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忘れていた婚約者は女癖の悪いチャラ男でした  作者: 高遠ゆめ
忘れていた婚約者は女癖の悪いチャラ男でした
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「雨……どうしよう? PCが濡れちゃう……」


 突然の通り雨。あと会社まで少しの距離なのに、ザアザアと降る雨に足止めをされてしまった。雨に濡れないように仕事鞄を抱きしめて駆け込んだのは、美容院の軒下。


「あと、どれぐらいで止むんだろ……」


 灰色の空を見上げていた奈実は呟いて、左腕につけたスマートウォッチを見た。


 戻らないといけない時間まで、少し余裕があるけど、ここでの雨宿りはお店の人に迷惑だろうし……。


 どうしようと悩みつつ周りを見渡すと、道路の先に入ったことのないカフェが視界に入った。


 軒下(ここ)にいるよりは、カフェで待つほうがいいよね……。


 奈実は仕事鞄を抱きしめて道路を渡ると、カフェのドアノブを握った。ゆっくりと開く扉の動きと一緒に、カランとした音が落ち着いた店内に響く。

 席の数は十席ほど。けれど、座っているお客はたった二名だった。


 ちょっだけ、ここで仕事しようかな。空席も多いし……。


 奈実は注文を取りに来た店員にカフェオレを頼んだ後、鞄の中に入れていた社用のPCを立ち上げた。

 パスワードを入力して、作りかけの資料をまとめていく。

 集中してPC画面を見つめていた奈実は、ふと目の前にできた影に気づいて顔を上げた。

 目の前にいたのは、一人の男。

 艶のある黒髪に、黒曜石のような目。シンプルな白いシャツと紺色のデニム、黒いスニーカー。

 綺麗な顔立ちは、女性受けが良さそうだ。


「奈実?」

「へ?」


 知らない男に突然名前を呼ばれた奈実は、ぽかんとして声を出した。

 男性は奈実と視線が合うと、嬉しそうに笑った。


「俺だよ、夏目 海斗。覚えてる?二年前にあんたのお祖父さんが決めた婚約者」


 海斗……? こん、やくしゃ……?

 聞き覚えのある名前に、奈実は瞬きをして——。


「え、海斗くん!?」

 思い出した。確かに、奈実には祖父が決めた婚約者がいた。

 左薬指につけている細いシルバーの指輪。

 気づいた時には、他のアクセサリーと同じ扱いになっていたそれは、婚約した時に相手から贈られたペアリングだ。

 けれど婚約者と会ったのは、二年前に顔合わせしたその時一回きりで。


「久しぶり。カフェで婚約者と再会なんて、運命かな?」


 そう言った海斗は固まっている奈実を見て、楽しそうに笑っていた。奈実は、うまく回らない頭を動かして、何とか言葉を捻り出す。


「ひ、久しぶりだね。えっと…海斗君は何でここにいるの?」


 海斗は奈実の向かいの空席に座ると、慣れた様子で店員にコーヒーを頼み、軽く肩をすくめた。


「……偶然だよ。雨宿りに来たんだ」


 そう言って頬杖をついた海斗は、じっと奈実を見つめていた。その視線は、びっくりするほど強い。

 外でザアザアと音を立てる雨音はさらに激しくなっており、カフェの窓ガラスに波紋のように水滴が伝う。

 奈実が所在なさげに視線を彷徨わせていると、突然、海斗が椅子から立ち上がり、奈実の隣の席に腰を下ろした。そして奈実のノートパソコンの画面をちらりと見たあと、手を伸ばして奈実の肩下の髪に触れた。


