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くすんだ朝と、星の紋章

 その日も、セレスティーナ・オルレアンは、冷え切った自室で目覚めた。


 窓の外はまだ薄墨色で、アストライア王国の王都ヴェリディアに朝が訪れるにはもう少し時間があるようだった。分厚いカーテンの隙間から差し込むかすかな光が、埃の舞う室内をかえって際立たせる。屋敷はオルレアン家代々の居城であったが、維持する費用さえままならず、今はその威容も、かつての輝きも失いかけていた。壁紙は色褪せ、暖炉には何年も火が入っていない。


 セレスティーナは簡素な木製のベッドから身を起こし、古い毛布を肩にかけた。十八の誕生月を過ぎたばかりだが、同年代の貴族令嬢たちのような華やかさとは無縁の質素な装いと、やや細身すぎる体つきが、彼女の実情を物語っていた。社交界では「オルレアン家の地味な令嬢」と陰口を叩かれることもしばしばだが、彼女自身はそうした評価を気にする様子もなく、むしろ安堵している節があった。目立たぬことこそ、この貧しい現状においては最良だと考えているかのようだった。


 彼女の唯一の贅沢、それは父の書斎に残された古文書の数々だった。朝食前のわずかな時間も惜しんで、セレスティーナは書斎に籠もる。冷えた空気が鼻腔をくすぐるが、彼女はそれを厭わない。燭台のわずかな明かりを頼りに、羊皮紙に綴られた古代アストライア文字を指でなぞる。


「……『星は、過去を語る。そして、未来を指し示す』……」


 ぼそりと呟いたその言葉に、どこか既視感のようなものが伴う。古い魔法の記述だろうか。あるいは、失われた文明の残滓か。彼女の心は、常にそうした「古きもの」に惹きつけられていた。


 その日、セレスティーナの左胸では、首から下げたペンダントが冷たい光を放っていた。それはオルレアン家に代々伝わる、星の紋章が刻まれた銀色のペンダントだった。普段は服の下に隠れているが、時折、脈動するかのように熱を帯びる瞬間がある。

 ペンダントに触れると、指先に微かな振動が伝わった。一瞬、脳裏に古びた図書館の、何千冊もの書物が並ぶ棚の風景がよぎった。それは現実にはあり得ない光景だったが、妙に生々しく、セレスティーナは首を振ってその幻想を振り払った。


「また、疲れているのかしら……」


 朝食は、パンとスープ、それにわずかなジャムだけ。使用人は数えるほどしか残っておらず、給仕も全てが滞りがちだった。


「セレスティーナ」


 向かいに座る母親、ベアトリスが、心配そうな、しかしどこか諦めを含んだ目で彼女を見た。


「今日、ラ・ヴァリエール男爵が屋敷にいらっしゃるわ。あなたとのご縁談の話よ」


 セレスティーナの手が、カップの縁で止まる。ラ・ヴァリエール男爵。七十をとうに過ぎた、裕福ではあるが老獪な貴族。すでに三人の妻を亡くし、今も側室が数人いると聞く。オルレアン家の没落を食い止めるには、彼の莫大な財力が不可欠だと、母は何度も口にしていた。


「……はい」


 精一杯の平静を装って、セレスティーナは答えた。喉の奥に、苦いものがこみ上げてくる。古文書の世界に浸っている間は忘れられる現実が、こうして容赦なく彼女にのしかかってくる。


 昼下がり、ラ・ヴァリエール男爵が来訪した。彼の豪奢な魔導馬車が、錆びついたオルレアン家の門をくぐり、砂利道を軋ませながら進んでくる。馬車から降り立った男爵は、派手な装飾の杖を突きながら、セレスティーナを上から下まで品定めするような目で眺めた。


「ふむ、オルレアンのご令嬢か。噂に聞く通り、地味ではあるが、その目は悪くない。それに、古き良き家系の血筋だ」


 男爵の視線に、セレスティーナはぞくりとした。まるで、売りに出された商品を見定められているようだった。母は終始にこやかな笑顔を貼り付け、男爵の機嫌を取るのに必死だった。


「セレスティーナは、奥ゆかしく、読書を好む娘でございます。きっと、良き妻となることと存じます」


 母の言葉に、セレスティーナは思わず唇を噛んだ。読書を好む? それは、ただの暇つぶしではない。古文書に秘められた真実を探る、彼女にとっての唯一の情熱だった。しかし、そんなことは男爵には理解できないだろう。


 社交の場に出れば、彼女は常に影の存在だった。華やかなドレスを身につけた令嬢たちが、きらびやかな宝石を競い、流行の魔導具の話に花を咲かせる中で、セレスティーナはいつも人々の輪の外にいた。

 そんな中、最近、彼女たちの話題の中心は、一人の男性に集中していた。


「……レオンハルト・フォン・アウグスト様、ですってね」


 ある茶会で、セレスティーナの隣に座った伯爵令嬢が、まるで秘密を打ち明けるかのように囁いた。


「若くして宰相となられ、国の財政を立て直されているとか。あの冷徹なまでの手腕は、恐ろしいほどだわ」


「ええ、聞けば、次の公爵家当主になられるとか。それに、有力公爵家の令嬢と婚約される話も進んでいるとか……」


 レオンハルト・フォン・アウグスト。王都ヴェリディアの誰もが知る、若き天才宰相。彼は冷徹で近寄りがたい雰囲気を持ち、常に論理的思考を優先すると評判だった。国の財政危機を救うため、彼は貴族社会の腐敗を粛清し、時には血も涙もないような決断を下すという。

 セレスティーナにとって、彼はまるで別の世界の人間だった。自身がラ・ヴァリエール男爵との結婚を強いられているというのに、国の未来を担うような高位の貴族の婚約話など、あまりにも遠い世界の出来事だった。


 その日の夜、セレスティーナは眠れずに古文書を読んでいた。ラ・ヴァリエール男爵の顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。このままでは、自身の存在が、価値が、全てが、彼の側室の一人として埋もれてしまう。

 古文書の一節に目が止まった。


「……星の輝きが失われし時、記憶の継承者は現れる。失われた力を呼び覚まし、王国に真の光をもたらすだろう」


 その瞬間、ペンダントが熱く脈打った。セレスティーナの視界が歪み、書斎の壁が、瞬く間に光と闇の混じり合った奇妙な空間へと変貌した。耳の奥で、微かな声が聞こえる。それは風の囁きのようでもあり、遠い昔の歌声のようでもあった。

 幻聴?幻覚?

 セレスティーナは混乱し、ペンダントを強く握りしめた。すると、全ては元の書斎へと戻っていた。

 ただの気のせい、疲労。そう自分に言い聞かせるが、鼓動は激しく、手のひらにはペンダントの星の紋章がくっきりと残っていた。


 ――このままではいけない。

 ラ・ヴァリエール男爵との縁談が、彼女を奮い立たせた。自分に残された、唯一の場所。古文書の真実を追究することだけが、このまま埋もれていく人生を変えられるかもしれない。

 彼女は決意した。

 そうだ、王立図書館へ行こう。一般には閉鎖されているという禁書庫には、もっと古い、もっと深淵な知識が眠っているはずだ。

 それは、貴族令嬢としてはあるまじき、破天荒な考えだった。しかし、背水の陣に立つセレスティーナにとっては、唯一の希望の光に思えた。

 翌朝、彼女は一冊の古文書を抱え、ひっそりと屋敷を抜け出した。向かう先は、王都の中心にそびえ立つ、荘厳な王立図書館だった。まだ見ぬ運命の糸が、静かに紡がれ始めていた。

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