おじいちゃんと喧嘩祭り
「何すんだこの!」
振り返ると、石畳の上で倒れ伏す三島の姿が。
肘をついて右半身を地面から持ち上げ、いまにも噛みつきそうな剣幕で叫ぶ三島の視線の先で、見知らぬジジイが薄ら笑いを浮かべて見下ろしている。
どういう状況なのかさっぱり分からん。
「拙者の名は加藤雪政。五本指靴下の加藤で分かるか? 油断、慢心、怒り……武人としては三流もいいところ。弱いな貴様。たしか、秘孔突きの三島だったな。その程度の実力で魔王に挑もうなぞ片腹痛いわ! たわけが!」
三島を叱りつける奇妙な格好をしたジジイは、自らを五本指靴下の加藤と名乗った。
しわくちゃの顔に、ヤシの木を彷彿とさせるバカみたいなチョンマゲ。えんじ色の直垂に身を包んでおる。
いったいこの老人はいつの時代からやってきたのか。
「いきなし体ぶっつけてきたくせに、偉そうなこと言ってんなよ! んなもん、誰でも尻もちつくっぺした!」
「拙者が魔王やその仲間であれば、貴様はすでに一度死んでいる。それも分からぬとはやはり愚か。敵が街を襲わぬと言ったから、それを信じてのほほんとお参りしておったわけだ。奇襲をされたら、死にざまに魔王の嘘つきとでも言うつもりか? 平和ボケした空っぽの頭に常在戦場を思い出させてやろう」
不穏な空気を感じ取った参拝客がざわざわと騒ぎ始め、二人を中心に距離を取る。
「じぃじ!」
「来んな!」
駆けつけようとした玲央くんを言葉で制し、三島がゆっくりと立ち上がる。
そして、砂埃を払いながら五本指靴下の加藤を睨みつけた。
「……今なら避けられるのだな?」
ぼそりと呟かれた言葉。加藤が発する雰囲気があからさまに変わり、濃密な攻撃の予感が空中に漂う。
五感よりも先に騒ぎだした第六感に従い、ワシの体が自然と臨戦体制を取り、ぐっと腰を落とす。
首筋の後ろらへんがピリピリと感じていた加藤の殺気を追いかけるように、前腕あたりの皮膚がブツブツと鳥肌立ち、冷たい汗が胸元に滲む。
これが何を意味しているか。
その気になれば、あのジジイはこちらの感覚なんぞ置き去りにして、直感だけで勝負せざるを得ない状況にできるというわけじゃ。フェイント一つで右往左往させられる絶対的不利な状態にな。
それが、今から行くぞとご丁寧に教えてくれとる。お優しいもんじゃわい。
加藤の体が深く沈む。
これでもかと細められた両の眼は、上空から獲物を狙う鷹のようにギラリと光る。
よほど自分の動きに自信があるんじゃろう、圧倒的上位の者が浮かべる愉悦の表情が浮かぶ。
次の瞬間、加藤が消えた。
……いや、それほどの速度で前に出た。
「なっ……ぐあっ!」
三島の胸に加藤の肩が当たり、その衝撃で体が宙を舞う。
背中から地面に叩きつけられて、その勢いのまま転がっていく。
三島をもってしても反応できないとは。
「そこまでにしておけ、罰当たりめ!」
理由も分からず親友が痛めつけられているのに、黙って見ているわけにはいかん。
加藤の前に立ちはだかり、視線をぶつけて威圧する。
「なんの騒ぎかと思えば! じい様、おやめください!」
大慌てで遠くから駆け寄り、加藤の袖を引く可愛らしい女子。濃紺の袴を着ている。あやつの孫じゃろうか。
前髪を左右に分けて、高い位置で結んだ黒髪はポニーテールに近いが少し違う。幕末の志士を思わせる髪型じゃ。
時代錯誤のヘンテコ一家が現れおった。
「暴れ納豆の小僧とその仲間の阿呆どもに仕置きの一つでもしてやらねば、怒りが収まらぬ者が大勢いるであろう。拙者はその代表として、こやつらを成敗してやるのよ。静香、カタナを貸せ!」
「じい様より遥かに劣る実力の者が、自分勝手に魔王に挑む順番を決めているのは僕だって納得いきません。言いたいことも山ほどあります。しかし、戦を明日に控えたゲンジ殿と三島殿にこれ以上お怪我をさせるわけには参りません。どうかおやめください!」
ワシより強い探索者が他にもたくさんいるのに、何を勝手なことをしとるんじゃ……と、そう言いたいんじゃろう。
加藤の孫も健気なもんじゃ。自分のじいさんが最強だと信じとる。それに優しい。しわくちゃジジイと一緒に非難しておればいいものを、自らの気持ちを抑えてワシらの心配までしてくれとるんじゃからな。
「よくできた別嬪さんな孫じゃのぉ。まあ加藤や、安心せい。年寄りはゆっくり茶でも飲みながら、居間でワシらが魔王を倒す様子を眺めておれ。この歳になって、誰に功があるかなんぞ気にするもんではあるまい。みなで茨城を救った。それで十分ではないか?」
