鍵の章①「扉の向こう、光が差すとき」 (語り手:創)
鍵の章について
ねこやには、もうひとつの扉があるらしい。
けれど、それが誰にでも“見える”わけではない。
この「鍵の章」は、
ふとしたきっかけでその扉に触れてしまった者たちの——あちら側の物語。
ふだん私たちが見ているねこやとは、少しだけ違う。
時間がずれていたり、記憶が重なっていたり、
選ばれなかったはずの「もしも」が灯る場所。
どうか、ここでは耳を澄ましてお静かに。
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あの夜、俺たちは「知ってしまった」。
こちら側と、あちら側。
ねこやには、どうやら世界が、ふたつある。
雪さんは、あの日も、何も言わなかった。
ただそこにいて、
クロエは、俺たちがようやく気づいたことに、満足そうに目を細めていた。
それだけのことなのに、
心の奥で、何かが静かに軋んだ。
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焚き火の夜だった。
雨上がりの夜。
いつもの仕事終わりに、川崎さんとふたり、ねこやの裏庭で焚き火を囲んでいた。
言葉は少なかった。
炭のはぜる音と、コーヒーの湯気が、夜気の中に溶けていく。
「なあ、創」
「ん」
「……俺たち、どうしてここまでやってこれたんだろうな」
川崎さんがふいにこぼした声は、薪の音よりも小さかった。
俺は少しだけ目を細めて、焚き火を見つめた。
「たぶん、ここがあったから」
「ここ?」
「……雪さんが、いたからさ」
思い返せば、戦場だった。
日々、どこかで優しさを分けすぎていたのかもしれない。
気づかぬうちに、どこかが削れて、でもそれでも止まれなかった。
でも、——雪さんは、灯りを絶やさなかった。
あの灯りがあったから、俺たちは、続けられた。
——そのときだった。
「カラ……」と、焚き火とは違う音が混じった。
乾いた、木の戸のような、小さな音。
ふたりして顔を上げた。
店の裏手のレンガの壁。その中に……なかったはずの扉が、現れていた。
「……おい、あれって……」
川崎さんが低く息をのんだ。
古びた木の扉。取っ手は真鍮で、ほんの少しだけ開いていた。
向こうには、霧のような空気。そして、ほのかに灯るオレンジの光。
その前に、黒い尾をふるクロエが、もう座っていた。
まるでずっとそこにいたように。
「なんだ、これ……ずっと、あったか?」
それは、俺の問いというより、
自分への確認のようだった。
そのとき、扉の向こうから、ひとりの影が現れる。
白いシャツに、ロングコート。
髪を下ろし、薄暗い光の中に佇むその人は——雪さんだった。
彼女はゆっくりと歩いてきて、焚き火の灯りの中に立つ。
表情は読めなかった。でも、ほんの一瞬、微笑んだようにも見えた。
「開いたのね。思ったよりずっと早かったかしら」
「……知ってたのか、こんな扉があるって」
「ええ。でも、この扉を開くのは、“見えるようになった人”だけよ」
雪の声は静かで、でも不思議な響きを持っていた。
まるで、ずっと昔からそこにいた観測者のように。
川崎が、唇を引き結ぶ。
「……俺たちに、見えたってことか」
「そのようね」
クロエが、ふいに振り返って鳴いた。
「ふたりとも、も、ようやく見えたのにゃ。……ここからにゃ」
俺たちは無言で扉の向こうを見つめた。
そこには、うっすらとした店のような景色。
でも、ねこやとは違う。少しだけ、時間のズレた世界。
「……あれも、ねこや?」
「“あちら側”の、ね。あなたたちが選ばなかった方の、もう一つの扉」
雪さんの言葉に、ふと、胸がざわついた。
あの頃、もし違う決断をしていたら。
誰かと違う道を歩いていたら。
そんな「もしも」が、扉の向こうで光になって揺れていた。
「ようこそ、もうひとつのねこやへ」
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その頃、別の場所。
夜。寝息を立てていた奏が、ふと目を覚ます。
夢の中で、誰かの声を聞いた気がした。
窓の外に、一瞬だけ、ランプのような灯りが揺れる。
そして、枕元に——銀色の小さな鍵が転がっていた。
「……夢、かな。でも、なんだろ。……知ってる気がする」
少女はそっとその鍵を手に取った。
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再び、焚き火の前。
川崎さんが、ふうっと煙を吐くようにして言った。
「俺たち……これからも、あれが見えるのか?」
「さあ。でも、もう……気づいちまったしな」
俺はそう言って、焚き火に薪をくべた。
クロエが、尾をゆらして言う。
「ふたつの世界が、少しずつ動きはじめたにゃ」
灯りは、静かに揺れていた。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
鍵の章、ひとつめの物語はここまでです。
あちら側のねこやには、まだ誰の足跡もついていません。
でも、きっとこれからも——
ふとした拍子に、扉が“開いてしまう”ことがあるのでしょう。
もしもあなたが、いつか何かの気配を感じたなら。
それは、もう始まっているのかもしれません。
どうかそのときは、そっと鍵を——ポケットの中を、探してみてくださいね。




