夜明け前の星と、宰相の孤独
禁書庫での共同作業が始まって数週間が経った。
セレスティーナは、毎日図書館に通い、レオンハルトの指示に従って古文書を読み解いた。彼の指示は厳密で、時には徹夜に近い作業を強いられることもあったが、不思議と苦ではなかった。むしろ、これまで古文書を読み解くことが唯一の楽しみだった自分にとって、その知識が国の未来に繋がるかもしれないという事実に、新たな生きがいを感じ始めていた。
レオンハルトは相変わらず冷徹で、感情を露わにすることは滅多になかった。彼の言葉は常に論理的で、無駄がなかった。セレスティーナの能力が発動しない時も、決して苛立ちを見せることはなく、淡々と次の手を指示するだけだった。
だが、その冷徹さの裏に、セレスティーナは時折、彼の人間的な一面を垣間見るようになった。
例えば、セレスティーナが集中しすぎて古文書の隅で眠り込んでしまった時。彼は決して起こさず、上着をそっとかけてくれたことがあった。あるいは、彼女が読み解いた古代の歴史について、目を輝かせて語る時、彼は真剣な眼差しで耳を傾け、時にはわずかに口元を緩めることがあった。
ある日の深夜。王立図書館の書庫は、アルバス老司書と彼らの二人きりだった。アルバスは、二人のために夜食と温かい飲み物を用意し、奥の私室で休んでいた。
レオンハルトは、窓の外を見上げていた。王都の夜景は、魔導灯の光でぼんやりと輝いている。
「……夜明け前の星は、最も美しく輝く、と祖母が言っていた」
不意に、レオンハルトが呟いた。セレスティーナは、彼が個人的な話をすることに驚き、思わず彼の横顔を見つめた。
「最も闇が深い時に、星は輝きを増す。それは、希望の光だと」
彼の声は、いつもの冷徹な響きではなく、どこか遠い過去を懐かしむような、寂しさを帯びていた。
「アストライアは、今、夜明け前なのだろうか」
レオンハルトの視線は、虚空を見つめているようだった。その瞳には、彼が背負う途方もない重圧が、はっきりと見て取れた。
「財政の立て直し、貴族社会の腐敗。これらも重大な問題だが、真の危機は、魔力の枯渇にある。この国は、その繁栄を古代の魔術に依存してきた。それが失われれば、全てが崩壊する」
彼の言葉は、もはや宰相としての職務を語る以上に、彼の心からの叫びのように聞こえた。
「私は、この国を救いたい。祖母が愛した、このアストライアを」
レオンハルトの硬質な表情が、その瞬間、一瞬だけ、かつて少年だった頃の純粋な夢に満ちたものに変わったように見えた。彼は孤独だった。国の全てを背負い、誰にも頼ることなく、一人で戦い続けている。その重圧が、彼を冷徹な宰相へと変えたのだ。
セレスティーナの胸に、かつてないほどの感情の波が押し寄せた。それは、彼への共感であり、彼を支えたいという強い衝動だった。
——この人は、この国を心から愛しているのだ。
彼の冷徹な言動の奥に隠された、純粋で、情熱的な「願い」に触れた瞬間だった。
「レオンハルト様……」
そう呼びかけた声は、なぜか震えていた。
その時、セレスティーナの首元の星の紋章ペンダントが、熱く、そして力強く脈動し始めた。
彼女が座っていた場所の床に、淡い光の紋様が広がる。それは、どこかで見覚えのある、しかし、より複雑で精緻な魔法陣のようだった。紋様は瞬く間に周囲を照らし、禁書庫全体が、まるで古代の祭壇と化したかのように、神秘的な光に包まれた。
「これは……!」
レオンハルトが驚きに目を見開く。前回とは比べ物にならないほどの、強く、安定した光だった。
光の中で、セレスティーナの意識は急速に引き込まれていく。
彼女の目の前に広がったのは、かつて幻視で見た、星が瞬く大天文台だった。しかし、今回はもっと鮮明で、まるでその場に立っているかのような感覚に襲われた。
ローブをまとった人々が、祈るように両手を広げ、天の運行を読み解いている。彼らの指先から、あるいは額から、淡い光の糸が空へと伸び、星座の形をなす。それは、魔力そのものだった。
人々は、ただ星を「読む」だけではない。星と「対話」し、その力を地上へと「呼び下ろしている」のだ。
彼女は、その光景の中に、一人の女性の姿を見た。漆黒の髪に、どこかセレスティーナに似た面差しを持つ、威厳と知性を兼ね備えた女性。彼女は、魔法陣の中心に立ち、夜空に向けて両手を広げた。
すると、天空の星々から、何千何万もの光の粒が降り注ぎ、地上に描かれた魔法陣へと吸い込まれていく。魔法陣は輝きを増し、その光は大地深くへと浸透し、まるで生命の源のように脈打つ。それは、失われた「星詠みの魔術」が、いかにしてこの国に魔力を供給していたのかを、明確に示していた。
女性の声が、直接セレスティーナの心に響く。
――「星は、枯れない魔力の源。人の想いが、星の光を導く。そして、星は、真実の道を示す」
だが、その声は、次の瞬間、悲鳴へと変わった。
突然、空に描かれた魔法陣がひび割れ、星々からの光が乱れ始める。大地が揺れ、空中の都市が傾く。人々は恐慌に陥り、光の魔法陣はみるみるうちに濁り、歪んだ。
――「憎悪が、星を覆い隠す……!」
女性の声が途絶え、光景は一瞬で闇に包まれた。
セレスティーナは、はっと我に返った。全身に冷や汗が流れ、息が荒い。
禁書庫は、光を失い、再び静寂を取り戻していた。床に描かれた光の紋様も消えている。
ただ、レオンハルトだけが、彼女をまっすぐに見つめていた。彼の瞳には、これまでの冷徹さだけでなく、驚きと、そして確かな希望の光が宿っていた。
「オルレアン令嬢……今、何が見えた。何を感じた?」
レオンハルトの声は、焦りとも期待ともつかない、微かな興奮を帯びていた。
セレスティーナは、震える手でペンダントを握りしめた。脳裏に焼き付いた映像と、女性の言葉が、彼女の心を激しく揺さぶっていた。
「見えました……失われた『星詠みの魔術』が、この国に魔力をもたらしていた光景が……そして、それが、なぜ失われたのかも……」
セレスティーナの言葉に、レオンハルトの目が大きく見開かれた。
それは、彼が何年も追い求め、掴みきれずにいた「真実」への、決定的な一歩だった。
レオンハルトの表情から、冷徹な仮面が剥がれ落ちたように見えた。彼はセレスティーナに一歩近づくと、彼女の肩にそっと手を置いた。その手は、冷たかったはずなのに、不思議と温かく感じられた。
「セレスティーナ……」
初めて、彼は彼女を呼び捨てにした。そして、その呼びかけには、宰相としての命令ではなく、一人の人間としての、純粋な感謝と、確かな信頼が込められていた。
二人の間に流れる空気が、目に見えない絆によって結ばれていく。それは、国の未来を巡る、過酷な旅路の始まりでもあった。