嵐の夜の決意と、一つの終焉
その夜、王都ヴェリディアには、低い雷鳴が轟き、激しい雨が降り注いでいた。嵐は、まるでレオンハルトとロザリアの関係の終焉を予感させるかのようだった。
グランヴィル公爵邸の応接間は、普段の華やかさを失い、重苦しい空気に満ちていた。レオンハルトは、いつもの黒い宰相服ではなく、簡素な仕立ての外出着に身を包み、公爵夫妻とロザリアを前に、冷静な表情で座っていた。
「グランヴィル公爵夫妻、そしてロザリア令嬢。本日は、我々の婚約について、改めてお話しに参りました」
レオンハルトの言葉は、まるで商談を切り出すかのように淡々としていた。
「かねてより申し上げている通り、アストライア王国は深刻な財政危機に直面しており、私の職務は、その解決に全力を傾けることにあります。私には、貴族の華やかな社交に時間を割く余裕も、ましてや、一人の女性に寄り添う心のゆとりもありません」
公爵夫人が顔を曇らせた。ロザリアは、感情を押し殺した表情で、レオンハルトを見つめている。
「ロザリア令嬢には、貴族の社交を円滑に進め、私の不在を補う役割を期待しておりましたが、どうやら、その期待に応えることは難しいようです」
レオンハルトは、一切の感情を込めずに、ロザリアが茶会でセレスティーナに行った振る舞いを間接的に批判した。
「また、私の研究は、国家の最高機密に関わるものであり、その内容を外部に漏らすことは許されません。ロザリア令嬢の言動は、その点において、看過できないものでした」
ロザリアの顔色が変わった。彼女の父であるグランヴィル公爵が、不機嫌そうに咳払いをする。
「宰相閣下。ロザリアの至らぬ点については、わが家が責任をもって指導いたします。しかし、婚約の破棄は、グランヴィル家だけでなく、宰相閣下にとっても大きな不利益になるかと。王室からの信用問題にも発展しかねません」
公爵は、あくまで政略結婚としてのメリットを説き、レオンハルトの決意を揺るがそうとした。
「不利益は承知の上です」
レオンハルトの声は、変わらず冷静だった。
「ですが、私は、国の未来を担う職務に全力を尽くすため、何よりも効率を重視します。感情やしがらみで判断を鈍らせるわけにはいきません。そして、その点において、私とロザリア令嬢の間に、溝が生じてしまったことは否めません」
そして、彼はロザリアをまっすぐに見据えた。
「ロザリア令嬢。貴女の才覚と美貌は、貴族社会の模範となるべきものです。しかし、私の目指す道とは、異なるようです。貴女には、貴女を真に理解し、貴女の望む未来を共に歩める、別の良縁があるはずです」
それは、レオンハルトなりの、最大限の配慮を込めた、婚約の破棄宣言だった。
ロザリアは、震える唇を固く結んだ。彼女の目に、これまで見せたことのない、強い感情の炎が燃え上がっていた。それは、屈辱と、そして深い憎悪の炎だった。
「……レオンハルト様!」
彼女は、立ち上がると、レオンハルトに詰め寄った。
「なぜ、そこまで私を拒絶なさるのです!?あのオルレアンの地味な女のために!?わたくしは、あなた様のためならば、何でもすると申し上げたではありませんか!アストライアの未来は、わたくしとあなた様の手にこそあるべきですわ!」
ロザリアの美しい顔は、怒りと嫉妬で歪んでいた。
「私は、あなた様の隣に立つに相応しい存在ですわ!あの女など、何の価値もない、ただの貧乏貴族の娘ではありませんか!」
彼女の叫びに、レオンハルトは眉一つ動かさなかった。
「貴女の愛情には感謝する。だが、私が求めているのは、個人の感情ではない。国の未来を共に見据え、共に戦うことができる者だ。そして、セレスティーナ・オルレアンは、その能力において、誰よりも国の未来に貢献できる存在だ」
レオンハルトの言葉に、ロザリアは絶望と憎しみが入り混じった表情で、一歩、後ずさった。
「能力……?あの女の、何だというのです……!?」
彼女の瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。
「レオンハルト様……いつか、後悔させてみせますわ……必ず、あなた様の選択が、間違っていたことを思い知らせてさしあげます……!」
ロザリアの悲痛な叫びは、雷鳴にかき消されることなく、部屋の中に響き渡った。
グランヴィル公爵夫妻は、その場の雰囲気に耐えきれず、顔を真っ青にして俯いていた。
婚約は、正式に破棄された。
公爵邸を後にするレオンハルトの表情は、どこか吹っ切れたようにも見えたが、その瞳の奥には、新たな戦いへの決意と、そしてロザリアへの複雑な感情が入り混じっているようだった。
激しい雨の中を、レオンハルトの魔導馬車は進む。彼の心の中には、セレスティーナの顔が浮かんでいた。
彼女を守るために、彼は一歩を踏み出した。そして、その一歩は、彼自身の閉ざされた心を開くきっかけにもなるだろう。
その頃、オルレアン邸では、セレスティーナが眠れぬ夜を過ごしていた。
ロザリアの言葉が、耳から離れない。「レオンハルト様の隣に立つに相応しい存在」。
自分は、本当にレオンハルトの隣に立つに相応しいのだろうか。彼の負担になるだけではないのか。
そんな不安な気持ちが渦巻く中、窓の外では、雷鳴が轟き続けていた。
突然、窓の外に、見慣れた魔導馬車の紋章が見えた。レオンハルトの馬車だった。
セレスティーナは、慌てて階下へ駆け下りた。
馬車から降り立ったレオンハルトは、雨に濡れて、顔色がいつもより青白く見えた。
「レオンハルト様……!」
セレスティーナは駆け寄った。
「大丈夫ですか?体調でも……」
「問題ない」
彼は、短く答えた。そして、セレスティーナをまっすぐに見つめる。
「セレスティーナ。ロザリアとの婚約は、正式に解消した」
その言葉に、セレスティーナの胸に、安堵と、そして今まで感じたことのない温かい感情が広がった。
「これからは、何も遠慮することなく、国のために貴女の力を尽くしてほしい。貴女の全てが、この国の未来だ」
彼の言葉は、もはや「協力」というビジネスライクなものではなかった。それは、彼女への信頼と、そして共に歩むことへの、静かな、しかし確かな誘いだった。
セレスティーナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、嬉し涙でもあり、彼が背負った重荷への共感の涙でもあった。
「はい……レオンハルト様。私にできること、全てを尽くします」
彼女は、心からそう誓った。
嵐の夜は、一つの終焉を迎え、そして、二人の新たな物語の始まりを告げていた。
その日から、セレスティーナは、公的な「特別古文書調査官」として、レオンハルトと共に、国の未来を切り拓くための、本格的な一歩を踏み出すことになる。