おじいちゃん、孫とお別れする
白を基調とした広い部屋にベッドが一台。左腕に点滴の管を繋がれた老人が眠っている。スヤスヤと寝息をたて、穏やかな寝顔だ。
ぴくりと動いた瞼が、ゆっくりと開かれていく。
「……ん? どこじゃここは?」
源二は、病院の個室で目を覚ます。
見覚えのない景色。ベッドに寝ていることから、ここが自宅ではないと分かった。
自分のものとは思えないほどに体が重く、上半身を持ち上げることすらできない。
後頭部を枕に擦りながら首だけを動かすと、たまたま愛する孫娘――麻奈と視線がぶつかった。
「あっ、おじいちゃん起きたよー!」
可愛らしい元気な声が病室に響く。
花柄のワンピースを着た少女は、幽霊でも見たかのように驚いて、おさげ髪を揺らしながら病室から飛び出す。
源二は、その後ろ姿を見送りながら微笑む。
魔王との戦いは、どちらが死んでいてもおかしくなかった。こうしてまた平和な日常に戻れたことに心から感謝しながら、自分の手で守り抜いた自慢の宝物を柔らかい瞳で愛でた。
「おじいさん、よかったですね。麻奈ちゃんたちが帰る前に気づいて。もう少ししたら千枝さんの実家に向かうところでしたよ」
花瓶の水を変えていた聖子が、ベッド横の丸椅子に腰掛ける。夫の額に優しく触れながら話しかけると、しばらく失われていた前髪の感触が手のひらを伝う。
「なにぃ、ワシはそんなに寝ておったのか! 危ないところじゃ……」
激闘の後遺症は凄まじく、源二は両腕すら満足に動かせない。布団の中で、引き攣るように指だけが持ち上がった。
しかし、表情は豊か。何日も意識を失っていた事実に驚き、別れの挨拶だけでもできることにほっとする。
「親父、大丈夫か!?」
病室の扉が勢いよく開く。
千枝と麻奈を連れ添い、大慌てで入ってきた和樹。右手には売店で買ったお菓子やら飲み物入りのビニール袋をぶら下げ、瞳を潤ませながら叫ぶ。
「おぉ、和樹。なに、心配はいらん……」
「馬鹿野郎! 視聴者さんが救急車を呼んでくれたからいいものを、警察からの電話で起こされたこっちの身にもなれ! 医者からはいつ意識が戻るか分からない、一生このままの可能性もあるとまで言われてるんだぞ? 心配するに決まってるだろ!」
源二の言葉を途中で遮り、和樹が恐ろしい剣幕で捲し立てる。硬く握り締めた両の拳がわなわなと震えている。
倒れてから、毎日欠かさずお見舞いに来ていた。でも、ずっと意識が戻る様子はない。やっと目が覚めたかと思えば呑気な態度。
親父はいつもそうだ。相談もなしに一人で勝手に決めてしまう。ワシに任せておけだのなんだのって……。息子として、父親を思う気持ちが溢れ出てしまったのだ。
怒りに任せて声を荒げたわけではない。
瞳に涙を溜めた息子にこうも正論をぶつけられては、何も返しようがない。源二は深く目を瞑り、噛みしめるように頷く。
瞼の裏には、自分の言うことを何でも黙って聞いていた幼い頃の和樹が浮かんでいた。
「もう、あなたったら! お義父さんだってまだ万全じゃないのよ? 今はよかったで済ませればいいじゃないの! ……まったく、すみませんお義父さん」
千枝は旦那の肩を右手でポンと叩き、申し訳なさそうに頭を下げた。
義父が目覚めたことがよほど嬉しかったのだろう。左手のハンカチで目元を押さえている。
しかし和樹は、放っておいてくれとでも言いたげに腕を回して妻の手を振り払う。
そのまま後ろを向いて、頬をこぼれ落ちる安堵の涙をシャツの袖で拭った。
嗚咽を漏らすその姿を隠そうとしているのかもしれない。しかし、ときおりしゃくり上げる両肩のせいで、誰の目にも明らかだ。
「そうだ! おじいちゃん、これ見て!」
心配そうに家族のやり取りを見守っていた麻奈が、今だとばかりに喋りだす。
