第8話 この世界が優しいなんて思ってない
人って、たったひとことや、ひとつの視線で変われるのかもしれません。
でもそれを「信じていい」と思えるまでには、きっと時間が必要で――
今回のテーマは、“ほんの少しのあたたかさ”が心に届く瞬間です。
休み時間の教室は、まるで知らない国の言葉だけが飛び交っているようだった。
誰かが笑うたび、自分じゃない誰かの話題で盛り上がるたび、奏の心は離れ、はその輪の外から教室の空気を眺めていた。
「……ねえ、あの子、まだ来てる。さすがにキツくない?」
廊下から聞こえてきた声に、数人の視線がそっとこちらを向いた。でも、目が合うとすぐに逸らされる。
別にいい、と奏は思った。慣れたから。誰にも迷惑をかけずにいるのが、いちばん静かだから。私は誰にも左右されたくない。平気だから。
わずかに感じる胸の痛みを隠して。
それでも、クラスにひとり、話しかけてくる子がいた。
「昨日の、ねこやのこと……本当にあったことだったんだよね」
その子は言った。おそるおそる、けれど確かに。先日、偶然店の前で会っただけの子だった。入るのを躊躇っていたところを奏がどうぞと迎えいれた。
教室の中に広がる、見えない壁。けれどその子は、ほんの少しだけ手を伸ばしてくれた。
戸惑っているのは、むしろ周りの子たちの方だった。あの“空気を読まない子”と話すことで、自分も浮いてしまうんじゃないか――そんな顔をして。
でも奏は、微笑んだ。
「ありがとう」
たったそれだけ。それだけで、朝の空気が少しだけ柔らかくなった気がした。
***
その日の夕方、奏はまた「ねこや」に足を運んだ。
「いらっしゃい」
雪が、柔らかな声で出迎えてくれる。奏が黙ってうなずくと、彼女はすぐにいつもの席へと案内してくれた。
「今日は、ちょっと強めのスパイスティーを淹れようか」
頷くと、店内にスパイスの香りがゆっくりと広がった。
席についた途端、ふわっと白い猫が膝に乗った。
「……ミルキー」
真っ白な毛並みの子猫が、くるんと身体を丸めてこちらを見上げる。奏が軽く撫でると、小さく喉を鳴らした。
「今日は……ちょっとだけ、しんどいかも」
ぽつりと、奏がつぶやいた。誰に言うでもなく、でもミルキーはわかってるように、そっと体を寄せてくる。
「ねえ、ミルキー……わたし、ちょっとだけ泣いてもいい?」
問いかけると、ミルキーはにゃあと優しく鳴いた。
涙がこぼれるなんて、久しぶりだった。
小さな頃、母に「泣いても何も変わらないよ」と言われてから、なるべく泣かないようにしてきた。でも、それでも溢れてしまう涙もあるんだと、今さらながら思い知った。
「世界なんて、優しくないって思ってたよ。誰も、味方じゃないって」
ミルキーは何も言わない。ただそこにいて、あたたかさだけをくれる。
「でも、少しだけ、違うかもしれないって思った。今日、話しかけてくれた子がいたの。ほんのちょっとだけだけど……うれしかった」
***
しばらくして、スパイスティーが運ばれてきた。
「この味、好きな人がいてね」
カップをそっと置きながら、雪が静かに言った。
「その人がここに来るときは、決まってこのお茶を頼むの。元気が出るからって」
「……どんな人、なんですか?」
奏の問いに、雪は微笑むだけで何も言わなかった。
けれどその横顔は、どこか遠くを見ているようで――
「……でも、それだけで元気になれるなんて、すごいですね」
「そうね。でも、人って案外、ちょっとのことで変われるものよ」
***
帰り際、ミルキーが入口まで送ってくれた。
「また来る?」
ミルキーがそんなふうに言った気がして、奏は小さくうなずいた。
扉を開けると、風のにおいが変わっていた。街の音も、いつもより少しだけ優しく感じた。
「……この世界が、全部優しいなんて思わない。でも」
立ち止まって、奏はつぶやいた。
「そうでもない、かもしれない」
そう思えた今日が、ほんの少し誇らしかった。
今日のメニュー
・静かにあたたまるスパイスティー
奏の心の奥にある、ひとりぼっちだった時間。
その記憶に、今日という日が少しだけあたたかさを重ねられたら――
スパイスティーのモデルは「チャイを控えめにした感じ」です
雪の“好きな人”って誰なのか。
次回も、静かに心に響く出会いをお届けします。




