ロザリアの眼差しと、宰相の目的
禁書庫の厳かな空気に、ロザリア・グランヴィル公爵令嬢の登場は、不調和な音色を響かせた。彼女の纏う深紅のドレスは、薄暗い書庫の中で、あまりにも鮮やかだった。
「あら、レオンハルト様。こんな所にいらしたのですね。ずっとお探ししておりましたわ」
ロザリアは甘い声でそう言いながら、レオンハルトの腕にそっと手を絡ませた。その視線は、わずかな間、セレスティーナを射抜いた。その目は、獲物を品定めするような、あるいは獲物を捕らえた獣のような、冷たい光を宿していた。
「グランヴィル公爵令嬢。禁書庫は一般の立ち入りが制限されている」
レオンハルトは腕を絡ませたロザリアの手を振り払うことなく、しかし淡々とした声で答えた。その声には、親密さのかけらもなかった。
「申し訳ございませんわ。でも、レオンハルト様がいつもお一人で熱心に研究なさっていると伺いまして、お体をお案じして……」
ロザリアは優雅に微笑んだ。その完璧な笑顔の裏に、セレスティーナへの明確な敵意が隠されているのが、セレスティーナにははっきりと分かった。
「それに、そちらの地味な方は、どちら様でいらっしゃいますの?まさか、このような神聖な場所に、見慣れない方がいらっしゃるなんて」
地味な方。その言葉が、セレスティーナの胸に刺さった。それは、社交界で何度も聞かされてきた言葉だった。
「オルレアン家のセレスティーナ令嬢だ。私とアルバスが、とある古文書の調査において、彼女の協力を仰いでいる」
レオンハルトは簡潔に説明した。彼はセレスティーナの「能力」については一切触れず、あくまで「古文書の協力者」という表面的な説明に留めた。
「まあ、オルレアン家の方で?最近、お見かけしないと思ったら……」
ロザリアの言葉はそこで途切れたが、その続きは「落ちぶれて社交界に顔も出せないのだろう」とでも言いたげだった。彼女はわざとらしく鼻で笑うと、セレスティーナを上から下まで値踏みするような視線を向けた。セレスティーナが抱えている古文書にも、一瞥をくれた。
「古文書の研究……?そのような堅苦しいことは、図書館の司書にでも任せておけば良いものを。レオンハルト様には、国の未来を担うもっと大切なご公務がおありでしょうに」
ロザリアの口調は、レオンハルトを気遣う優しさを装いながらも、セレスティーナへの侮蔑と、彼女がレオンハルトの隣にいることへの苛立ちを露わにしていた。
セレスティーナは、反論の言葉を見つけられずに俯いた。ロザリアの言葉は、まるで彼女がここにいること自体が、場違いで不適切だと糾弾しているようだった。
「グランヴィル公爵令嬢。研究に貴賤はない。そして、国の未来を担う公務だからこそ、私はここにいる」
レオンハルトの声が、ロザリアの言葉を遮った。彼の声は平坦だが、その中に有無を言わせぬ強い意思が込められていた。
「今日のところは、私一人にしていただきたい。この書庫は、外部に漏らしてはならぬ機密の書物が多数存在する。貴女に何かあれば、私としても困る」
それは、半ば命令に近い口調だった。ロザリアは不満げに口を尖らせたが、レオンハルトのその態度は、彼の婚約者であっても覆せないことを理解しているようだった。
「……分かりましたわ。では、失礼いたします。お夕食には、必ずわたくしとお越しくださいませね」
ロザリアは、名残惜しそうにレオンハルトの手を離すと、セレスティーナに一瞬、再び冷たい視線を投げかけ、そして優雅に身を翻し、禁書庫を後にした。
ロザリアの姿が見えなくなると、禁書庫には再び静寂が戻った。だが、その静寂は、先ほどまでの重厚なものとは異なり、張り詰めた緊張感を含んでいた。
セレスティーナは、ほっと息をつくと同時に、胸の奥に鉛のような重さを感じた。
(……私のような者が、レオンハルト様の隣にいてはいけないのだわ)
ロザリアの言葉は、セレスティーナの心に深く刺さっていた。完璧な美貌と地位を持つロザリアと比べれば、自分はあまりにも取るに足らない存在だった。
「気にすることはない」
レオンハルトの声が、セレスティーナの思考を遮った。
「彼女は、私の研究には関与させられない。だからこそ、ああいう態度を取る。貴女は、私が認めた協力者だ。自らの価値を低く見る必要はない」
彼の言葉は、感情を含まない、ただ事実を述べるだけのものだったが、セレスティーナの心を少しだけ温かくした。
「宰相閣下……」
「宰相閣下のおっしゃる通りです。セレスティーナ様」
アルバスが、穏やかな声で続けた。
「ロザリア様のようなお方が、禁書庫の埃臭い書物を読み解くなど、耐えられるはずもありません。貴女様の情熱は、他の誰にも真似できないものです」
アルバスの言葉は、セレスティーナに自信を与えようとしているかのようだった。
「それに、彼女は貴女様の、その、秘められた能力を知りません。知っていれば、ああいう態度では済まなかったでしょう」
レオンハルトは、アルバスの言葉に頷き、セレスティーナに視線を向けた。
「これからが本番だ。貴女の能力は、まだ不安定で危険性も孕んでいる。しかし、これを制御し、国の未来のために使うことができれば、我々はきっと活路を見出せる」
彼は書棚の奥から、真新しい羊皮紙と上質なインクを取り出した。
「貴女の能力は、『記憶の継承』だと言ったな。それは、触れた書物や物品から、そこに秘められた過去の情報を追体験する能力だろう。我々がまず取り組むべきは、貴女の能力の性質を理解し、それを安定させることだ。そして、禁書庫に存在する、古代文明に関する書物を一つ一つ精査し、貴女の能力で情報を引き出していく」
レオンハルトの言葉は、具体的で実践的だった。彼の目は、未来を見据えているかのようだった。
「私には、まだこの能力が何なのか、どう制御すればいいのかも分かりません……」
セレスティーナは不安を口にした。
「だからこそ、私が必要なのだ。貴女には、貴女にしかできないことがある。私には、貴女の能力を最大限に引き出し、この国を救う使命がある」
彼の言葉は、まさに国の命運を一身に背負う者の重みを感じさせた。
セレスティーナは、レオンハルトの揺るぎない決意に、背筋が伸びる思いだった。ラ・ヴァリエール男爵との結婚。それから逃れるため、彼女は禁書庫に飛び込んだ。だが、彼女が足を踏み入れたのは、個人的な問題から逃れるだけの場所ではなかった。それは、国の未来を左右する、壮大な計画の一端だった。
セレスティーナは、首元の星のペンダントを強く握りしめた。
凍えるような宰相の言葉。しかし、そこには確かに、彼女の人生に新たな意味を与えようとする力が宿っていた。
「……承知いたしました。私にできる限りのことを、させていただきます」
セレスティーナの瞳に、新たな決意の光が宿った。
こうして、没落寸前の貴族令嬢と、冷徹な若き宰相による、禁書庫での秘密の協力関係が、始まったのだった。その関係は、国の運命、そして二人の未来を、大きく変えていくことになる。