鍵の章③ 選ばなかった世界と俺の鍵
この世界には、理屈で説明できないことがある。
それを信じるか、信じないか――じゃない。
見てしまったなら、もう選ぶしかない。
システム屋・創は、目の前に現れた“扉”に抗えなかった。
「選ばなかった世界」と名づけられたその向こうに、彼は何を見たのか。
鍵とは、ただの道具じゃない。
自分が何を“持っている”のかを問う、静かな問いかけなのかもしれない。
あの夜、扉が現れたとき、俺は見なかったことにしようとしていた。
システム屋として、理屈の通らないことは極力避けてきた。
ファンタジーとリアリティの線引き。
定義と構造。再現性と整合性。
「そんなのあるわけないでしょ」って、あざ笑って済ませるはずだった。
けど――“それ”は、目の前に確かにあった。
ねこやの裏口、少し奥まったところ。
何もなかったレンガの壁に、古びた木の扉。
俺は、1人でもう一度扉の存在を確認した。誰にも言わずに写真を撮って、調べはじめた。
結論から言えば、まったくわからなかった。
ARでもない。投影装置もない。空間歪曲も異常値なし。
そもそも――喋る猫がいる時点で、この世界が正気とは言えない。
「じゃあここは仮想空間か?」
そう思って手元の端末で内部接続をチェックしてみても、特定のネットワークにはつながっていない。
電波は拾う。でも、波長が違う。
ローカルでもない。クラウドでもない。
“どこでもない”に、繋がっている感覚。
それが一番近い表現だった。
結局、わからなかった。
“なにか”を信じたわけじゃない。
でも、開けてしまった。
それが俺の答えだった。
◇ ◇ ◇
俺は、扉をくぐった。
「あなたが選ばなかった世界」
扉の向こうで、雪はそう言った。
「選ばなかった……?」
それってつまり、俺がこの世界を選べた可能性もあったってこと?
あるいは、すでに選んでいたのか。
そんなはず、ない。
けれど、今ここに俺はいて、猫が普通に喋って、奏が笑って、チョコがパンケーキを焼いている。
俺は“選ばなかった世界”を、覗いてしまった。
ふと、ポケットに手を入れる。
2つのキーホルダーが指に触れた。
ぬいぐるみのように見えるが、
中には、人の心の波を感知して安定させる仕組みを組み込んだ、極小の機械。KOMORI。
――そう、“仕組み”だった。
元々は、芽衣のために作ったもの。
扉をくぐったら、それはただの小さなぬいぐるみだった。奏にひとつ渡したのはただ「なんとなく」だ。それがいいと思った。
この世界に似合わないくらい、小さな“デバイス”。仕組みは機能しないただのぬいぐるみ。
けれどもしかしたら、これは俺にとっての“鍵”だったのかもしれない。
もうひとつ、ポケットの底に指先が触れる。
USBスティック。
使い古してラベルが消えかけている。
過去のログ、データの塊、設計と記録と証明――これこそが、俺の世界だった。
この中には、いろんな世界を再構成できる材料が詰まっている。
これさえあれば、どこにいたって俺は“構築者”でいられる。
だけど――
「……どっちが、俺の“鍵”なんだろうな」
答えは出ない。
けれど、それでいい。
“正解”なんか、ここにはいらない。
俺は、たぶん――
“選ぶ”ことができる。
ランプの灯りがふわりと揺れた。
この場所で、あの日とは違う時間が流れている気がした。
俺は、ポケットの中のふたつの鍵を確かめる。
キーホルダーと、USB。
選んだものが、扉を開ける。
そしてそれは、いつだって“もう一つの物語”への入り口だ。
選ばなかったはずの世界に、ふと立っていることがある。
そこは、現実よりも曖昧で、なのにどこよりも自分らしくいられる場所かもしれない。
創にとっての“鍵”は、機能を失ったぬいぐるみか、それとも自分を証明するUSBか。
答えは出ない。でも、彼は選んだ。
鍵が開くのは、扉だけじゃない。
――それは、まだ見ぬ物語の入口だった。




