第24話 まだ、終わってない気がして
「夢は終わったと思っていた。でも、“終わってなかった”と気づくときがある」
第2章ラストは、かつて絵を描いていた青年が来店。
奏自身も“ここにいること”の意味を再確認します。
それはゴールではなく、通過点かもしれない
午後の雨がようやく上がったころだった。
店の扉が、カラン、と音を立てて開く。
「……こんにちは。ひとり、いいですか」
顔を上げた奏の視線の先には、スケッチブックを抱えた青年が立っていた。
肩にかかった少し湿った髪、視線は店内をゆっくりと見渡している。
「どうぞ。奥の席があたたかいですよ」
促すと、青年は小さく頭を下げて歩き出した。
その背中が通り過ぎるとき、ふわりと、画用紙の乾いた匂いが香る。
席についた青年は、窓の外に目をやって言った。
「……ここ、前にも来たことがある気がするんです」
「そうなんですか?」
「いや、たぶん……夢の中です。似てるだけかもしれないけど」
奏は「それ、よく言われます」と微笑んだ。
この店には、不思議と“前から知っていたような気がする”と言う人が多い。
そんなときは、深く聞かない。きっと、それでいいのだ。
「ミルクグレーのラテと、未完成スコーン。いかがですか?」
「……未完成?」
「ちょっとだけ、焼きムラがあるんです。けど、ちゃんとおいしいです」
「……じゃあ、それで」
そう言って青年は、スケッチブックをそっと膝の上に置いた。
ラテとスコーンが運ばれてくると、青年はゆっくりと手を伸ばした。
ラテには、途中まで描かれた葉っぱのラテアート。
スコーンは、かすかに崩れた片側が愛らしい。
ひとくち口にして、彼はふっと笑った。
「ちゃんと、おいしいですね。完成してなくても」
「“途中”には途中の味わいがありますから」
「……そうですね」
しばらく沈黙が流れたあと、青年がぽつりと話しはじめた。
「絵を、描いていたんです。ずっと昔。高校生のころまで」
「……今は?」
「まったく。別の仕事をしてます。忙しくて、描く余裕なんて……って言い訳ですけどね」
カップのふちに視線を落としながら、彼は続けた。
「最後に描いてた一枚があるんです。途中まで描いて、どうしても完成できなかった。
色が乗らなくて……何度も描き直して、結局、手を止めてしまった。
それ以来、筆を持つのが怖くなったんです」
奏は黙って聞いていた。
目の前の青年が、過去を握りしめながら話すその声の、かすかな震えを。
「最近、ふと思い出すんです。
あの絵、誰かが待ってたような気がするって」
「誰かが、ですか?」
「……勝手な思い込みかもしれないけど。
あれを完成させていたら、誰かのもとに届いてたんじゃないかって。
だけど、もう遅い。昔の自分じゃないし、今さら描いても……意味なんて、ない」
青年の言葉に、奏は少しだけ目を伏せた。
「……でも、あのころの自分も、今のあなたも、どっちも本物なんじゃないですか?」
青年が、顔を上げる。
「描きたくて描いてた頃も。描けなくて離れてた時間も。
それを“意味がなかった”って決めつけるのは、少しもったいないかも」
「……そう思いますか」
「ええ。だって、今日こうしてここに来てくれたってことは、
どこかで“もう一度描いてみたい”って思ってたからじゃないですか?」
青年は目を伏せ、しばらく沈黙した。
「……そうかもしれない。描く夢を手放したつもりだったけど、
たぶん……“保留”してただけなんですね」
窓の外では、雨あがりの光が淡く石畳を照らしている。
青年はそっとスケッチブックを開いた。
最後のページには、途中まで描かれた風景の鉛筆線。
空白のまま、ずっと閉じられていたその余白に――
彼は一本の線を、ゆっくりと引き足した。
会計のあと、青年はカウンターの横で足を止めた。
振り返って、少し照れたように笑う。
「……これ、よかったら」
差し出されたのは、スケッチブックの一枚。
描かれていたのは、店内の風景だった。
やわらかな光のさす窓辺。カウンター。
そしてその奥に立つ、少し驚いた表情の少女――奏の姿。
「……すごく、素敵です」
「さっき、ここに入ってきたときに、描きたいって思ったんです。
……久しぶりに、ね」
それだけ言うと、青年はスケッチブックを抱えて扉のほうへ歩いていった。
「ありがとう。また来ます」
カラン――。扉の音が、やわらかく響く。
店に戻った奏は、そっと描かれた自分の絵に触れた。
あの日、置いてきたもの。
もう届かないと思っていた何か。
でもそれは、“終わっていた”のではなく、
“いったん止まっていた”だけなのかもしれない。
ランプの明かりが、ふわりと灯る。
「奏、いい顔してるにゃ。奏の色、足してみたら?」
ミルキーがカウンターにぴょこんと跳び乗って、覗き込んでくる。
「……わたし、絵なんて描けないよ」
「でも、いつか見てみたいにゃ。
奏が見てる景色。どんな色してるのか、気になるにゃ」
「……わたしも、ちょっとだけ気になってきた」
窓の外では、晴れた空に小さな雲が流れていた。
“ここ”が居場所であること。
でもそれが、すべてじゃないこと。
“まだ、終わってない気がする”
それは、始まりの予感とよく似ていた。
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本日のメニュー
•ミルクグレーのラテ(ラテアート:途中の葉っぱ)
•未完成スコーンとメープルクリーム(少し崩れた焼き目)
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
今回は“置いてきた夢”“未完成のもの”がテーマ。
奏と来店者、どちらも“まだ進める”と感じたお話になれば嬉しいです。
次回からは第3章。奏が「自分の道」を少しずつ意識し始めます。
その前に、1本だけ、番外編を挟む予定です。お楽しみに




