この腕の中の幸福を…… 4
「あなた馬鹿じゃないですか?」と言われて、ロシュフォールは面食らった。
王妃の部屋でレティシアはずっと暮らせばいいと思ったし、この後宮に住んでいたすべての愛妾には暇を取らせた。
レティシア一人しかいらないと気持ちを示したつもりなのに、どうして彼は怒っている。
「愛してる」と言ったら「落ち着いて考えろ」とまで言われた。自分がひとときの感情に流されて、それが恋情だと勘違いしているのだと、とんだ子供扱いだ。
たしかに少し前までは子供の姿だった。自分の十年は十歳のまま時が止まったように、無為に過ごしてきた自覚もある。
ただ、始末される時まで諦めたように過ごしていた。
だが、それをたたき起こしたのが、この目の前の銀の髪と蒼い瞳を持つ美しい銀狐なのだ。自分が王だから守るといい、けして諦めることなく生きることが王の役目だと言った。
それがロシュフォールを大人の男にしたのだ。傷だらけになりながら、自分を守る銀狐こそを守る大きな手が欲しいと思った。支える力強い腕もすぐに駆けつけられる長い足も、すべてすべて。
これが気の迷いであるものか!
食い下がったら三ヶ月諦めなかったら考えると条件をつけてきた。自分の気持ちが三ヶ月程度で冷めると思っているのか?と腹がたったがもう一つ奇妙な条件をつけられた。
毎夜、お休みの挨拶をしにレティシアの部屋に来いと。
どういう意味だ?と首をかしげながら、それを承知した。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「おやすみなさい」と目の前でパタンと閉じられた扉を前に、ロシュフォールはこんなことでいいのか?と思った。
毎日、三ヶ月間おやすみの挨拶をするだけで、レティシアに自分の気持ちが伝わるのだろうか?
足りないと思う。
自分はレティシアのように知略に富んではいない。勉学などろくにしなかったのだ。こうなると少しは文学になど親しんで、洒落た恋文の一つでも書けるようになっておけばよかった……と思った。が、あの氷のような参謀に、そんな甘い手紙を贈っても、形の良い細い眉一つ動かすことはなさそうだと、想像がついた。
閉まった扉を前にして、ロシュフォールはしばらく動かないでいた。それに後ろに控えていた侍従長が「陛下、陛下もおやすみを」と声をかけてくる。
それに首を振ってロシュフォールは扉の横の壁に寄りかかった。
「おやすみ」の挨拶なんかではたりない。
ならば……。
「ここにいる」
「は?」
「これからここで過ごす」
そうだ。おやすみのあと、レティシアの部屋の前で朝まで過ごそう……と考える。三ヶ月どころか、彼が許してくれるまで、いつまでもそうしようと。
「ろ、廊下で寝られると?」
「どこだって寝られるだろう」
立ったままは無理か?とは考えた。「しかし」と言いつのる侍従長に俺はここから動かないぞと首を振ることで強い意思を示せば、彼は溜息をつき。
「では、こちらに寝椅子をお運びいたします」
「いらぬ。そのような“楽”をすれば、レティシアに気持ちが伝わらないではないか」
寝椅子になど寝っ転がれば部屋で寛いでいるのと変わりはない。廊下に座って壁に寄りかかり寝るぐらいは許して欲しいが。
「せめてこれを……」と侍従長がもってきた毛布にくるまって、ロシュフォールは廊下にうずくまって寝た。
翌日、朝日の輝く中。「おはよう」とレティシアに挨拶したら「ひ、一晩程度で私はほだされませんからね!」と言われて、扉がぱたんと閉まった。
もちろんロシュフォールだって一晩程度でなんて思っていない。
千の夜だって通ってみせると思った。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
しかし、一月もたたずに真夜中レティシアに腕を掴まれ部屋の中に入れられて、ロシュフォールは面食らった。