五本指靴下の加藤を宥めてやろうとしたんじゃが……加藤の孫がムッとした表情を浮かべ、腰にはいておった漆黒の刀を抜く。
「暴れ納豆め、気にしてるんだぞ! 僕は男だ! じい様、もう我慢なりません。やはり僕らで魔王を倒しましょう!」
「静香よ、だから言ったであろう。この男に気遣いなど無用なのだ。剣を抜け、小僧! まさか持ってきておらんなどと戯言はぬかさんよな?」
どうやら加藤の孫は女と間違えられて怒ったらしい。静香と呼ばれた青年に刀を手渡された加藤はニヤリと笑う。
その瞬間、今までに出会ったどんな存在からも感じたことのない研ぎ澄まされた刃のような圧を放つ。
あやつの雰囲気に当てられたワシの皮膚に、肺に、無数の針と化した空気がチクチクと突き刺さる。
「待て、戦う気はない! 神の前で血を流すような無礼は避けるべきじゃ。せめて場所を変えて……」
「ふんっ、笑止千万! 喧嘩祭りを知らんのか? 古より、神と戦は紐付いておる。これで怪我をするようなら、どうせ魔王になど勝てん。構えぬのなら、お稲荷様の御前に貴様の生首を添えるまでよ!」
漆黒の刀を上段に構え、胸一杯に空気を吸い込む加藤。ゆっくり息を吐きながら、体を前に少し傾けた。
「ぬおっ!」
来る……と思ったときにはもう体が反応していた。真横に飛んだ咄嗟の判断を心底褒めてやりたい。もし下がっておれば、今ごろワシの体は右と左に分かれて地面を赤く染め上げておったじゃろう。
一拍遅れてやってきた突風がワシの白髪を揺らす。
その風を起こした張本人は、残心を解かぬまま黒い刀を見つめて首を傾げている。
一歩踏み込み、刀を振り下ろす。加藤はこの動作をしたはず。
三島への体当たりはなんとか目で追えた。しかし、刀を持った奴の攻撃は、何かが横を通り過ぎていったという事後で判断するしかない。
戦闘の経験による予感がワシの命を救ってくれたにすぎん。
「やはり、形を真似ておってもこりゃあ刀とは呼べぬな静香。模造のカタナは空を斬るにしても気味の悪い感触よ。……しかし、まぐれにせよ拙者の一太刀を躱すとは。地面を転がるのが好きなどこかのガキよりかは幾分マシかもしれんな。どうする暴れ納豆、このまま死ぬか?」
「いや、相手になろう。お主の言う通り、神の気まぐれに命を救われただけじゃからな。喧嘩祭り、大いに結構。せっかく年寄りに気を遣ってやったのに、ワシの優しさを無下にしたこと……後悔させてやろうかのぉ」
防具まで着替えるわけにはいかんじゃろう。
鬼鉄の剣とオットマンから貰った白いラウンドシールドをポーチから取り出す。
中央で光る風の神玉に金の細工。ずっと愛用しておったメタルリザードの鱗を貼り付けた盾よりも少しだけ大きい。
惚れ惚れするほどに美しい盾じゃ。これを装備すると、体の底から力が湧き上がってくる。
鷲羽の剣と同じく、使用者に恩恵をもたらす類の品じゃろう。
左手のラウンドシールドを前に、剣は後ろ。半身に構えて立つ。
間違いなくワシよりも奴のほうが速い。こちらから仕掛けるのは悪手じゃろう。
目線だけは出しながら、腰を落として盾の陰になるべく体の大部分を隠し、加藤の攻撃を待ち受ける。
「亀のように縮こまりおって。よほど拙者が怖いらしい」
「お主がしたいのは口喧嘩か? 腕に自信があると思ったんじゃが、ワシの勘違いかのぉ? 武器に文句をつけて負けたときの言い訳から始めるとは、それこそ片腹痛いというもんじゃ。スニーカーなんぞ履きおって、侍の真似事すらできておらんではないか。ほれ、さっさとかかってこいコスプレジジイ!」
「口先だけは一丁前だな。物を知らぬ若造に教えてやろう。五指に分かれた靴下に、地を噛む技術の結晶であるスニーカーを履くことこそ現代における侍の姿。拙者が史上最強だという自負がある。……盾ごと切り伏せてやるのも面白いか」
「そのチョンマゲのほうがよっぽど笑えるわい」
動きを見れば、加藤が一流じゃと分かる。人の身でありながら、目で追えぬほどの速さで斬りつけてくるなどありえんからのぉ。
剣の腕で勝てぬのなら、使えるものは全部使うまで。あやつの誇りに傷をつけ、逆にこちらから制限をかけてやった。
真っすぐ踏み込んで、ワシの盾を狙ってくるはず。
加藤の両足が地面を確かめると、砂粒がジャリッと音を鳴らす。
奴は黒い刀を大きく振りかぶり、上段の構えを取る。動きに合わせて上半身をしならせ、全力の一撃を叩き込むつもりらしい。
自らこちらの土俵に上がってくるとは、気持ちのいい武人じゃて。
ワシとの距離は五歩も進めば詰まるほど。あのジジイなら一瞬で埋めてくるじゃろう。
「受けてみよ、小童!」
――来る!
