第15話 恋のスパイス
ねこやでは、ときどき不思議なことが起こります。
誰にも言えない気持ちが、ふと誰かの言葉にすくわれるような——そんな、ちいさな奇跡のような時間。
今回のお客さまは、秘密を抱えたひとりの女の子。
甘い焼き林檎と、猫のささやき。
そして、少しだけ過去を知っているらしい大人の男性が登場します。
秘密は、黙っているだけじゃなくて。
ときには、誰かと「味わってみる」ものかもしれません。
日が暮れる少し前、ねこやの空気はほんのりシナモンの香りに包まれていた。
焼き林檎のタルトがちょうどオーブンから出てくるタイミングで、カウンターの奥では奏がカモミールラテのミルクを温めていた。
「お、いい匂いだな」
突然の声に、奏は一瞬手を止める。
顔を上げると、背の高い男性がドアの前に立っていた。コートの襟を軽く立て、目元にはどこか疲れと優しさの入り混じった光があった。
「えっと……このあいだもいらしてた…?」
「お、覚えててくれたのか。川崎だ、よろしくな。名前は?」
「奏です。朝日 奏。ここでアルバイトを始めました」
「そっか、雪もふわふわしてるから、相手するのも大変だろ」
微笑む彼の足元に、茶トラの猫がすり寄っていった。
「ナッツ……あれ? 懐いてる」
「こいつは俺の膝、気に入ってたんだ」
川崎は笑いながら、ナッツを抱き上げる。ふわふわの毛がシャツにまとわりつくのを気にするでもなく、ナッツはそのまま彼の腕の中で喉を鳴らしていた。
──
カウンターでコーヒーを受け取った川崎が一息ついた頃、カラン、とドアのベルが鳴った。
入ってきたのは高校生くらいの眼鏡の女の子だった。破られた参考書を抱え、制服のポケットには折れたシャープペン。
「……あの、あったかい飲み物ありますか?」
「はい。ミルク多めのカモミールラテなんか、どうですか?」と奏。
「それ、ください。甘いやつも、なにか……」
「焼き林檎のタルト、焼きたてです。シナモン、ちょっと効かせてます」
「シナモン……それで、お願いします」
彼女はまるで、自分の疲れをごまかすように微笑んで、奥の席に腰を下ろした。
──
注文を届けたあとも、彼女はしばらく黙っていた。
スプーンでタルトの端を崩しながら、ふと奏に視線を向ける。
「あぁ、美味しい。……なんか、誰にも言えないことって、ありません?」
「あります、ねぇ」
奏は素直にうなずいた。
「誰かに言ったって、どうしようもないし。言ったら変に思われるのも嫌だし。でも、黙ってるのもちょっと罪悪感?」
「うん、なんとなく」
奏は、できるだけ声を低くした。でも、どこか彼女は楽しそうだった。
眼鏡を外して、結んでいた髪をほどく。
「でも、あえて言わないままの方が深くなることって、あるのかも。……このタルトのシナモンみたいに、隠し味。あ、まあ隠れてないけど。今なら、ちょっとした優越感っていうか」
その瞬間、足元を白い小さな影が通り過ぎた。
ミルキーだった。彼女の膝元に来て、ぴたりと座り、じっと見上げている。
「……かわいい」
彼女が手を伸ばすと、ミルキーは何も言わずに、そのまま腕の中に丸まった。
「この子……喋った?」
「え?」
「今、なんか“そのままでいいにゃ”って……聞こえた気がして」
奏は驚いて、すぐにカウンターの端に佇むクロエに目を向けた。
クロエは一度、ゆっくりと瞬きをすると、小さくつぶやいた。
「誰にも言わない秘密って、ちょっと甘いにゃ」
「……やっぱり喋ってる?」
奏は思わず確認したが、クロエはすでに目を細めて伸びをしていた。
「ふふ、そういうことにしときます」
彼女がふっと笑った。
「疑われて、嫌がらせもされるけど……今なら、それもスパイスだって思えるかも」
少し軽くなった足取りで、彼女は店を後にした。
──
奏はカウンターで、帰った彼女のカップを片づけながらつぶやいた。
「秘密って……ずっと黙ってたら、苦しくならないのかな?」
不意に漏らした問いに、川崎は少し考えてから言った。
「さあな。秘密の種類にもよるだろ。でもな、あの子みたいに特別な誰かと共有できたら、それは──まあ、恋ってやつかもな」
ナッツが、まるでそれに賛成するように川崎の肩に前足をかけた。
「この子も、秘密の恋を知ってるんでしょうか」
「さあね。でも――」
川崎はふと視線を奥の扉に向ける。
そこには、いつの間にか立っていた雪が、こちらを見ていた。
「過去の秘密ってのは、時々思い出すくらいがちょうどいいのさ」
雪は何も言わず、ただ静かに笑っていた。
その目はまるで、言葉にしなくても、すでに“恋のスパイス”を知っているようだった。
本日のメニュー
焼き林檎のシナモンタルト
ほんのり温かく、香り高い。隠し味のシナモンが、ほのかに心の奥を温める。
ミルクたっぷりカモミールラテ
疲れた夜にぴったりの、包み込むような一杯。気づかれたくない気持ちにも、そっと寄り添うような味。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回の「恋のスパイス」は、ふとした秘密と、それを抱える心のやわらかい部分を描いてみました。
本当は伝えたかったのに、言えなかったこと。
黙っていたからこそ、大切にできたこと。
ねこやの猫たちは、そんな言葉にならない気持ちに、そっと寄り添ってくれる存在です。
次回も、放課後のどこかでお会いできますように。




