034. 気球からの景色
いよいよ中央センザイでの研修会へ出発する日がやってきた。一年の魔導士科と騎士科、総勢二百四十名の移動となる。
いったい学校は何台の馬車を用意したのだろうなどと暢気なことを考えていたサクラだが、まったく未知なる乗り物が待ち構えていたことを出発直前に知った。
校舎と寄宿舎の間に大きな布と、人が数十人は入れそうな筒形の枠が八つ並んでいる。
「センザイまでは気球で行く。絶対にはしゃぐな、騒ぐな、喧嘩なんぞしようもんなら空から落とすぞ」
物騒なニクマルの言葉に生徒一同がはいと答えたものの、いまいちその意味までは理解していなかった。
「気球って何?」
「さあ、なんだろうね」
物知りなホズミもわからないらしい。こんなときはアスマとウキに聞いてみようと思って振り向くと、二人は珍しくぽかんと呆けた顔をしていた。
「アスマくん達も気球を知らないの?」
「いや、知ってるけど乗るのは初めてだよ。えっとね、空に浮かぶ船みたいなものかな」
しかし船などどこにも見あたらない。まさかあの筒形の枠に乗るのか。あんな屋根もなくて大丈夫なのだろうか。
「あの地面に横たわってる布があるでしょ。あれを熱で膨らませて空を飛ぶんだ」
理解できないのはサクラだけではないらしく、周りのクラスメイトも同じように首を傾げていた。
「説明するより見た方が早いだろ」
アスマが言うのと同時に、横たわっていた布の近くに防衛軍の制服を着た人達が立ち、次々に風魔術となぜか火魔術を使い布に空気を送り込んでいった。みるみるうちに布が膨らんで空中に浮かび上がる。繋がれた筒形の枠がおもりとなっていて、かろうじて飛び上がるのを防いでいる。
みんなでポカンと口を開けて見上げていると、ニクマルが歩き出した。
「四組はこっちだ。順番に乗れ」
筒形の枠には扉がついていて、中に入ると作りつけの長椅子が並んでいた。壁の高さはサクラの身長ほどで、立っていれば外が見えるが座ったら枠に視界を阻まれてしまった。サクラとホズミは最後尾の端に座っている。
「椅子についている紐を体に巻くように腹の前で結べ。着陸するまで絶対に外すんじゃねえぞ」
着陸とはなんだ。生徒達の間にざわめきが広がる。しかしそれも束の間のことで、それぞれのクラスの担任が着用確認を終えると、一つの気球が空へと上がって行った。
みんなその光景に声もなく見入っていたが、間もなく四組が乗った気球も空へと飛び立った。
悲鳴のような声を上げる子もいれば、興奮した声、怖くて声が出ない子もいる。
「うるせえ! 静かにしろ! 落とすぞ!」
教室だろうが野外だろうが、ニクマルはいつも通りである。途端に誰もが口を閉じた。
「いいか、センザイまでは四時間で着く。途中で休憩を挟んでその際に昼食を取る。質問はないな」
質問があっても受け付けてもらえないらしい。休憩の時にでもどんな原理で飛んでいるのかニクマルに聞いてみたいものだ。
四組の乗った気球にはニクマルと生徒以外にも歴史教師のニシヤ、それに操縦士であろう魔導士が二人乗っている。
「ニクマル先生は気球の操縦免許は取ったのかね」
「いえ、取ってませんね。ニシヤ先生は」
「昔、猛勉強して取ったよ。あれは受験するなら若いうちだぞ」
「まあ、そのうち……」
頭上の膨らんだ布の真下に大きな炎が見える。操縦士が魔術を使っている様子はないので、油か何かで燃やし続けているのだろう。
やはり外の景色は見えず、白いもやのようなものがときたま頭上をかすっていく。もしかしたら雲かもしれない。
「これって雨が降ったらどうするのかな」
ふと気になったことを呟くと、クラスメイトが揃って振り向いた。
「ちょっと、縁起でもないことを言わないでよ」
「あらかじめ調べて飛んでいるに決まってるでしょう」
先日謝ってきた女子に睨まれてしまった。彼女達とはあれから良くも悪くも遠慮なく話せるようになった。
「雨雲に出くわしたら、それよりも高いところを飛べばいい」
サクラの疑問に答えてくれたのはニシヤだ。
「気球って雲より高く飛べるんですか?」
「もちろん飛べる。防御壁を使っているからさほど寒さも感じないし、船よりも早く便利な移動手段だ」
言われて、空を飛んでいるのに風を感じないことに気づいた。
「操縦士は気候を読み、魔術を使って気球を操作する。空の上というのは地上よりずっと寒くて、雲の中では凍ることもあるからな」
上空がそんなに寒いなんて知らなかった。
それに何もしていないように見えて、操縦士はずっと防御壁の魔術を使ってくれていたらしい。生徒一同から視線を向けられた操縦士がにこりと笑った。
