鍵の章②ようこそ、こちら側へ (川崎視点)
ねこやには、ふたつの世界があるらしい——。
焚き火の夜に“残っていたほう”の男、川崎の視点でお届けします。
そこにいた雪は、ほんとうに、あの雪なのか。
カウンターに差し出されたコーヒーが、彼に伝えたものとは——。
ささやかだけど確かに、
ふたつの世界が、重なりはじめます。
焚き火の音だけが、夜に滲んでいた。
創が立ち去ったあと、俺はしばらくその場に残っていた。
雨上がりの裏庭。空気はまだ湿っていて、焚き火の煙がゆっくりと空に溶けていく。
ずっと、走ってきた。
誰かの言葉に怒り、期待に応え、背中で守ってきたつもりだった。
振り返る暇もなかったけど——それでも、すべてに後悔がないと言えば、嘘になる。
でも、今ここにいることは、間違いじゃない。
そう思って、もう一度、火に薪をくべようとしたそのとき——
「カラリ」
乾いた、やけに響く音が背後でした。
振り返ると、そこにあるはずのないあの扉が、半分だけ開いていた。
「……なんなんだ、あれは」
壁のはずだったレンガに埋め込まれるように、佇んでいる古びた木の扉。取っ手は鈍く光る真鍮。
そして、目の前に黒い影が現れる。
クロエだった。
俺の足元で立ち止まり、くるりと尾を振った。
「くるんだにゃ?」
「……誰が導いてくれなんて言った?」
そう呟いたのに、クロエはもう、扉の向こうへ消えていった。
俺は一度だけ深く息を吸い、そして、歩を進めた。
—
扉をまたいだ瞬間、空気が変わった。
湿り気のある夜が、どこか霧がかった静寂へと転じる。
あたりは見慣れたようで、どこか違う、異国のような店内。
静かで、やわらかい光に包まれている。
カウンターの奥に、雪がいた。
でも、少し違う。
彼女は髪を下ろし、白いランプのような服をまとっていた。
いつもよりも、ずっと静かで、近寄りがたい空気。
「ようこそ。こちら側へ」
「……ここは、なんだ」
「“あちら側”のねこやよ。あなたが選ばなかった方の、もう一つの扉よ」
その言葉に、胸の奥が、少しだけざわめいた。
俺が、選ばなかった方の——。
ふと、雪が微笑み、カウンターの椅子を軽く指差した。
「まあ、座ったら? コーヒーでいいかしら」
「……そういうのは変わないんだな」
俺は小さく笑って、促されるまま腰を下ろす。
静かに湯気の立つカップ。
香りは同じなのに、どこか記憶の奥をくすぐる。
「ここには、見えなかったものが映るの」
「……たとえば?」
雪は返事をせず、代わりに棚の上に飾られた一枚の写真を指差した。
焚き火を囲む3人。
白いシャツの青年と、猫を抱いた少年と、スーツ姿の女——
それは、過去のようで、未来のようで、そして確かに俺の記憶と重なる何かだった。
「……いつの、写真だ」
「さあ、いつかしら。でも、今もあの場所にあるわ。たぶん、まだ鍵はしまってない」
クロエが、カウンターの上に飛び乗った。
首輪についた鍵チャームが、静かに——シャランと揺れる。
「選ばなかった方の世界にも、灯りは残ってるにゃ。」
俺は、手の中のカップを見つめた。
その温もりは、今いる世界と、選ばなかった世界とを、静かに繋いでいた。
—
その頃、どこか別の場所。
奏が眠る枕元に、再び、小さな銀色の鍵が転がる。
今度は、淡い紐がついていた。
——ふたつの世界が、また少し、近づいていた。
⸻
本日のメニュー
•黒糖とカルダモンの焚き火ブレンドコーヒー
•金色のスプーンで食べる、小さな燈のガトー
「あちら側」からの風景を、川崎視点で描いてみました。
普段は寡黙で実務派な彼だからこそ、
“言葉にならない感覚”を抱えたまま、扉をくぐる姿がとても印象的になったと思います。
再び奏の鍵の描写も少しだけ。
ふたつの世界がゆるやかにリンクしている感覚を、楽しんでもらえたらうれしいです。
そして——
「クロエって、やっぱり何者?」