さらに彼は顔の包帯をほどいて、これが自分だ!という。傷を負ったときには、その痛みを表情にさえ出さなかったのに、今はなぜか堪えるような顔をして。
正直にその傷さえ、自分には誇らしいと言ったら、本当に、本当に綺麗な涙を彼は流した。
たまらなくなって抱きしめて、口づけていた。
経験がないのはお互い様で、しかし、宮廷で十年聞いたくだらないと思っていた、知識のたくわえはある。男相手にどうすればいいのか……もだ。
あとは、自分のなかにある獣の本能に従えばよかった。レティシアはどこもかしこも甘い匂いがするけれど、ひときわ甘そうなその場所を舐めて吸って、痛くない程度にやわやわと歯を立てれば、可愛い声をあげてのけぞった。細い肩がはねて、すんなりと伸びたしなやかな脚が震える。
それから、執拗に彼の顔にある赤い傷にも口づけた。美しいとはいわない。でも、なによりも誇らしい。この傷も、それからレティシアも全部、自分のものだ。
最後には想いが通じた感激のあまりに、夢中になって三回も挑んでしまったのは仕方ない。だって若いんだもの。
翌日の「加減を考えてください!」とぷんぷん怒りながらの、レティシアの説教をロシュフォールは実にさわやかな気分で、にこにこと聞いたのだった。
◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇
「うわっ!」
「一本」
ぴたりと己の胸の中央に細い木剣の切っ先をあてられて、ロシュフォールが声をあげれば、レティシアが冷静に告げる。
王宮の緑の庭にて、毎日ではないが二人でこうして剣の鍛錬をしている。とはいえ、いつも一方的にレティシアにやられているのだが。
なにしろ剣の練習などしたことなんて全くなかったのだ。あのとき叔父のギイ公爵に勝てたのは、奇跡というより、レティシアを守らなければという強い意思からだろう。なにしろ、急速に身体も成長させたのだし。
とはいえ、相性もあるだろう。大人になったロシュフォールの体躯から繰り出す攻撃は、どうしても大振りになるし、それにたいしてレティシアの動きは素早く的確に急所をついてくる。
「素早いし的は小さいわ」とついロシュフォールがぼやけば「実戦となれば戦う相手など選べませんよ」と冷ややかに返された。
しかし、いつも、やられっぱなしなのも、シャクにさわる。ロシュフォールはポイとじぶんの持つ大剣を模した木剣を放り投げた。
「負け続けだからいやだ、止めるなんて許しませんよ」
と、先生?よろしく言うレティシアに「止めるつもりはないさ。俺はこっちのほうが得意だ」と両手を広げて、その細い身体を抱きあげる。
「ほら、捕まえた」
「な、ひ、卑怯ですよ!」
「戦なら卑怯な手段を使ってくる相手もいるだろう?」
そう返せば「う……」とレティシアは一瞬黙りこむ。そして抱きあげた腕の上をふわふわと銀色の尻尾が揺れているところから、そう機嫌は損ねていないらしいと分かる。
「ですが、今は試合中です。木剣以外での攻撃は反則だから、あなたの負けですよ」
「俺の負けでいいさ」
言いながらロシュフォールは抱きあげた腕のぬくもりの、その薄い胸に頬を押しつける。とくんとくんと心臓の音がする。
「生きてるな」
「なに当たり前のこと言っているんですか?」
「それに温かい」
「それは私が氷の人形と呼ばれている当てつけですか?」
「とんでもない。お前は温かいし生きているし、こうして俺に憎まれ口をたたいてくれる」
「…………」
なにか感じたのか、レティシアが手を伸ばして、ロシュフォールの獅子のたてがみのような、金の巻き毛を撫でてくれる。夜の私室以外で、彼がこんな風にしてくれるのは珍しい。ロシュフォールはネコのように金色の目を細めた。
あの日、自分をかばった母は永遠に失われた。
だが己が守りたいと思った命は、この腕のなかのぬくもりとなって確かにあった。