その眩しいほど明るい笑顔は、暗雲の切れ間から光が差したかの如く、空気を変えてしまう。
肩にぶら下げたピンクのカバンからスマートフォンを取り出すと、真っ白な壁に向かって操作を始めた。
「プロジェクターを使うなら部屋を暗くしなきゃダメじゃない」
娘がこれからすることを察した千枝が、カーテンを閉める。
薄暗い部屋の壁に、なにやら映像が浮かび上がった。
真っ青な背景に、大きな白文字で『夏休みの思い出』と書かれている。
「麻奈の自由研究なの! おじいちゃんと一緒に撮った動画を頑張って編集したんだよ!」
「ほーっ! そりゃすごいのぉ!」
携帯片手に自慢げに胸を張る孫娘を見て、源二の表情が綻ぶ。
動画を編集と言われてもよく分からないが、とりあえず褒めておく。
『夏休みの思い出。二年二組、工藤麻奈』
麻奈がスマートフォンの画面に人差し指で触れると、録音した音声が流れ始めた。
森の中で渓流でも眺めているかのような、心地よいピアノのBGMまでご丁寧に挿入されている。
『とあることがきっかけで、麻奈とおじいちゃんはダンジョン配信を始めることになりました……』
麻奈の声に合わせて、映像が切り替わる。
右側にコメントの文字が流れており、左側に少し緊張した面持ちの源二が現れた。ホスト側の配信画面をそのまま録画したのだろう。
老人がフロートカムを浮かべているのが不思議なのか、通行人がチラチラと様子を伺っている。
――コメントの皆々様、よくぞ御出でなすった。初ダンジョン配信より賑々しく御見物くださり、有難き幸せ。厚く厚く御礼申し上げる。数え年で六十と五。姓は工藤、名は源二。粘り気だけは負けやしねえ。茨城の暴れ納豆たぁワシのことよ!
自信満々にがははと笑う源二の姿。仏の巌窟での初配信だ。
つい最近のことなのだが、なぜか七五三のホームビデオを見ているように懐かしい。薄暗い病室を工藤家の笑い声が包み込む。
『いよいよダンジョンに入るおじいちゃん。これからどうなってしまうのでしょうか……』
緊張感のある声で、可愛らしいナレーターが進める。
シーンは変わってダンジョン内。壁や地面に茂る苔が弱い光を放つ。ぼんやりと白く照らされた洞窟を、一人の老人が慣れ親しんだ様子で歩いていく。
そこに、一体のスライムが襲い掛かる。
目の前の敵を消化してやろうと宙に浮かび上がったスライムは、風呂敷みたいに体を広げて源二を包み込もうとした。
一見弱そうな老人を心配してか、急激に数を増すコメント。絶体絶命のピンチ。しかし、源二は焦りもしない。
――スゥ……ブフウウウゥッ!
空気を胸一杯に吸い込んで、背中を丸めながら一息で吐き出す。
狙いはスライムの体表に浮きだした弱点。下から送り込まれた風がコアを回転させながら吹き飛ばしてしまう。
『すごい、おじいちゃんがスライムを倒しちゃいました! コメントのみなさんも盛り上がっています! さて、お次はゴブリンです……』
ナイフみたいに鋭い眼光で源二を睨みつける二体のゴブリン。片方は棍棒と呼んでもいいのか分からない棒切れを持ち、もう片方は素手。間合いを伺うように、じりじりと距離を詰めてくる。
対して源二は、盾を構えて腰を落とす。視線だけを動かして、交互にゴブリンの姿を確認している。恐ろしいほどに冷静で、相手が何をしてこようとも即座に対応できそうだ。
ついに痺れを切らしたゴブリンが、二体同時に両手を上げて走りだす。やかましく叫びながら、今すぐ殺してやるとでも言いたげな強い殺意を貼り付けた表情だ。こんな顔の化け物に襲われては、腰を抜かしてもおかしくない。
あと三歩も進めば飛びかかってきそうな距離。そこで源二はピクリと体を動かし、相手を威圧する。
目の前に巨大な壁でも出現したのか。ゴブリンどもは一瞬だけ驚愕する。
――喝ッ!
