凍れる宰相の誘いと、覚悟の選択
禁書庫の重苦しい静寂が戻っていた。
膝をついたセレスティーナは、乱れる息を整えながら、レオンハルト・フォン・アウグストを見上げた。彼の瞳は相変わらず深く、その底知れぬ光は、彼女の心の奥底を見透かそうとしているかのようだった。
「……協力、とは、どういう意味でしょうか」
掠れた声で、セレスティーナは尋ねた。喉の奥がカラカラに乾いていた。
レオンハルトは一歩近づき、セレスティーナの目の前に屈んだ。その顔が間近に迫り、彼女は思わず身を硬くする。
「オルレアン令嬢。今の現象は、貴女が持つ特異な能力によるものと見受けられる。私が求めているのは、その能力と、貴女が読み解いてきた古文書の知識だ」
彼は淡々と、しかし一点の曇りもない声で告げる。
「アストライア王国は、今、危急存亡の淵にある。財政危機は深刻化し、長らく魔力の源とされてきた魔石鉱脈の枯渇も囁かれている。このままでは、国力は衰退の一途を辿るだろう」
セレスティーナは、彼の言葉を静かに聞いた。国の財政危機は、彼女の家が没落した直接の原因でもあった。
「私は宰相として、あらゆる手を尽くしている。だが、根本的な解決には至っていない。そこで、私は失われた古代の知識に目を向けた」
レオンハルトの視線が、セレスティーナの手元にある『アストライア古記』へ向けられた。
「禁書庫の文献を読み解くうちに、私はある仮説に辿り着いた。古くから伝わる『星詠みの魔術』とは、単なる言い伝えではなく、失われた強力な魔力供給の術、あるいは、この国の繁栄の真の源であったのではないか、と。そして、貴女の能力は、その『星詠みの魔術』を再興するための、鍵となる可能性がある」
彼の言葉は、あまりにも唐突で、そして壮大すぎた。国の未来を、自分の、たかだか古文書を読み解く程度の力に託すというのだろうか。
「ですが、私には、一体何ができると……」
「今、貴女が示したように、貴女は古代の記憶を追体験できる。それは、失われた情報を得る上で、何よりも確実な手段だ。禁書庫には、貴女の能力を覚醒させる触媒となりうる文献が多数存在する」
レオンハルトは、セレスティーナの瞳をまっすぐに見つめた。
「私は貴女の能力を最大限に活用し、古代の知識を解析する。それが、この国を救う唯一の道だと信じている」
その時、アルバス老司書がゆっくりと二人の間に歩み寄ってきた。
「宰相閣下のおっしゃる通りです、セレスティーナ様」
老司書は、これまで見てきた中で最も真剣な表情で、セレスティーナに語りかけた。
「かつて、アストライア王国の繁栄は、古代の魔術によって支えられていたとされています。宰相閣下は、その失われた知識を、貴女の力によって取り戻そうとされているのです」
アルバスは、セレスティーナの震える手にそっと触れた。
「その力は、貴女が生まれながらに持つ運命です。ラ・ヴァリエール男爵との縁談という、個人的な瑣末事に埋もれてしまうには、あまりにも惜しい」
瑣末事。確かに、国の未来に比べれば、セレスティーナ個人の政略結婚など、取るに足らないことかもしれない。だが、彼女にとっては、それが人生の全てを左右する問題だった。
セレスティーナは迷った。レオンハルトの言葉は、あまりにも冷徹で、彼女の個人的な感情など考慮していないように聞こえた。彼はただ、彼女の「能力」だけを求めている。だが、同時に、彼女を縛り付けていた現状から、唯一抜け出す道のように思えた。
ラ・ヴァリエール男爵との結婚を拒めば、家は完全に没落するだろう。だが、もしレオンハルトの協力を受け入れれば、自分の持つ「能力」に意味が与えられ、彼女自身も、この世界で何らかの役割を果たすことができるかもしれない。
何より、あの漠然とした「星の記憶」の追体験。それは恐怖であると同時に、彼女の知的好奇心を強く刺激するものだった。
レオンハルトは、セレスティーナの葛藤を見透かしたかのように、静かに付け加えた。
「もちろん、貴女には相応の便宜を図ろう。オルレアン家の財政支援、そして貴女の身の安全は、私が保障する」
彼はあくまで、取引の条件を提示するように言った。まるで感情が一切含まれていないビジネスライクな口調だったが、その言葉には確かに、セレスティーナを救うための約束が含まれていた。
セレスティーナは、覚悟を決めた。
「……分かりました。私にできることがあるのなら、協力させていただきます」
彼女の決意に、レオンハルトの表情が微かに緩んだように見えた。あるいは、それは彼女の錯覚だったかもしれない。
「では、今日から、貴女は私の、禁書庫における協力者となる」
レオンハルトは立ち上がり、セレスティーナに手を差し伸べた。その手は、冷たく、そして力強かった。
セレスティーナがその手を取ると、彼は彼女を立たせた。
「これから、貴女には定期的に禁書庫へ足を運び、失われた古代の文献を読み解いてもらう。特に、貴女の能力を活性化させる可能性のある書物について、重点的に調査したい」
彼は、すでに行動計画を立てているようだった。
「ただし、貴女の能力は非常に不安定だ。暴走すれば、貴女自身だけでなく、周囲にも危険が及ぶ可能性がある。私の監視の下で、慎重に進めていく」
その時、禁書庫の重い扉が、微かに軋む音を立てた。
開かれた扉の向こうに、一人の貴婦人が立っていた。華やかな深紅のドレスを身につけ、燃えるような金色の髪を高く結い上げた、完璧な美貌の持ち主。レオンハルトの許嫁、ロザリア・グランヴィル公爵令嬢だった。
彼女は禁書庫の様子を窺うように、一歩足を踏み入れた。そして、レオンハルトの隣に立つセレスティーナを見つけると、その顔に一瞬、険しい表情が浮かんだ。しかし、すぐに完璧な笑顔を貼り付けた。
「あら、レオンハルト様。こんな所にいらしたのですね。ずっとお探ししておりましたわ。それに、貴女は……オルレアンのご令嬢、でしたかしら?」
ロザリアの声は甘く、しかしその瞳の奥には、氷のような冷たさが宿っているのが見て取れた。
セレスティーナは、身構えた。新たな、そして予期せぬ試練が、目の前に現れたことを悟った。
冷徹な宰相との契約、そして、華やかな婚約者からの敵意。セレスティーナの新たな生活は、穏やかな読書とはほど遠い、波乱に満ちたものになるだろう。だが、彼女はもう、引き返すことはできなかった。