第27話 見送るためのレモンケーキ
春の風が、少しだけ背中を押してくれる午後。
誰かを見送る時間は、いつもほんの少しだけ、胸が苦しい。
でもそれは、きっと、新しい扉が開く音なのかもしれない。
今回は、そんな“見送りの日”のおはなしです。
午後の陽ざしが、カウンターの端に置かれたレモンケーキをゆるやかに照らしていた。
カモミールとミントの香りが、ほんの少し春の終わりを運んでくる。
「今日、来るわよ」
雪がそっと言った。
奏は、その言葉の意味をすぐに悟った。
あの時——夢をあきらめたあの子。
諦めたはずの夢の先に、新しい何かを見つけて、もう一度進み始めようとした彼女。
「ここから、また旅立つってこと?」
「ええ。きっと、またあの子は自分で選ぶのね。彼女の扉の先を」
カラン、と鈴の音。
その子は、少し背が伸びていた。
けれど、あの時と同じように、まっすぐな瞳をしていた。
「おかえりなさい」と言いかけて、「いらっしゃいませ」と言い直した。
彼女が軽く笑う。
「変わったね、あなた」
「わたしも、ここも……少しずつですけど」
窓際の席。彼女がよく座っていた場所。
春風がカーテンをふわりと揺らす。
「ねえ、わたし……実は、留学するの」
紅茶を一口飲んでから、彼女がぽつりと話し出す。
「すっごく悩んだけど……あのとき、ここで泣いてたわたしが、あまりにも悔しくて。
もう一度、やってみようって思えたの。わたしにできること、きっとまだあるって」
奏は、何も言えずにうなずいた。
それは、まるで自分に言われているような気がして。
「でもね、怖くないって言ったら嘘になる。
前と同じで、また何かが崩れて、戻ってこれなくなるんじゃないかって——」
奏は、手元に置いていた手帳をそっと開いた。
旅立っていった先輩から受け取った、大切な手帳。
その中の、白紙のページ。
何か挟まっていることに気づいて、そっと指でつまみあげる。
それは、小さな「鍵のかたちをしたしおり」だった。
金色の金属性の薄くて軽い、けれど妙に存在感のあるもの。
「なに、それ?」と彼女が聞く。
「……わかりません。でも……たぶん、“なにか”なんです」
奏は、自分でもよくわからないまま答えた。
クロエがカウンターの上からふと覗き込み、
しっぽをふわりと揺らしながら言う。
「その鍵は、“誰かのため”じゃないにゃ。
奏が、自分を開くための鍵にゃ」
彼女は紅茶を飲み干して立ち上がる。
「ありがとう。来てよかった。きっとまた、帰ってきてもいいよね」
「もちろんです。……きっと、笑って迎えます」
彼女の後ろ姿に手を振りながら、
奏は自分の胸に手を当てた。
——わたしは、あの人みたいに
“なにか”を見つけて前に進めるだろうか。
紅茶の香りとレモンの酸味が、静かに残る。
いつか、自分も誰かを送り出せるようになったように——
自分のことも、ちゃんと送り出せる日が来るのかもしれない。
「……わたしの扉の先って、なんだろう」
ぽつりとつぶやく。
ミルキーが寄ってきて、ぺたりと座り込んだ。
鍵のしおりが、陽に照らされてきらりと光る。
そのページには、まだ何も書かれていない。
けれど、なぜかその空白に、少しだけ期待を感じた。
——その白紙は、恐れじゃなくて、余白かもしれない。
夢を書くための、未来の余白。
奏はそっと手帳を閉じた。
その日、ねこやのランプの下には、
旅立つ人のためのレモンケーキが置かれていた。
甘くて、少しだけほろ苦い。
——まるで、新しい一歩みたいだった。
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本日のメニュー
•見送るためのレモンケーキ
•花ひらくハーブティー(カモミール×ミント)
その夜、奏が手帳をもう一度開いてみると、しおりが挟まれていたページの隅に、小さな扉のようなイラストが浮かぶように描かれていた。
まるで——“それ”を指し示すように。
奏は思った。
鍵のかたちをしたそれは、もしかしたら——ただのしおりなんかじゃないのかもしれない。




