を変えよう。ここじゃ話せない」
「え? どこに?」
海斗は目を見開いている奈実に顔を寄せ、小さく囁いた。
「秘密だよ。歩いて10分くらいのとこ」
有無を言わさない態度で奈実の手を引く海斗は、そのまま奈実をカフェから連れ出した。
街路樹が夕暮れの香りがする風で揺れる中、奈実の目に先を歩く海斗の背中だけが映る。
「ちょっと、ねえ! どこいくの!?」
奈実が困惑した声を上げると、海斗はふと立ち止まり、探るような目で奈実を見つめた。
「なあ、俺のこと……嫌いじゃないだろ?」
「嫌いもなにも、そんなに海斗くんのこと知らないし……」
少し困ったように首を傾げた奈実に、海斗は一瞬だけ寂しそうに目を細めた。
「……じゃあ、今から知ればいいさ」
立ち止まった海斗は奈実の耳元に顔を寄せると、囁くように言った。
「どうせ明日からは、また仕事に夢中なんだろ? だったらその前に…少し俺と遊んでみないか?」
あ。この人、やばい人だ。
奈実の背中が冷たくなった。
笑顔を貼り付けたまま、奈実は必死に頭を回転さる。
「うーん、困ったな」
「どうして?」
月明かりで海斗の目が煌めく。
「俺は困ってないよ」
そう言って奈実の顔を覗き込んだ海斗は、奈実の唇にそっと自分の指を軽く押し当てた。
「黙って…受け入れればいいんだ」
海斗は奈実の手を強く引くと、路地裏の暗がりへと歩き出した。
「ホテルまであと少し…我慢できない」
ボソリと呟かれた言葉に、奈実の顔が引き攣る。
これ、多分やばいやつ……婚約者だからとかじゃなくて、本気でやばいやつ。
その時、奈実が左腕につけているスマートウォッチが小さく震えた。届いたのは家族からのSMSだ。
はっとした奈実は先を急ぐ海斗のTシャツを引っ張り、何とか歩みを止めさせた。
「ねえ、ごめん! わたし、そろそろ帰らなきゃ。話ってそれだけ?」
足を止めた海斗は奈実に近づくと、ふっと笑みを消した。
「俺とあんたの話は、まだ終わってない」
「んーと……じゃあ何の話が残ってるの?」
尋ねた奈実の髪を指に絡めた海斗は、そっと奈実の耳元で囁いた。
「あんたの秘密、全部知ってる」
「……わたしの秘密?」
海斗は奈実の顔を至近距離で覗き込んだ。
「そう。例えば……毎晩23時ちょうどに、必ずSMSでルナって奴に『今日も頑張ったよ』って送ってることとか」
「何で知ってるの!?」
奈実は驚いて目を見開く。それは、家族と親しい友人の一部の人しか知らないことだった。
「あんたのスマホ、一度見たことがあるから」
「え!? いつ……?」
海斗は奈実の問いかけに、ゆっくりと口角を上げた。
「婚約した日」
彼の指が奈実の首筋から鎖骨へと滑り落ちる。
「俺、記憶力がいいんだ。スマホを覗いたのは、ほんの一瞬のことだ。でも……全部覚えちゃった」
触られた肌がぞくりと粟立つ。
「あんたの会社のSNS、プライベートアカウント…全部知ってる」
え、どうやって……?
