第9話 それでも「ありがとう」を言いたい
この世界は、言えなかった「ありがとう」であふれているのかもしれません。
今回は、中学生の少年の視点から、小さな勇気と後悔、そしてその先の一歩を描いています。
猫たちのふとした行動が、心に波紋を広げてくれる、そんな回になればと思います。
お姉ちゃんとはつい最近まで一緒に暮らしていた。でも今は、別々の場所に住んでる。事情は説明できない。説明したくない。
いつも守ってくれたのに、ちゃんと「ありがとう」って言えなかった。
言わないまま、離れた。
今さら言っても遅い気がして。
それでも、たぶん、言いたい。
***
「にゃっ」
レーズンっていう猫が、ぴょんと僕の前に現れて、ぬいぐるみみたいに丸まった。
なんとなく手を差し出したら、ふわっと尻尾でくすぐってくる。
「……遊んでほしいの?」
そう言うと、レーズンはまんざらでもない顔で、猫じゃらしを咥えて引きずってきた。
振ってみると、すごい勢いで追いかけてくる。小さくて、毛がふわふわで、でも目は鋭くて、かっこいい。
しばらく無言で一緒に遊んでたけど、不意にレーズンが何かを咥えて持ってきた。
テーブルの上に「ぽとっ」と落ちたそれは、紙で包まれたチョコクランチだった。
「……え?」
包みには、こう書かれていた。
『ありがとう』
ドキリとした。たったそれだけなのに、胸がいっぱいになる。
言われたことなんて、なかったから。
***
「ホットココア、お待たせしました」
優しい声がして、目の前にカップが置かれる。
温かくて、甘い香りがする。
「レーズンに気に入られたみたいだね」
奏、という名の高校生の子が、笑いかけてくる。
この不思議な猫カフェ『ねこや』で出会った、不思議な雰囲気の人。
バイトかな?お店の人じゃなさそうだけど、お手伝いしてるみたい。おすすめとか教えてくれる。
「……このチョコのメッセージ誰が書いたんだろう?レーズン?」
「それはね、わからないんだよね。でも、不思議と、その時の気持ちに合う言葉が入ってるんだって」
「……魔法みたいだね」
「うん。『ねこや』って、ちょっとだけそういう魔法みたいな場所かもしれないね」
奏はそう言って、ミルキーという白い子猫を抱き上げた。
「……誰かにありがとうって、言えないまま離れたことってある?」
僕がそう尋ねると、奏は一瞬だけ目を伏せた。
「あるよ。昔、仲のよかった友達に。……いや、親友だった子に」
「親友……」
「大事なこと、何も言えないまま、疎遠になった。今でもたまに思い出すよ。言えていたらなにか変わっていたのかな、って」
「でも、今さら……って思っちゃう」
「うん。でもね、クロエが言ってたんだ。『伝えたいなら、今でも遅くないにゃ』って」
「猫が?」
「うん。不思議でしょ。でもここでは、時々そういうことが起きる」
不思議。だけど、ここではそれが不思議じゃなくなる。
***
「僕ね、お姉ちゃんと暮らしてたんだ。ひとりぼっちにならないようにずっと一緒にいてくれて」
「うん」
「毎日、お弁当つくってくれて、迎えに来てくれて、でも……ある日、突然、引っ越すことになって。僕はお父さんの方に引き取られて、お姉ちゃんとは突然会えなくなった」
「……それは、辛かったね」
「うん。別れるとき何にも言えなかった。ありがとうも、ごめんも、嫌だも。何も言えずに離れた」
手のひらのチョコクランチを見つめながら、僕は呟く。
「たぶん、言いたかったんだ。ずっと、言いたかったのに」
奏は黙って聞いてくれていた。泣いてなんかない。でも、目の奥が熱かった。
「じゃあ、書いてみる?」
「え?」
「このチョコクランチのメッセージみたいに。伝えたい一言を」
僕は、うなずいた。
***
店の隅の小さなテーブルで、小さな紙をもらって、ペンを持つ。
何度も何度も、書いては消して、最後に、こう書いた。
「ありがとう。たぶん、ずっと守ってくれてた。僕は気づいてなかったけど」
その小さな手紙を、チョコクランチと一緒に小さなプレゼントにしてくれた。
これ、お姉ちゃんに届けよう。
***
店を出るころ、夕日がオレンジに変わっていた。
レーズンが窓辺から僕を見ている。奏が、小さく手を振った。
「また来ていい?」
「もちろん」
帰り道、僕はずっとポケットの中の包み紙を握っていた。
レーズンからもらった『ありがとう』って書かれた、小さな魔法のチョコの包み紙。
伝えられなかった言葉を、ようやく少しだけ、前に進めた気がした。
***
それから数週間後。
僕は、もう一度『ねこや』を訪れた。
そして、その隣には、
お姉ちゃん。
お姉ちゃんと一緒にチョコクランチを食べた。
「ここのチョコクランチだったのね…」
奏が用意してくれたホットココアはすごく優しい味がした。
今日のメニュー
ありがとうのチョコクランチ
ホットココア
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「ありがとう」が言えないまま時間が過ぎてしまうことって、きっと誰にでもあるんじゃないかなと思っています。
この物語が、どこかで誰かの「一歩目」になるきっかけになれば嬉しいです。
今回は来店者視点でお届けしました。次回は、また別の誰かの“放課後”を描いていきますね。
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