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第一話 朝食には毒林檎 その1




 生まれてすぐの記憶などあるのだろうか?

 シエナ・ウォートリーにはある。


 “いらない子”だと魔女は言った。

 “魔女”としかわからない。その顔も姿も声さえも記憶してない。


 ただあるのは言葉だけだった。

 そして魔女はきまぐれのように言った。


「“役立たず”の男の狐でも“一度きり”ならば使い道はあるかもね」




 その“一度”きりのためにシエナは生きている。生かされている。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 次の記憶は白い施設だったと思う。

 どこにあるのかさえわからない。


 石積みの建物の周りと緑の芝生の庭の周囲は、高い塀で囲まれて青い空しか見えなかった。

 そこには白い服を着た自分と少女達がいた。


 自分が男であることはシエナにはわかっていた。それは“先生達”から繰り返し教えられたからだ。

 自分は男で、相手は愛らしい少女だと思うから油断するのだと。

 だからけして、男だとバレてはいけない。


 少女達もまたシエナを女の子だと思っていただろう。緑の芝生の庭で“少女らしく”きゃらきゃらと話しながら、そんなことをぼんやり考えていた。

 自分はしとやかなかわいらしい少女なのだと、シエナは“暗示”をかける。


 これは先生達に教わったことだった。そうして自分に暗示をかけることで、シエナは何者にもなることが出来た。それは少女達も一緒だ。

 しとやかでかわいらしい仲良しのお友達のふり。笑顔でとりとめのないことを話す。楽しくもないのにきゃらきゃらと笑う。


 明るい良い子を大人達は好く。こんなあどけない子供が自分を殺すわけがないと油断する。

 そう先生達は講義した。


 そして、自分と少女達に人殺しの方法を教えた。

 毒薬の作り方に人間の急所、短剣に暗器の使い方。


 十歳のときにシエナは目隠しをされて、施設を出た。馬車に揺られて漁港のような小さな港について、そこから漁師の小舟に揺られて海を渡り、そして、その先で引き渡された。

 老人と老夫人。


 今日から彼らは自分の祖父母なのだという。設定はもっと複雑で、祖父の兄の孫の子で自分は身寄りがなく引き取られたということだった。

 そのほうが彼らが住んでいる王都郊外の隣近所では、いきなり引き取った子供を不審がられないだろうと。


 複雑な事情があると匂わせれば、人はあれこれと詳しく聞きにくくなるとも。

 十歳のシエナには少しよく分からなかったが、自分がやることは一つだ。彼は“暗示”をかけてにっこりと微笑んだ。


「おじいちゃん、おばあちゃん、会いたかった」


 そして、白い施設に少女達といた時と同じく、偽りの家族ごっこが始まった。

 祖父の小さな畑を手伝い、畑の脇に生えている林檎を収穫し、祖母とともにパイを焼いて、無邪気に微笑む少女。


 まさか、その少女が少年で誰もが寝静まった真夜中、むくりと起き出して無表情な祖父役の男が見るなか、小さな畑にある案山子(かかし)に向かい暗器を投げ、ダガーを振り上げていることなど誰も知らないだろう。

 ただ、近所の人々は首を傾げて噂しあうのだ。


「あそこの家の案山子、すぐにぼろぼろになって新しくなるね。夜中にネズミにでもかじられているのかな?」







 祖父役と祖母役の老人はシエナと同じ暗殺者ではなく、この国に放たれた密偵だった。それとシエナの監督役でもあり監視役でもある。


 シエナはあの白い館と同じように、暗示によってあてがわれた役目を過ごした。傍目から見れば騎士を隠居した祖父と祖母、孫娘の穏やかな生活を。

 “命令”が下らなければ、何年も、おそらく何十年も、祖父母役の老人達が死んだとしてもシエナは残された家で小さな畑を耕す生活を続け、夜の闇に紛れて鍛錬を続けただろう。


 いつか来るその時まで。







 そして、その命令はシエナが十六歳となったある日、突然祖父役から告げられた。

 ランベール・ラ・ジルを殺せと。


 サランジェ王国の皇太子。王都で初陣の凱旋パレードで最近遠目で見た。

 まさか、それが役立つ機会がこんなすぐに巡ってくるとは、暗殺の方法はシエナに任された。ただ確実に仕留めろと。


 王宮に忍びこむか、それとも王宮の外に出たところを狙うのが妥当か。それが王都ならば近寄る市井の娘を誰も不審には思うまい。

 そのあと己が逃げるということをシエナは考えてなかった。確実に仕留める。その後、捕らえられ拷問にかけられようとも、誰が王子の殺しを命じたのか、その理由も知らないのだから。


 機会は一度だけ。

 だからこそ、慎重に行動せねばならない。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 しかし、機会は向こうから飛び込んできた。

 いつものように林檎をカゴいっぱいに収穫して、家へと戻る小路で、偶然に標的に出会うなどあり得るだろうか?


 狼の付け耳と付け尻尾をしていたところでわかる。暗殺者として記憶力はいいのだ。標的を間違えたら笑い話にもならない。

 だが、シエナは目の間に立つ王子の首をスカートの下に隠し持っていた短剣で狙うような、そんな愚行はしなかった。


 機会は一度だけ。

 確実に仕留めねばならない。


 たくさんの衛兵に普段は守られている王子は、その日は一人も供を連れていなかったが、まったく隙がなかった。

 穏やかな様子でシエナを警戒しているわけではないとわかる。なのに林檎を拾うために背を向けた、そこに短剣を振り下ろすことが出来ない。

 おそらくそうしようとしたとたん、危険を感知した獅子の本能が、凶刃を避けるだろうとシエナは直感した。


 もっと彼が油断したときでなければならない。

 自分にすべて心許すほどの。


 演技でなく暗示でシエナはごく自然に善良な市井の娘として、見知らぬ若い騎士に礼の林檎を手渡していた。自分で刺繍をほどこしたハンカチにくるみ渡す。


 これがたった一度の邂逅かもしれない。その可能性が高いだろう。

 だが、相手が王都にいるならば、いくらでも時間はかけられる。


 機会はたった一度だけ。慎重に確実にこの暗殺は成功させねばならない。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 三日後にまた王子は姿を現した。

 家に招待すれば、祖父役も祖母役も善良な市井の老人の顔で一介の騎士を名乗る王子を歓待した。林檎のパイの甘い匂いに、お茶の香り。


 シエナの自己への暗示は完璧で、殺気をみじんも見せることなくパイをつつく王子の後ろに立って、その首をかき切ることが出来るだろう。

 腕は動く。だが、刃は王子の首に届く前に、きっと止められる。


 やはり隙がないとシエナは微笑みながら、どこか乖離した思考で冷静に分析していた。






 そして、また数日後、王子は来訪した。畑仕事をしているシエナに「手伝うよ」と彼はいい、慣れない手つきで芋をひっこぬき収穫した。彼の頬に飛んだ泥をハンカチでぬぐってやりながら笑いあう。


 おかしい楽しいというのは演技ではない。心からそう思いこんでいる。暗示はいつもどおり完璧で、だからわざとらしくなく動ける。

 同時に暗殺者としてもう一人のシエナは冷静に王子の動きを見ていた。農具を片付けるのを手伝って、両手がふさがっているが、やはりその身のこなしは気品ある獣のようだった。絹の服をまとい、王宮暮らしの生まれながらの王子だというのに、獅子の血はこれほどに野生を残し濃い。


 今日も無理だろうと早々に断念して、農具を小屋に戻して顔を上げれば、王子と祖父役の男が何事か話していた。






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