禁書庫の共同作業と、近づく距離
禁書庫での共同作業は、セレスティーナが想像していたよりも、遥かに地道で骨の折れるものだった。
毎日、セレスティーナはオルレアン家を抜け出し、王立図書館の裏口から禁書庫へと通った。母には、図書館の司書アルバスに古文書の知識を学ぶためだと説明し、許しを得ていた。ラ・ヴァリエール男爵との縁談は、レオンハルトが「国の重要な機密調査に関わらせるため」という理由で、一旦延期させていた。その言葉の重みに、オルレアン家も口を挟めない状況だった。
禁書庫での時間は、レオンハルトの主導で進められた。
「オルレアン令嬢。次は、この書だ。『アストライア創世記』の一部とされているが、未解読の部分が多い」
レオンハルトは、セレスティーナの前に分厚い羊皮紙の書物を置いた。書物には、古びた星の紋様が刻まれている。
セレスティーナは、書物に手を触れた。ペンダントが微かに温かくなるが、前回のように強烈な光や幻視は現れない。
「何も……」
「焦るな。貴女の能力は、単に触れるだけでは発動しないようだ。特定の条件下、あるいは特定の書物や場所に強く呼応する。特に、精神的な動揺や強い感情が伴うと、発動しやすいようだが……それでは不安定すぎる」
レオンハルトは、無表情に分析する。彼の目的は、あくまでセレスティーナの能力を「制御」し、「利用」することなのだと、改めて突きつけられる思いだった。
「私が必要としているのは、再現性のある、安定した『記憶の継承』だ。古代の技術や魔法、そして国の真の歴史を正確に把握しなければならない」
彼らは、禁書庫の膨大な書物を前に、一つ一つ検証作業を繰り返した。レオンハルトは、効率的な調査方法や文献の分類法を指示し、セレスティーナはそれに従って書物を読み込み、自身の身体に起こる変化を報告する。
アルバス老司書は、二人の間に立ち、時には古代の魔法に関する知見を、時にはセレスティーナの体調を気遣う言葉を差し挟んだ。彼は、セレスティーナが経験する「記憶の継承」が、かつて彼自身が研究していた「星詠みの魔術」と酷似していることを知っていた。
ある日、セレスティーナは、以前幻視を見た書物『アストライア古記』を再び手に取った。
「記憶の継承」は起こらない。
「……どうして、あの時はあんなにもはっきりと……」
セレスティーナは呟いた。あの時の強烈な体験は、今も鮮明に覚えている。
「貴女がラ・ヴァリエール男爵との縁談に追い詰められ、この禁書庫に、自身の現状を変えたいという強い感情を持って飛び込んだ時だ」
レオンハルトが、冷徹な分析で答えた。
「感情の波が、能力発動のトリガーとなる可能性は高い。しかし、それでは予測不可能すぎる」
「予測可能……」
「そうだ。魔術とは、再現性のある法則によって成り立つものだ。貴女の能力も、例外ではないはずだ」
レオンハルトはそう言いながら、セレスティーナの近くに座り、彼女が手にしていた書物を覗き込んだ。彼の指先が、偶然にもセレスティーナの指先に触れる。
一瞬、セレスティーナの体が強張った。彼の指は、少しだけ、温かかった。
普段は冷徹で無感情に見えるレオンハルトだが、時折、彼が示す細やかな気遣いや、知的な好奇心に触れる瞬間があった。
例えば、セレスティーナが集中しすぎて時間を忘れていると、彼は静かに温かい紅茶を差し出してくれた。あるいは、読み解いた古代文字の解釈について議論する際、彼女の意見にも真摯に耳を傾けた。
「オルレアン令嬢の考察は、興味深い。私も新たな視点を得た」
そんな彼の言葉に、セレスティーナは密かに喜びを感じた。社交界では常に地味で目立たない存在だったが、ここでは、彼女の知識と能力が、誰かの役に立っている。それが、彼女の心を少しずつ満たしていった。
しかし、レオンハルトの関心はあくまで、セレスティーナの能力と、そこから得られる「情報」に向けられている。
「オルレアン令嬢。貴女の能力は、まさに『記憶の継承者』という表現が相応しい。もしそれが、失われた星詠みの魔術の根幹に関わるものならば、それは我々が抱える魔力枯渇の問題を解決し、この国を再び繁栄へと導く道となる」
彼の言葉は、常に国の未来、国の繁栄を指し示していた。私利私欲は一切感じられなかった。
それは、セレスティーナには理解できないほど、遠く、壮大な目的のように思えた。彼女の心は、ラ・ヴァリエール男爵との縁談を避けることと、自身の能力の謎を解き明かすことで精一杯だった。
ある日の午後、禁書庫での調査中、セレスティーナはふと、レオンハルトの顔を盗み見た。
彼は、古文書を広げた机に俯き、集中して読み込んでいる。その横顔は、彫刻のように精悍で、どこか孤独な雰囲気を漂わせていた。
(……彼は、いつも一人なのだろうか)
完璧なまでの有能さゆえに、周りに誰も近づけないのか。それとも、彼自身が、誰かを近づけることを拒んでいるのか。
彼が常に纏っている冷徹な鎧の下に、どんな感情が隠されているのか。セレスティーナは、知りたいと、ふとそう思った。
その日の夕方、セレスティーナは自宅に戻ると、母ベアトリスから意外なことを聞かされた。
「セレスティーナ、ラ・ヴァリエール男爵との縁談、完全に白紙になったわ」
「え……?」
セレスティーナは目を丸くした。レオンハルトは延期と言っていたはずだ。
「どうやら、宰相閣下が男爵に直接お話しになったらしいわ。オルレアン家は国の極秘プロジェクトに深く関わることになり、セレスティーナはしばらく嫁がせることはできない、と。その上で、今後オルレアン家の財政は、国から直接支援するという約束を取り付けてくださったそうよ!」
母は興奮冷めやらぬ様子で、顔を紅潮させていた。
「なんという名誉!宰相閣下直々に我が家を支援してくださるとは!セレスティーナ、あなたは我が家の恩人よ!」
セレスティーナは呆然とした。レオンハルトが、そこまでしてくれるとは。
これで、ラ・ヴァリエール男爵との結婚から、完全に解放されたのだ。
喜びと安堵がセレスティーナの胸を満たしたが、同時に、ある疑問が胸に浮かんだ。
(彼は、私に何の貸し借りも作らない、と言っていたはずなのに……)
彼の行動は、あくまで合理的な「協力」の一環なのか。それとも、そこに、何か別の感情が込められているのだろうか。
翌日、禁書庫でレオンハルトに会った時、セレスティーナは勇気を出して尋ねた。
「宰相閣下……ラ・ヴァリエール男爵との件、本当にありがとうございました」
「当然のことだ」
レオンハルトは、顔色一つ変えずに答えた。
「貴女の能力を最大限に活用するには、精神的な負担が少ない方が望ましい。私にとって、それは効率的な判断だ。それと、今後は『レオンハルト』と呼び捨てにして構わない」
彼はそう言うと、いつものように書物へと目を落とした。
セレスティーナは、彼が差し伸べた手を、再び握り返すことはできなかった。彼の言葉は、あまりにもビジネスライクで、彼の真意を読み解くことはできなかった。
だが、彼の言葉と行動の間に、確かな温かさが、確かに存在していることを、セレスティーナは感じ取っていた。
禁書庫での共同作業は、ただの知識の探求だけでなく、二人を取り巻く壁を、少しずつ溶かし始めていた。