そこに、源二が殺意を束ねた気合いを叩きつける。
ゴブリンは体を仰け反らせて急停止。ホラー映画で大きな音でも鳴ったかのように、目を丸くして恐れおののいている。画面に見入っていた和樹と千枝まで同じ様子だ。
作りだした隙を源二は見逃さない。体を低くして一気に加速。真紅のショートソードを一閃二閃と振り回す。その様子は小学生に配慮したモザイクのおかげで隠されていたのだが、ゴブリンの獣じみた悲鳴が洞窟内を反響していた。
『麻奈のおじいちゃん、とっても強いんです! 今まで知られてなかったモンスターの攻略法を紹介して、表彰までされたんですよ!』
次に姿を見せたのは、迷惑系配信者のスリースターズ。シュンジ、パンドラ、メガモンの三人だ。
何人もの人間をその手で血に染めてきたゴブリンを相手に、納豆を食べさせるというイタズラをしている。
誰よりもゴブリンというモンスターの恐ろしさを知っている源二からすれば、自殺行為に等しい。
二十歳かそこらの子供とはいえ、相手は探索者。注意してやるのが大人として、大先輩としての愛情だ。
『ここからは見せられません……』
急接近した源二がパンドラの左肩を掴み、拳を振り上げながら叱りつける。
――反省せいっ!
その右拳が天誅となり、青いキノコ頭に降り注ぐ……瞬間、画面にモザイクがかかった。
すぐさまシーンは切り替わり、次はシュンジの順番だ。口を大きく開けて固まる彼の元に、つい先ほど仲間をゲンコツで気絶させた老人が迫る。
――愚か者がっ!
源二が怒声とともに右拳を振り下ろすと、モザイクで何も見えなくなってしまう。
ゴツン、ゴツンと鈍い音だけが聞こえるコミカルな編集だ。
あははと楽しそうに笑う母親を見て、麻奈は満足そうな表情を浮かべた。
その後もスケルトンを倒し、オーガを翻弄して探索者のパーティを救う源二の映像が続く。
『Aランク探索者のエリカさんは、かっこよくて美人で、麻奈の憧れです……』
低い姿勢でオークに向かって走りだすエリカ。聖子を手本にしているがスピードで劣るため、狙いを絞らせないように右へ左へジグザグと動く。
オークはフェイントに戸惑い、視線を泳がせるばかり。
いくら力が強いモンスターだろうが、棒立ちなら案山子と同じ。エリカはオークの背後へ回りながら剣槍を振り、極太のアキレス腱を断ち切る。
――たぁっ!
そのまま気合いを入れて飛び上がり、師匠の幻影を追いかけるように薙ぎ払う。老人二人が頷くほどの見事な一撃が、オークの延髄に吸い込まれていく。
そして首を断ち切る前に、文字通り綺麗なお花畑が表示された。
『ビースト北村さんは、優しくて面白いBランク探索者です……』
続いてもコラボ配信の映像だ。
ビースト北村が、メタルリザードの弱点である逆鱗の隙間にミスリルソードを突き刺そうとする……が、失敗。
剣の先が滑ったことでバランスを崩し、前のめりにすっ転ぶ。藁にも縋る思いで体を預けたのは、銀の鱗がびっしり生えた爬虫類の背中だった。
大暴れしながら猛スピードで走り去るメタルリザード。その上で激しく揺さぶられながら、ダンジョンに悲痛な叫び声を響かせるビースト北村。
源二とその仲間たちは、筋骨隆々の大男が見えなくなるまで、唖然として立ち尽くしていた。
あまりに馬鹿馬鹿しい光景に、源二は声を出して笑う。……しかし、細められた瞳からなぜか涙が溢れだす。
ひと夏の探索者としての思い出を振り返ってか、麻奈の成長を感じたからか。涙の訳は分からない。気づくと聖子が目元にハンカチを当てていた。
『お出かけした水族館と神社では、おじいちゃんが大はしゃぎ。楽しかったなぁ……』
深い深い群青の中に照明が差し込む。
光を全身で反射して、キラキラと輝く鰯の群れ。万を超える回遊魚が渦を巻く幻想的な光景だ。
水槽を撮影している麻奈の姿が、うっすらとガラスの表面に映り込んでいる。
――鰯は梅煮にするのが一番じゃ。麻奈は刺身が好きじゃったな?
