第20話 ふたつの世界を、歩いてきた靴で ──雪の語り
扉の音がしたとき、私はちょうどランプに火を灯していた。
夜の店内。客は帰り、猫たちは思い思いの場所でまどろんでいる。
ミルキーはクッションの上、レーズンはガラス戸越しに夜を見つめていた。
火を灯すとき、私はよく思い出す。
最初に“あちら側”の扉が開いた日のこと。
仲間と夢を語り、走っていたあの頃とはまるで違う、静かな時間が流れる世界。
それでも不思議なことに、どちらも確かに“私の記憶”だ。
あちらで誰かに背中を押され、
こちらでぬくもりに救われた。
私はその“あいだ”にいる。
ふたつの世界を行き来しながら、どちらにも属さず、それでも確かにここにいる。
最初の予兆は——あの靴だった。
中学生のとき、一目惚れした黒いヌバックの靴。
ショーウィンドウの前に何度も立ち、迷いながらもお小遣いを貯めて買った一足。
重たくて、少し背伸びのデザイン。
でも履くたびに自分の形に馴染んで、やっと「自分の足で歩いている」と思えた。
夢に近づいたときも、誰かに裏切られた夜も、
仲間と喧嘩して泣いた夜も、
その靴は、ずっと私の足元にあった。
そして、初めて“あちら側”の扉を見つけたときも——
大人になっても、それは捨てられずにしまっていた。
ヒールは削れ、革は色褪せていたけれど、大切なものだった。
……でも、ある日、彼が間違って処分してしまった。
怒るよりも、泣きたくなって、
けれど私は笑ってごまかした。
しばらくして手元に届いたのは、その靴を模した小さなチャームだった。
「……これは“鍵”?」
今、それは私のネックレスにぶら下がっている。
触れるたびに、記憶が静かに蘇る。
あの雨あがりの路地、灯りの奥にあった木の扉。
そしてクロエの声——「こっちにおいでにゃ」
私はあの靴で、あちら側の世界に足を踏み入れた。
「シャラン」
カウンターの上で、クロエの首輪の鍵チャームが揺れた。
私はふと、自分の靴のチャームに触れる。
——扉が、また開いた気がした。
見えない誰かが来る前に、もう一度、ランプに火を灯しておこう。
この場所は、誰かが選ばなかったもうひとつの扉の先にあるのかもしれない。
でもここで、誰かを待つ時間も、私の人生の一部だ。
棚の上には写真がある。
焚き火を囲む仲間たち——創、川崎、彼、そしてみんな。
もう一枚は、カーテンの向こうで並ぶクロエと私の後ろ姿。
誰が撮ったのかは、わからない。
でもどちらも、“私”の記憶。
ふたつの人生を、私が歩いてきた靴がちゃんと覚えている。
——世界は、少しずつ重なろうとしている。
そんな予感がするのだ。
もしあのとき、違う靴を選んでいたら?
もし扉を開けなかったら?
時々そんなことも考える。
でもひとつだけ——
選ばなかったからこそ、出会えたものもある。
だから私は、今日もこの場所で、そっと扉の音を待っている。
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本日のメニュー
•雨上がりのスチームコーヒー
ハーブとスモークが香る、深い余韻の一杯。
•黒いナッツのビスコッティ
古い革靴のような色。少し硬くて、じんわり甘い。