加藤の姿が消えたと同時、ワシも両足をスライドさせて一歩前に出た。
さっきとは違い、奴の動作がぎりぎり目で追える。視力まで強化されているのはありがたい。
弾丸が如き速さで迫り来る加藤。振り下ろされる斬撃に対し、威力が最大に達する前に盾を合わせる。けたたましい金属音に鼓膜が震え、穴が開く寸前じゃ。
刀に込められた力が尋常ではない。ラウンドシールドを支える左の前腕が軋む。何もせず受けておったら吹き飛ばされておったかもしれん。
前進こそ勝利を掴む鍵。加藤の胴は隙だらけじゃが、剣を振ったとて間に合うまい。
この状況であやつにお見舞いできる最短距離の攻撃は頭突き。喧嘩といこうではないか。
「――おりゃ!」
左足を伸ばし、飛び上がると同時。加藤の顔面にツンツルテンのおでこを叩き込む。
「――甘いわ!」
首を引いて躱そうとしたのかと思いきや、加藤もまたこちらの額に頭突きを合わせてきおった。
頭の中に鐘の音が響く。
ずしりと重たい衝撃が脳を揺らす。
しかし、それはあちらさんも同じこと。ダメージを隠そうとしておるのか、強い視線をぶつけてくる。
こちらも睨みをきかせて加藤の両の目を固定させ、今度こそ鬼鉄の剣を横に薙ぐ。
しかし、深紅の半円は空を斬り、一息ほどの短い攻防を悲しむようにビュッと鳴いた。
すぐに右手を引いて構えを戻し、油断せず加藤の瞳を追う。
奴は楽しそうに笑い、軽やかに飛びながら三歩後ろに下がっていく。そして、直立に近い形で刀を下げ、ゆらゆらと蜃気楼のように体を振り始めた。
「空和一刀流――【蛇頭舞踊】」
上半身から始まった動きは徐々に大きくなり、右へ左へ独特な歩法でゆっくりと動く。まるで酔っ払いの千鳥足じゃ。
「死んでくれるなよ? 暴れ納豆!」
視界に捉えていたはずの加藤の声が背後から聞こえた。
下段からくる攻撃は斬り上げしかない。とっさにそう思ったのか、体が無意識のうちに反応していたのか。振り向きざまに、たまたまバトンを受け取るように受けの形を取っていた右手。漆黒の刀と交差した鬼鉄の剣が半ばほどから折られてしまう。
刃は止まらず、ワシの右脇腹に迫る。
愛刀に命を救われた。威力を殺して少しでも時間を稼いでくれたおかげで回避が間に合った。膝から体重を抜き、前傾して斬撃を躱す。
しかし、追撃されては一巻の終わり。体を捻りながら折れた剣を投げつけると、加藤は振り上げて上段に構え直していた刀で弾く。
その隙に、ポーチから鷲羽の剣を抜いた。
軽くなった体を全力で押し出し、一気に距離を取る。
恐ろしい相手じゃ。
あれが同じ人間などとは考えたくもない。
ここからは加藤の攻撃を避けつつ、鷲羽の剣による範囲の広い無数の刃でカウンターを入れるしかないじゃろう。
「まあ、及第点としてやるか。終わりだ」
小さく呟き、刀を下ろした加藤の口の端から血が垂れる。
奴は直垂をめくり、左肋骨の下あたりにできた楕円形の痣を嬉しそうに見せつけてきおった。
あれはおそらく……。
「思い知ったかパイナップル! ぶつかった瞬間に幽潰のツボさ突いてやったかんな。二日くらいは飯食えねえぞ馬鹿たれが!」
あの跡は指二本分くらいの大きさじゃからな。やはり三島の仕業か。
「痛みもなく、これほどの威力とは。秘孔突きのガキ、なかなかやりおる。暴れ納豆の小僧も、拙者の技を受けてよく生きておったな。褒めてやろう」
「痛くすんのがマッサージじゃねえかんな! ゆっくり効いてくる地獄の苦しみを味わったらいいべ!」
「ほっほっほ、死にかけたわい。この身で五本指靴下の加藤を味わうことになるとは思ってもみなかった。ワシはここから本気を出して、ボッコボコのギッタギタにしてやるつもりだったんじゃが……そっちが終わりというなら仕方あるまい。ワシの勝ちには違いないからのぉ。だーっはっはっはっは!」