「あんたさ。仕事ばっかりしてるけど、たまには俺のことも思い出してくれてもいいんじゃない?」

「え?」


 海斗の指先が、奈実の髪を一束掬い上げる。

 突然のことにポカンとしている奈実に、海斗は少し不機嫌な表情を見せた。


「……もしかして、本当に俺のこと覚えてなかったんだ?」


 その射すくめるような視線に、思わず奈実の背中が冷たくなる。慌てて奈実は視線を逸らした。


「えーっと…確かに婚約したけど、わたしたち、一度しか会ってないし」

「そんなことないよ。それに、あんたの誕生日に花を送ったし。忘れた?」


 海斗は体を寄せて奈実の顔を覗き込んだ。どこか暗い光が少し細めた目に宿っている。


 そう言えば去年の誕生日、ピンクと白が混ざった薔薇の花束を貰った気が……? ちょうど、仕事の短期出張と重なっていて、直接受け取ったわけじゃないけど。

 あれ、婚約者(かいとくん)からだったんだ。


「……誕生日のお花、ありがとう」

「あぁ、そっちは思い出してくれた?」


 海斗は軽く笑いながら、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。煙が螺旋を描いて空気中に漂う。


「でも、その花…俺が選んだわけじゃないんだ」


 少し身を乗り出した海斗のシャツから、煙草と一緒に知らない香水の匂いが広がる。


「奈実のお祖父さんが選んだ花屋なんだよね」


 海斗の声は柔らかく、しかし鋭さを帯びていた。


「でもさ…俺自身が選んだ花の方が、あんたには似合うと思うんだけど」


 海斗はゆっくりと奈実の顔を見下ろした。雨音が窓ガラスを叩く中、カフェの照明が海斗の瞳に反射する。


「今度、俺から贈ってもいい?」


 軽い口調なのにどこか真剣な響きも残っていて、奈実は少し驚きながら海斗の顔を見て言った。


「花は…大丈夫だよ。それに、海斗くんも忙しいでしょ?」


 海斗は奈実の言葉を、ふっと鼻で笑う。


「忙しい?俺が? ……あんたこそ、仕事ばっかりのくせに」


 腕時計をちらりと見た海斗は、呟くように言った。


「花なんてただの口実だ。本当は……」

「え、何か言った?」


 大きめの雷鳴が言葉の末尾と重なり、最後まで聞き取れなかった奈実が聞き返すと、海斗は奈実の耳元に顔を寄せた。


「言ったよ。あんたに会いたかったって」


 海斗が指先で、奈実の左薬指に嵌められた指輪を撫でる。


「えっと……会いたかったって、海斗くんは何かわたしに用事でもあったの?」

「用事? まぁね……」


 一度しか会ったことがない婚約者のそんな仕草に奈実が困惑しながら尋ねると、海斗は片眉を上げて呟くように言った。

 沈黙が続く。言葉の代わりに、ゆらゆら揺れる紫煙が漂ってきて、奈実は思わず咳き込んだ。


「ごめん。煙草、苦手なの。消してくれると嬉しいんだけど」


 海斗は少し目を細めた後、煙草を指で軽く挟んでゆっくりと口元から離した。


「……あぁ、そうだったね」


 海斗は煙草を灰皿に押し付けて火を消すと、奈実の顔に整った顔を近づけた。


「でもさ……煙草より、もしかして俺の方が苦手?」


 その声はさっきよりもより低くなり、どこか挑発的な響きを秘めている。


「……海斗くん、ちょっと近くない?」


 海斗は奈実の言葉に軽く笑った。その目が色気を帯びて細められる。


「そう? 別に近くてもいいだろ? ……婚約者なんだし」


 その時、パタパタと音を立てて窓の外を知らない鳥が羽ばたいた。外を見れば、

 灰色の雲は遠ざかりはじめ、所々に青い空が見えている。


「あ、会社に戻らなきゃ」


 慌てて奈実が左腕のスマートウォッチ見ると、カフェに入ってからかなりの時間が経っていた。


「……また仕事? たまには俺の相手してくれてもいいんじゃない?」


 海斗は奈実の髪を優しく撫でると、低く耳元で囁いた。


「仕事なんて明日でも遅くないだろ?」


 社会人として信じられないことを言われて、奈実は思わず眉を寄せて海斗の顔を見上げた。


「今はダメ。仕事があるの。放り出すなんて無責任なことできない」


 奈実の言葉にふっと目を細めた海斗は、その手を奈実の腰に回してそのまま引き寄せた。


「俺はあんたの婚約者なのに?」

「それとこれとは話が別だよ」


 窓の外をチラリと見た海斗は奈実の肩に触れ、そのまま指先で軽く首筋を撫でた。


「もうちょっと一緒にいてよ、雨も止んだし……それに、こんなに近くで会えたのも運命だろ?」

「……運命?」


 予想もしていなかった言葉に、奈実は首を傾げた。

 その様子に、海斗は少し考えて言った。


「いや……運命じゃなくて、俺の意志だよ」


 その時、テーブルのPCがクライアントからのメールを受信して点滅した。慌てて奈実は今度こそ席から立ち上がった。


「やだ、戻らなきゃ!」


 荷物をまとめて、硬い表情をしている海斗に手を振る。


「ごめんね、海斗君。また連絡するね」


 カフェを出ると、アスファルトに残る雨粒が太陽に反射して揺れていた。


「奈実!」


 急がなきゃと歩調を速めようとした奈実の肩に、後ろから手がかかった。


「何でそんなに急ぐんだよ……」


 振り返ると焦った顔をした海斗がいた。


「明日……明日、もう一度会える?」


 カフェにいた時の余裕そうな姿ではなく、むしろ少し震えているような声に、不思議に思いながら奈実は答える。


「明日? うーんと、仕事が終わったあと……夕方ならいいよ」


 海斗は一瞬だけ目を細めると、奈実の髪に手を伸ばし軽く撫でた。


「夕方か……わかった」


 小さく呟いた後、海斗は両手で奈実の顔を包み込む。そして今にもキスできそうな、ギリギリの距離まで顔を近づけて囁いた。


「約束だ」


 海斗は奈実の顔から手を離すと、ふっと笑った。


「明日、迎えにいくよ」

「え、大丈夫だよ、なんか悪いし」


 慌てて奈実は手を振る。


「じゃあ、ここ! このカフェで待ち合わせでもいいかな?」

「……わかった。じゃあ明日の夕方、六時。遅れないでくれよ?」


 海斗はそう言って奈実の左手を握り、親指で優しくペアリングを撫でた。

 その軽薄そうな見た目に反して、驚くほど真剣だったけれど、それに気を取られているほどの時間はなかった。


「うん。遅れる時は連絡するね、それじゃあ明日ね!」


 そう言って奈実はもう一度腕時計に目をやり、足早に会社へと向かって歩き出した。

 会社への最短ルートを頭の中で思い描いている途中、ふと海斗の言葉を思い出す。


『夕方、六時』


「あれ。わたし、終業時間、海斗くんに言ったっけ……?」


 奈実は思い出そうとしたが、結局出てこない答えに「ま、いっか」と頷いた。


「それより、早く帰らなきゃ! 資料の提出、明日までだしっ」


 よし! と気合を入れて、奈実は早足で歩き出した。


 ◇◇◇


 カフェの前で海斗は奈実の背中をじっと見送っていた。その表情は、どこか複雑な色を帯びている。

 雨で濡れた窓を拭こうと店の外へ出てきた店員が、立ち尽くしている海斗に目を向けた。

 海斗は奈実が去った方向を見つめてポツリと呟く。


「明日……」

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