第23話 なつかしいやつ、ひとつ
今日は、ちょっと不思議な来店者がやってきます。
猫が、なぜかお客として来店。
ロコさんの語る“なつかしい朝”に、ちょっぴり切なく、ふわっと温かい気持ちになっていただけたら嬉しいです。
その日の午後は、不思議なくらい穏やかだった。
風はなく、陽の光は柔らかく、店内にはほのかにバニラの香りが漂っていた。
奏は窓辺のテーブルを拭きながら、少しだけぼんやりしていた。
午前の喧噪がすっと引いて、今は静けさだけが残っている。
「……ん?」
カラン。
店の扉が開いた。
それだけでも少し珍しい音だった。誰かがゆっくり丁寧に開けたような、控えめな“カラン”。
「こんにちは……あら」
思わず奏は声をあげた。
入ってきたのは――猫。
小柄で、つややかな毛並み。少し気取ったような、でもどこか品のある佇まい。
見覚えがある。間違いなく、ある。
「あなたは、ロコ……さん?」
その猫はくるんと尻尾を振って、にこっと笑ったように目を細めた。
「今日はね、お客さまなの。ちゃんと接客してね?」
一瞬、耳を疑う。しゃべった。でも、そんなことよりも、
ロコが――いや、猫が、客としてやってきたことの方がずっと衝撃的だった。
「あ……はい。こちらへ、どうぞ……」
窓際の、いつもの席。
だが今日は、彼女――いや、“その猫”が主役だった。
ロコはふわりと椅子に乗り、背筋をぴんと伸ばして座った。
「えっと……ご注文は?」
ロコは少し首をかしげた後、くすっと笑う。
「“なつかしいやつ”、ひとつ」
「……なつかしいやつ?」
不思議そうに聞き返した奏の後ろから、厨房の奥で声がした。
「それ、オーダー通ってるにゃ」
チョコだった。
小さなフライパンにミルクを注ぎながら、得意げに言う。
「焦がさないようにするの、ちょっとコツがいるんだ。ロコさん、久しぶりだね」
「ふふ。ちゃんと覚えててくれて嬉しいわ」
ロコは、カウンターの奥に視線を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「このお店の匂い……あちら側の、朝の匂いに似てるのよ。パンの焼けるいい匂い。くすぐったい匂い」
「“あちら側”って……?」
「ふふ、それは、秘密」
ほんのり焼けたパンの香りが漂ってきた。
トーストが一枚。絶妙なきつね色。
バターが溶け、シナモンの粉がふわっと舞う。
添えられたポタージュは、やさしい豆とミルクの味。
一緒に出されたのは、ハチミツとほんの少しのブルーベリージャム。
どれも、どこか懐かしい。
「はい……どうぞ、“なつかしいやつ”です」
奏がトレーを置くと、ロコは軽く会釈してから、パンを見つめた。
食べるわけではない。けれど、そこにあるだけで十分なのだと、そんな表情だった。
「住んでた部屋があってね。朝になると、必ずこのパンを焼いてくれたのよ」
「その人……って」
「雪よ。……あなたが知ってる雪じゃないかもしれないけど」
ロコは、カップにそっと口をつけた。
「ミルクが、ちゃんと温かい」
その言葉が、なぜか胸にしみた。
静かに、時間が流れていく。
やがて、ロコは椅子の上で身を丸めるようにして、ぽつりと言った。
「……あ、そうだ。雪の秘密、ひとつだけ教えてあげようか?」
「え?」
奏が目を丸くする。
「靴をね、よく間違えるの。3回くらい、左右ぜんぜん違う靴を履いていっちゃったことがあるのよ。でもね、『しかたないわね』って言って、そのまま馴染ませちゃうの。そういうとこ、変わってないのね」
くすくすと笑うその様子に、奏も思わず笑ってしまった。
「あとでこっそり聞いてみて?」
「……はい。聞いてみます」
ロコは立ち上がり、しっぽを揺らしながら扉の方へ歩いていく。
その途中で、一瞬だけ振り返った。
「また来るわ。今度は、もっと大事なことを伝えに」
そして、カラン、と音を立てて扉が開いた。
扉の向こうに、クロエがいた。
ロコとすれ違いざま、クロエはふっと目を細めた。
「ふふん、まさか来るは思わなかったにゃ」
「……あの猫、写真に写ってたんですよね。あちら側の……」
「にゃにかの鍵になるかもにゃー」
クロエはそれだけ言って、店内に入ってきた。
奏はもう一度、あの“なつかしいやつ”の匂いが残るテーブルを見つめた。
――この世界と、あちら側。
ロコは、その境界を越えて、来てくれたのかもしれない。
そして、雪の知らない一面が、そこには確かにあった。
誰かの朝、誰かの記憶、誰かのぬくもり。
ふと、カウンターの奥に視線を向けると、雪が戻ってきていた。
「ただいま。……何かあった?」
「いえ、何も……」
奏は、そっと笑った。
「――雪さんって、靴、間違えたことあります?」
雪は、一瞬だけ間をおいて、にやりと笑った。
「ロコね……あの子、やっぱり喋った?」
答えになっていないようで、全部が答えだった。
店の奥で、チョコが鼻を鳴らして言った。
「ロコさん、相変わらずカッコいいなぁ……」
店の空気が、ほんのり甘くて、ほんのりあたたかかった。
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本日のメニュー
・“なつかしいやつ”セット
‐ 焦がしトースト(ミルクパン)
‐ シナモンバターとハチミツミルク
‐ 豆のポタージュ
‐ 小さなブルーベリージャム添え
最後までお読みいただきありがとうございます。
猫にも「お客でいたい日」があるかもしれない。そんな思いつきから書いたお話です。
ロコさんが語った雪の“秘密”……かわいい秘密でした
そしてあの写真の中に写っている“扉の向こう”が少しずつ形になってきました。
次回も、ふんわりお楽しみに。