ずーっと違和感があった。
おそらく、加藤は最初から本気を出してはおらん。
技を使われたときは冷や汗をかいたが、ワシを殺すつもりの人間がいちいち攻撃するたびに教えてくれるはずがない。
試されておったのじゃろう。
「静香、黒い剣があったな? あれを暴れ納豆の小僧にくれてやれ。羽を使ったお遊戯では、明日の戦いは厳しい」
「はい、じい様!」
加藤に命じられ、静香は肩から下げていたカバンに手を突っ込み、漆黒のショートソードを取り出す。
受け取ると、鬼鉄の剣よりも少し重い。黒い刀と同じ素材であれば、鬼鉄すらも砕ける優れものというわけじゃな。
いい武器をもらってしもうた。
「どれ、お参りをして帰るとするかの。行くぞ静香」
「そうですね! ふふっ、やはりじい様は最強でした!」
可愛らしい笑顔を浮かべた孫を左腕に飛びつかせ、加藤が拝殿へ向かっていく。
「じぃじが悪い侍をやっつけた!」
「当たり前だっぺよ。玲央の前で負けるわけねえべ」
玲央くんも三島の右脚に抱き着いて、正義のヒーローでも見つけたかのようにキラキラとした眼差しで見上げておる。
「おじいちゃん、怪我してない?」
「おでこにたんこぶができとったんじゃが、麻奈の顔を見たら治ってしもうた。しかし、ワシの孫を泣かせおって……あのジジイ、今からでもボコボコに……」
「麻奈は大丈夫! もう泣き止むから!」
「そうかそうか、麻奈は優しいのぉ」
大粒の涙をこぼしながら駆け寄ってきた麻奈の頭を撫でてやる。
「さて……と。ほれ、急いで帰るぞ!」
携帯電話を向けられて、写真やら動画やらを撮影されているようじゃ。
これも全て加藤のせいではあるが、居心地が悪すぎる。
麻奈を抱え、大騒ぎになってしまった神社から逃げるように抜け出した。
帰りの車の中では、玲央くんが大はしゃぎ。言葉足らずではあったが、将来は三島みたいになりたいと夢を語っておった。
技術を受け継ぎ、整体師としてお客さんの不調を治してあげるのはもちろんのこと、強くなって家族を守れるようになりたいんじゃと。
あの若さで立派なもんじゃわい。
優秀な後継者となることを切に願う。
家に着くと、まだ空は明るいが夕飯時じゃった。
「ゲンちゃんとセイコちゃんはマッサージのときに会えるからいいや。麻奈ちゃんまた遊ぼうね!」
「うんっ、ばいばい! 明日はおじいちゃんの配信するから見てねー!」
大きく手を振りながら三島に手を引かれる玲央くん。車に乗り込んでもなお、後部座席の窓を開けてなんやかんやと叫んでおる。
「玲央、危ないから顔出しちゃダメよ? お世話になりましたー!」
ぺこりと頭を下げた輝子が、パッとクラクションを小さく鳴らして車を走らせる。
「ぬあああああっ! 忘れとったあああああっ!」
「急にでかい声出すなよ親父、なんだよいったい!」
三島たちを見送りながら、ワシはとんでもないことに気づいてしもうた。
「加藤のアホがちょっかいをかけてきおったせいで、ワシだけお参りできておらん!」
「ふふっ、神様の前で喧嘩なんかするから罰が当たったんですよおじいさん。ほら、行きますよ」
聖子のせいでみんなに揶揄われ、笑い声とともに家に入る。
いよいよ魔王との戦い。負ける気はないが、今日が家族と過ごせる最後の日になるやもしれん。
ワシだけ先に湯船に浸かり、美声を反響させてご機嫌になりながら体の疲れをとる。
そして、飯を食ってから穏やかな時を噛み締めた。
どれ、明日に備えて早めに寝るとしよう。
この度、マッグガーデン様から書籍化が決まりました。
皆様に応援していただいたおかげです。
これからもよろしくお願いします。