驚いたかのようにカメラが動く。その先で、源二が両手を後ろに組み、舌舐めずりをしている。
呆れた様子でため息をついた聖子は右手を大きく振り上げ、旦那のハゲ頭を引っ叩いて乾いた音を響かせた。
微笑ましい動画が終わると、アクアワールドや笠間稲荷神社で撮影した平和な家族の写真が流れていく。
『そして……ついにおじいちゃんは、魔王まで倒してしまいました』
夏休みの初めから、魔王を倒したその日まで。麻奈と源二の大冒険が、時系列に沿って短くまとまっている。
『おじいちゃん、いつも麻奈のわがままを聞いてくれてありがとう。優しい家族に囲まれて、麻奈は世界で一番の幸せ者です! 将来は、おじいちゃんみたいな探索者を応援できる仕事をしたいと思いました』
最後に、立派な目標を添え、家族へのメッセージを残して動画が終わる。心地よい余韻に包まれた病室に、しばしの静寂が訪れた。
「自分の子供だからとかじゃなく、素直にすごいなこれは……」
小学二年生が作ったとは思えないクオリティの高さ。ショートムービーのコンテストでもあれば、なんらかの賞を取ってもおかしくない。和樹は手を叩いて称賛する。
「昔は動画の編集って大変だったらしいけど、今は子供でも簡単に作れるんだよね。だから、ダンジョン配信の切り抜きはセンスが問われるらしいよ!」
自分では簡単だと言っておきながら、苦労したに違いない。父親に褒められて嬉しかったのか、もじもじした様子の麻奈は、照れを隠しながらえへへと笑う。
「ほっほっほ、だとしたら麻奈はセンスがあるのぉ。これからどのように成長して、夢を叶えていくのか見守るのが楽しみじゃわい」
「そうですねぇ。麻奈ちゃんに応援される探索者が羨ましいくらい。だって、おじいさんは魔王まで倒してしまいましたから」
源二の大活躍の裏には、愛する麻奈のサポートがあった。孫娘の明るい将来を想像した二人は、柔らかい表情を浮かべる。
「麻奈、まだおじいちゃんとおばあちゃんと一緒にいたい! 海外旅行なんて行きたくない!」
急に泣き出した麻奈。いよいよ帰らなければならない雰囲気を感じ取り、楽しかった二週間の記憶を思い返してしまったのだろう。
母親の元に駆け寄ると、花柄のワンピースに顔を擦り付ける。
「また来年遊びにきなさい。おじいちゃんは麻奈のこと、ずーっと見とるからのぉ。……ばあさんや、ワシに麻奈を撫でさせてくれんか?」
孫娘が帰りを渋るのは毎年のこと。味方してやりたい気持ちをぐっと堪えて、源二はいうことを聞かない左腕に思いを込める。
その言葉を聞いて、ぐしゃぐしゃになった泣き顔のまま、麻奈がベッドに近づいていく。
「正しい行いには、明るい未来が付いてくるんじゃ。他人と自分を比較せず、自分らしく生きなさい。そうすれば、立派な大人になれる」
妻の手を借りて、源二は孫娘の髪に触れた。瞳に涙を溜めながら、残された僅かばかりの時間を惜しむように指先だけを動かす。
「うん……また写真とか動画とか、いっぱい送るから……」
麻奈はただ、何度も何度も首を縦に振っていた。
「そろそろ行こうか。じゃあ親父、元気でな」
「お世話になりました。また来年お邪魔しますね」
ついに別れのとき。
泣きじゃくる麻奈を抱きかかえ、和樹と千枝が病室を出ていく。
あとには二人の老人と、なんとも形容しがたい寂しさだけが残されていた。
「ばあさんや、世話をかけたのぉ」
「はいはい、いつものことですから」
「部屋が暗いのぉ。ばあさんや、カーテンを開けてくれんか?」
「はいはい、いま開けますよ」
いつも通りの二人の会話。
聖子がカーテンを開けると、夏らしい晴れやかな空に太陽が輝いている。麻奈の笑顔みたいに眩しい。
「年甲斐もなく、はしゃぎすぎてしもうた。若い頃と違い、疲れがとれん。……もう少しだけ眠るとしよう」
「あなたは昔から無理をしすぎなんですよ。そばにいてあげますから、たまにはゆっくりしてください」
聖子はベッドに腰かけ、旦那の労をねぎらうように手を握る。
源二はその手を握り返して瞳を閉じると、じつに満足そうな顔で眠りについた。……深い深い眠りに。
工藤源二、享年六十五歳。
これは、一人の老人が英雄として語り継がれる物語。
― 完 ―
以上で完結となります。
お付き合いいただきありがとうございました。