強張っていく指先を握りしめて、奈実は視線を彷徨わせたあと、ぼそぼそと答えた。
「ルナは……実家の犬です。実家の犬アカウント作ってるのバレてたの? 恥ずかしー」
海斗は一瞬だけ目を見開いた。そして、突然噴き出した。
「犬? ははは……本当かよ!」
笑い声が路地裏に響く。
「でも、犬のルナに毎晩報告してるって……あんたらしいな」
笑いを抑えながら、海斗は奈実に一歩近づいた。
「でもさ、金曜日に部屋で泣いてたのは犬のせいじゃないだろ?」
海斗の指先が奈実の頬を撫でる。
「本当の理由、教えてくれよ。俺には隠せないんだから」
「……何だろう。家で動物系の映画見て号泣したことかな?」
海斗は奈実の言葉に、薄く笑った。
彼の指先が奈実の髪を撫でながら、耳元で囁く。
「動物系の映画? 本当にそれだけ?」
それは低く、どこか挑発的な声で。
奈実は何とか話題を変えようと、無理やり明るく返した。
「あの映画はやばかったよ! 犬飼ってる人なら号泣しちゃうって! あ、海斗くんちは何か動物いる?」
「動物か…」
少し考えた海斗はポケットからスマホを取り出し、画面を奈実の方へ向けた。
「ペットは飼ってないけど…」
海斗の指先がスマホの画面をなぞる。そこには一人の女性とのツーショット写真が映っていた。奈実よりも大人っぽい、綺麗な人だ。
「でも、犬より可愛い子とは毎晩会ってるんだよ」
海斗は奈実の驚いた表情を見て、意地悪く笑ってる。
「あんたのことじゃないけどね。菜子ってバーテンダーだよ。最近、よく会ってる」
何だ。彼女いるんだ。
ほっとした奈実は、両手を前で合わせて笑顔を浮かべた。
「すごい美人さんだね! 海斗くんって、モテるんだね!!」
海斗はスマホの画面を奈実にさらに近づけた。指先で女性の笑顔をなぞりながら、低い声で囁く。
「まあ、どっちかと言えば、美人かな。 でも…あんたの方が可愛いよ」
スマホの画面をなぞった手が、奈実の頬を同じように撫でた。
「だけど、素直じゃないのが玉に瑕だな」
「いやいや。こんなに美人な彼女さんだったら、素直じゃなくても十分でしょ」
「ああ……あんたには、そう見えるのか」
反応を楽しむように、ゆっくりとスマホをポケットに戻そうとしていた海斗は、奈実の笑顔を見て一瞬息を呑んだ。
「じゃあ、話って婚約解消しようってこと!? OKだよ、早速じいちゃんに連絡を……」
「彼女じゃない!」
口調を荒げた海斗は、奈実の肩を掴んだ。
「ふざけんなよ...冗談でもそんなこと言うな。解消なんて絶対にさせない。俺が欲しいのは、あんただけだ。他の女なんて……ただの暇つぶしだ」
奈実は驚きながらも首を傾げた。軽い口調でーーけれど、心の底から真剣に言った。
「そう? わたしは名前だけの婚約者より、海斗くんが本当に好きな人と結婚したほうがいいと思うけど」
「名前だけ……?」
その声は低く、冷たい。
「俺たちの婚約は……そんな簡単なものじゃない」
海斗はポケットから何かを取り出し、奈実の前に差し出した。
「これ、覚えてるか? 君が高三の時にくれたやつ」
それは親指ほどの大きさの、青い半透明の小さな破片。
歪なハート型にも見えるそれは、奈実の記憶の片隅に確かに残っているものだった。
「えええ?! 何で海斗くんがこれ持ってるの!?」
奈実の驚いた顔を見て満足げに笑った海斗は、青い破片を指先で弄びながら言う。
「何でって、奈実がくれたんだろ? 覚えてない?」
わたしが? 海斗くんにあげた?
奈実はもうずっと遠くなった過去を思い出す。
あれは夏の青い海。制服のまま砂浜を手を繋いで歩いた記憶。
「う、うん。それは確かに高三の時に、好きな人に渡したシーグラスだよ。おもちゃみたいなものだけど。その人はそのあと、海外に留学に行って……あれ?」
ふと、記憶の中の何かと、今が重なった気がした。
海斗は奈実の言葉を遮るように、シーグラスをそっと奈実の手のひらに乗せた。
歪な形をした、冷たいガラスが肌に触れる。
「まだ思い出さない?」
彼の声は低い。
「俺と海に行ったあの時のこと、覚えてる?」
奈実は何度か瞬きをした後、呆然として目の前の男に尋ねた。
「……もしかして、あなた、美咲くん? 美咲海斗くん?」
海斗の表情が一瞬柔らかくなった。空に昇りはじめた月の光が、低く笑った海斗を照らす。
「そうだよ。まあ、今は夏目海斗で……あんたの婚約者だ」