第16話 かつて、旅に出た理由
少しずつ、奏の日常にも変化が見えはじめた第2章。
今回は、かつての「ねこやの旅人」が再び訪れ、奏に“逃げること”と“帰ること”の意味を語ります。
誰かの言葉や忘れものが、また別の誰かの旅路を照らす。そんな連鎖を、そっと描いてみました。
少しずつ、世界が柔らかくなった気がする。
季節が変わりはじめたからかもしれないし、わたしの気持ちが、ちょっとだけ軽くなったせいかもしれない。
学校では相変わらずひとりの時間が多いけど、誰かとすれ違ったときに、目が合えば会釈とか小さく手を振ったり、ひと言ふたこと言葉を交わしたりすることが増えた。ねこやのお客さんとは、ちょっと秘密を共有してるみたいで、楽しい。
それだけで、ちょっと楽になるんだって知った。
今日も、制服のまま「ねこや」に立ち寄る。
ドアを開けると、あたたかな紅茶の香りと、ほのかなハーブの香りがふわりと迎えてくれた。
「おかえり」
カウンターにいた雪さんが、ふっと微笑む。
“いらっしゃいませ”じゃなくて、“おかえり”って言われるのが、どうしてこんなに心に染みるんだろう。
「最近、顔つきが変わったわね」
お茶の準備をしながら、雪さんが言った。
「そう見えます?」
「うん。春が来た、って感じ」
思わず照れてうつむいたとき、棚の上でカサカサと音がした。
見ると、ミルキーがいつのまにか紙袋をあさっている。
「だめだよ、ミルキー。そこ触っちゃ」
言いながら近づくと、ミルキーはくるりと振り返って、紙の束の中から何かをくわえてぴょんと飛び降りた。
まるで「これが必要なんでしょ?」とでも言いたげな顔で、カウンターの端にそれを置く。
「なあに?それ……」
入ってきたのは、大きめのリュックを背負った、年上の女性だった。
ショートカットに旅先のようなワンピース。土埃をはらったようなジャケット。
「あら」
雪さんが声を上げた。
「……久しぶりね」
「うん。ただいま」
「旅の帰り?」
「そんな感じ」
ふたりの会話に、わたしは思わず聞き返した。
「知り合いなんですか?」
「ええ。……この子も、旅人だったのよ」
女性はラベンダーミルクティーとスコーンを頼み、奥の席に座った。
わたしがそっとお茶を運ぶと、彼女はやさしく礼を言って、窓の外を見つめたままスコーンをちぎる。
「ここ、変わってないんだね」
「前にいらしたんですか?」
「うん、ずっと前に。大学生のとき。何もかもうまくいかなくて、逃げるようにこの店に来てた」
「……逃げる?」
「そう。いろんなことからね。親の期待とか、失恋とか、自分自身からも。
でも、ここに来ると、誰かが“今のままでいいよ”って言ってくれる気がして。
そんな店だった。今も、変わらないんだね」
わたしは頷いた。
「はい、たぶん、そうかも」
「アルバイト?」
「……はい。奏っていいます。高校生です」
「奏ちゃんか。……わたしは楓。
旅して、いろんな場所を巡ったけど、最後に思い出すのは、なぜかこのカフェだった」
彼女の目元に、ふと揺れるものが見えた気がした。
「旅って、どうでしたか」
「最初は自由で、どこまでも行ける気がした。
でも途中で気づくの。“どこへ行っても、自分からは逃げられない”って」
その言葉に、わたしは少しだけうなずいた。
「……なんかわかります。学校にいても、ひとりでも、どこにいても、自分って自分なんですよね」
楓さんは、スコーンのかけらを拾いながら笑った。
「その“自分”にちゃんと出会えるまで、旅は必要だったのかも」
そのとき、ミルキーがまたぴょこんと現れて、さっきの紙の束を彼女の前に置いた。
古びた小さな手帳だった。革の表紙に金色の文字が少しだけ残っている。
「……これ」
楓さんが目を見開く。
「わたしの、だ。忘れてた……」
手帳の中には、旅先のスケッチや、そのとき感じたこと、
そして“ねこや”で交わした会話のメモ。最後のページには、こう書いてあった。
「ここに戻ってきたら、伝えたい言葉がある」
楓さんは、それを読んで、そっと手帳を閉じた。
「たぶん、その言葉……まだちゃんとは見つかってないけど」
彼女は立ち上がり、カウンターに戻った。
「雪さん、これ、世界中で集めたお茶。少しだけど、お土産に」
差し出したのは、色とりどりの小さなティーバッグの詰め合わせだった。
雪さんは目を細めて、それを受け取る。
「ありがとう。また“旅人”が来たときに、出すわね」
「ねえ、奏ちゃん」
帰り際に、楓さんがふと振り返った。
「旅に出る理由と、帰ってくる理由って、いつも同じじゃないんだよ。
でも、“帰る場所”があるってわかると、人はやっと歩き出せるんだと思う」
わたしはその言葉を、胸の奥で繰り返した。
「それあなたにあげる、旅のお守り」
そう言い残して、ドアが閉まったあと、カウンターの隅で、クロエがのびをして言った。
「逃げるのは弱さじゃないにゃ。帰る勇気があるのが、強さにゃ」
その日の夜、わたしは制服のポケットの中に、小さなチャームが入っていることに気づいた。
それは、彼女がくれた星の形をした旅のお守りだった。
“今いる場所を、大事にしたい”って、初めて思った気がした。
本日のメニュー
•スイーツ:ローズヒップのジャムを添えたスコーン(懐かしい味と旅の途中を感じさせる)
•ドリンク:ラベンダーミルクティー
(落ち着きと再出発を感じさせる香り)
楓さんのように、誰にも言えない気持ちを抱えて遠くへ行きたくなる瞬間って、ありますよね。
でも、どこかに「ただいま」って言える場所があるだけで、人は少しだけ強くなれるのかもしれません。




