第26話 小さな旅のおみやげ
選ぶことに勇気がいるように、戻ることにも覚悟がいる。
そんな姿を見た奏が、少しずつ何かを受け継ぎはじめます。
その日、午後の紅茶の香りがふわりと立ちのぼった頃だった。
店内には、奏とミルキーだけ。
カウンターで湯気のたつティーカップを拭いていた雪は、ふと何かを思い出すように、言った。
「今日、ひさしぶりにあの子が顔を見せてくれるって。」
「……“あの子”って?」
「ほら、奏が“まだお客様側”だった頃、よくここに来てた子よ。ほら、カフェの隅で、ずっと手帳を開いてた」
言われて思い出した。
何度か見かけたことがある。
静かで、目立たないけど、たしかにそこにいた先輩。
いつの間にか来なくなって、それっきりだった。
その日の午後、扉がそっと開いた。
猫の鈴が、やさしい音を立てる。
入ってきたのは、春の光をまとうような雰囲気の女性だった。
「あ……」
思わず声が出そうになるのを、奏はこらえた。
懐かしいのは、たぶん香りだ。
あの頃、あの席で、静かに紅茶を飲んでいた先輩。
「いらっしゃいませ」
いつのまにか、そんなふうに言う自分がいた。
「あれ……あなた、あの頃もいたよね?バイトしてるの?」
「はい。……あの頃、素敵な方だなって、実はよく、見てました」
「あら、なんだか照れるわね。……わたしも、よくここを“見てた”の。見守ってもらってたのかもしれないな」
笑った表情が、あの頃より少しだけ大人びて見えた。
「ここのお茶、恋しかったんだ。そうだ、あのね、いろんなところに旅をしてみたんだけど、素敵な物たちに出会って手に入れたらもう鞄いっぱいで、ひとつお土産にもらってくれない?」
そう言って、先輩はバッグから包みをいくつも取り出した。
いろんな手帳。手帳というか、薄いノートのようなメモ帳がたくさん。
その中で淡い水色の布に包まれた、小さな革の手帳に目を奪われた。
「あぁ、それ?それね、お土産じゃなくて、ずっと旅先で使ってたやつ。……あの頃、ここで未来のことばかり考えてたから、今度は、ここに“今までのこと”を置いていこうと思って」
手帳には、書きかけの言葉が綴られていた。
「迷った日も、立ち止まった日も、全部、ここから始まった気がしてる」
奏はその言葉に、なぜか胸がつまった。
「進路って、どうやって決めたんですか?」
ふと口からこぼれた問いに、先輩は少し考えてから、言った。
「きっと、どこかで“決めてた”んだと思う。気づかないふりしてただけで。ちゃんと選ぶって、決めるって、勇気がいるから。……これ、いる?使い古しだけど」
先輩はその手帳をわたしに差し出した。
「え……でも、それって先輩にとって大事な……」
「大事なことは、もう心のなかにしっかり刻まれてる。何となくあなたに渡した方がいいと思ったの。あなたのこれからの鍵になることがもしかしたら、あるかもしれない」
先輩が帰ったあと、雪がふと呟いた。
「ねえ奏ちゃん。人ってね、“進むこと”もすごいことだけど、“戻ってこられる”って、もっとすごいことよ」
「……わたしも、ここに戻れるかな」
「戻る場所は、心の中にあるわ。ちゃんと持ってさえいれば」
その日の閉店後、先輩が残していった手帳をそっと開いた。
白いページの片隅に、小さくこう書かれていた。
「わたしの扉は、ひとつだけじゃなかった。
ひとつを開けたあとで、もうひとつの鍵を手に入れた気がする。
それは、“戻るための鍵”。
いつかまた、ここに還ってきたわたしを、どうか笑って迎えてください」
奏は、そのページを見つめたまま、しばらく動けなかった。
ミルキーがそっと寄り添い、白いしっぽで手帳の端を撫でた。
「戻るって、ちょっとだけ勇気いるよね」
「うん……でも、ここは、そういう場所なのかもしれない」
奏は、閉じた手帳を胸に抱いた。
それはきっと、未来を開く“鍵”であり、
かつての自分に、そっと手を伸ばすための――
小さな旅のおみやげだった。
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本日のメニュー
・旅人のカモミールティー
・はちみつレモンの焼き菓子
「旅立つ人」もいれば、「還ってくる人」もいる。
そのどちらも、奏の“今”を映す大切なヒントになるように――。