いつかは自分もあのように魔術を自在に使いこなせるだろうか。そう遠くないはずの未来を夢見てうっとりしたのは、サクラだけではないだろう。
ニクマルの言った通り二時間ほどで休憩となった。どうやって高度を変えているのか、気球が地上に降り立った。
「ここ、どの辺なんだろう」
「中間なら、パロット辺りじゃないかな」
着陸したのは丘のような場所で、下の方に街並みが見えた。
「各クラス委員は弁当を配るから取りに来い」
呼ばれてアスマと向かうと、当たり前だが魔導士科だけではなく騎士科のクラス委員も集まってきた。
「あ、タケくんだ」
「久しぶりだな」
「うん。すごかったねー、気球。馬車で行くのかと思ってたからびっくりしちゃった」
「ツキユキは高いところも平気なんだな」
そう言ったタケの顔色はあまり良くない。
「もしかして高い所、苦手なの?」
「木に登るくらいだったら平気なんだが、あそこまで高いと気持ち悪くなる」
「座ってるから景色は見えないでしょ?」
「雲がすぐそこにあるんだぞ。それだけで気分が落ち着かなくなるよ」
意外に神経が細やかなようだ。決してサクラの神経が太いわけではない。
そんなタケの背後に一人の教師が立ちはだかった。
「あれー、タケってばいつの間に魔導士科の女子と知り合いになったのかな。隅に置けないなあ」
「うっ、コゴロウマル先生!」
どうやら騎士科の教師のようだが、にやにやとタケをからかう気満々である。
「ふふ、これは後でクラスのみんなに教えないとね」
「ちがっ、俺はただクラス委員として知り合っただけで」
「ふーん、じゃあシラトも知り合いなの?」
タケの隣に立っていた男子が、じっとりとした目でタケを見つめながら首を横に振った。
「あのときシラトはまだ補習の最中で、俺しか教室にいなかったんです」
「へえ、女の子と教室で二人きりかあ。青春だねえ」
「だから違うんですって」
「むきになるところが怪しいなあ」
教師なのに生徒をからかって遊んでいる。その様子にサクラはしばし呆気にとられた。
「これはもう学級裁判の事案だね」
「なぜそうなるんですか!」
ずいぶんものものしい単語が出てきた。学級裁判とはなんだろうか。誰が誰を裁くのか。
「いや、お前は裁判にかけられるべきだ」
「シラト! なんでお前までそっちに付くんだよ!」
もう一人のクラス委員まで参戦して、タケが不利な状況に追い込まれている。
「おい、呼ばれてるぞ」
助けた方がいいのか迷っているうちにアスマに声を掛けられ、レモンからお弁当の入ったケースを手渡された。
「お前、騎士科に知り合いなんていたのか」
アスマがまだ騒いでいるタケ達を横目で見た。
「この間、ニシヤ先生に騎士科へ届け物を頼まれたでしょう。そのときに受け取ってくれたのが、あそこに居るタケくんだったの」
タケをからかっているコゴロウマルは教師というより若いお兄さんといった雰囲気だ。
「コゴロウマル先生って騎士科の先生なのかな。ずいぶん若そうだよね」
「ニクマルだってそう変わらないだろう」
「あ、呼び捨てになんかしたら怒られるよ」
「本人がいなきゃいいんだよ」
クラスメイトへ弁当を配り終えて、ホズミとウキのところへ向かうと、二人は食べずに待っていてくれた。
「今日のお弁当は何かなあ」
薄く切った竹の包みを開けると、中からサンドイッチが出て来た。
「わー、今日はパンの日だ」
具は厚切りハムにベーコンに、卵、コロッケ、ツナと、それぞれに野菜がたっぷり挟まっている。
「すごい量だけど美味しそうだね」
ホズミと一緒に、いただきますと手を合わせて食べ始める。
「フヨウさん、天才。パンがしっとりふわふわで美味しい」
「ほんと、うちの食堂の食事は美味いよね。オリベを選んで良かったって思うよ」
ウキも満足げである。パン好きのアスマも今日ばかりは文句が出ない。
「中央ではどんな食事が出るのかな。美味しい夕飯がと食べられるといいね」
「なんで昼飯を食いながら夕飯の心配をしてるんだよ。呆れて物も言えないな。お前はそのうち食事をしたのも忘れて騒ぎそうだな」
「十分言ってるよ、アスマくん」
弁当に文句を言わない分、サクラにしわ寄せがきたようだ。
「でもせっかく空を飛んでるのに、風景が見えないのは残念だよね」
「あー、それは僕も思った」
ホズミの意見にウキが賛成した。サクラも気球から地上を見てみたいところだが、迂闊に立とうものならニクマルに地上へ放り出されてしまうのであきらめるしかない。
しかし先程、騎士科のクラス委員であるタケは高すぎて嫌だと言っていたので、苦手に思う者もいるのだろう。




