番外編 焚き火の夜に、思い出したこと
学校キャンプから戻った奏が、焚き火の夜に出会った“創”という人物について、ふと考えを巡らせるひととき。
ねこやのちょっと不思議な雰囲気と共にお楽しみください。
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放課後のねこやは、あたたかい空気で満ちていた。
いつものように扉を開けると、カラン――と優しい鈴の音が鳴る。
迎えてくれたのは、ランプの灯りと、ミルキーのしっぽ。クロエはカウンターで丸くなっている。
「おかえり、奏ちゃん」
雪さんの言葉が、心にしみた。
キャンプから戻ったばかりで、少し疲れていたのかもしれない。
「ただいま、です」
カウンター席に腰を下ろすと、ハーブの香りがそっと包んだ。
その香りに混じって、ふと焚き火の夜のことを思い出す。
——あの夜、火を囲んで座った、あの人。
(……創さん、だったっけ)
名前も顔も、どこか曖昧なまま。
でも、不思議と、印象だけは鮮やかに残っていた。
火の揺らぎに照らされた横顔。
静かで、でも、どこか懐かしいような、あたたかい気配。
「火って不思議だよね」
「たぶん、それが“居場所”ってことなんじゃないかな」
その言葉を思い出すたびに、胸の奥がやわらかくなる。
でも、よくよく考えてみると、少しだけ奇妙だった。
——どうして、あの人が、キャンプの会場にいたんだろう?
私はそっと、白い猫のキーホルダーを指でなぞる。
「……ねえ、雪さん。あのね、キャンプのとき……」
創さんの話をしようとしたその瞬間、雪さんはティーカップを差し出して微笑んだ。
「今日は、スモーキーアールグレイ。焚き火の余韻にぴったりでしょ?」
やんわりと、話題を変えられた気がした。
でもその仕草が、やさしくもあって、問いかけるのをやめた。
私はカップを受け取り、一口。
火を通した果物みたいな、甘く燻された香りが舌に広がる。
「ここは“いくつもの場所”とつながってるにゃ」
いつの間にか、クロエが隣の椅子に座っていた。
鍵のついた首輪をシャランと鳴らしながら、丸い目で私を見つめてくる。
「その人も、別の場所から来たのかもしれないにゃ」
「……別の場所?」
「居場所って、にゃんにもひとつじゃない。気づくと、誰かのそばにいたり、気づかぬうちに見守られてたりするのにゃ」
それはまるで、“創”という人の存在そのものみたいだった。
私は、自分の中でその人の記憶を辿る。
何を話したか、どんな声だったか、もう鮮明には思い出せない。
けれど、その場にいたという確かなぬくもりだけが、胸に残っている。
——あの人は、幻だったのかな。
——それとも、ほんとうに、ねこやの“誰か”なのかな。
そういえば、初めてここを訪れた日のことを思い出す。
あのときも、カウンターに誰かが座っていたような……?
雪さんがそっと言った。
「人は、自分の目で見たものしか信じられないこともあるけれど……心が覚えてるってことも、あるのよ」
私はうなずいた。
「……また、会える気がします。」
「きっと、“また会おう”って思ってるのは、あっちも同じにゃ」
クロエがそう言って、鼻をすんすんさせたあと、カウンターの上に飛び乗った。
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帰り際。
カップの下に、何か小さな紙片があることに気づいた。
「……え?」
そこには、手書きのメッセージがひとこと。
「鍵は、扉が必要としたとき、音を立てる」
——たぶん、クロエの仕業。
私は紙を大事に折って、キーホルダーのポケットにしまった。
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その夜。
キャンプでもらった写真データを何気なく開いていたときのこと。
焚き火を囲んだ集合写真の、すみのほう。
光の加減で少しぼやけているけれど——
(……あれ?)
私の後ろに立っているスタッフの男性。
その顔が、川崎さんとどこか似ている気がした。
——でも、服装が違う。
——それに、誰もその人のことを話題にしていなかった。
気のせいかもしれない。
でも確かに、写真のその人も、どこかを静かに見つめていた。
私はそっと画面を閉じた。
ねこやの扉は、たぶんまだ、ほんの少ししか開いていない。
その向こうに、どんな人たちが待っているのか。
私は、少しだけ楽しみになった。
本日のメニュー
・スモーキーアールグレイ
——焚き火の余韻を思わせる、燻香をまとった紅茶。時間と記憶をゆっくりと解きほぐす。
・キャンドルビスケット(小さな炎のかたち)
——そっと灯りをともすように、誰かの記憶に寄り添う小さなひとしな。
あの夜、焚き火のそばで出会った“創さん”は本当にいたのでしょうか。
それとも、奏の心が見た、何かのかけらだったのでしょうか。
少しずつ明らかになるねこやの秘密——次の鍵は、どこで音を立てるのでしょうか。




