003. 入学式の朝
サクラは朝が苦手な方ではない。孤児院でも六時前には起きて、掃除や食事の支度をしていた。
眠る場所が変わってもその習慣は変わることなく、五時半に目が覚めてしまったものの外はまだ暗かった。普段なら二度寝をするところだが、いつもと違う場所、そして今日行われる入学式に気分が高まり、とても寝つける気がしなかった。
入学式は九時から始まるため、八時半までに校舎へ集合するのだが、まだ三時間も余裕がある。それならば散策でもしてみようかと、まだ寝ているホズミを起こさないよう静かに身支度を整え部屋を出た。あらためて行ってみたい場所もあった。
部屋を出ると意外にも起きている生徒たちが他にもいて、水場へ顔を洗いに行くと物珍しそうな視線を向けられた。二年生や三年生かもしれない。
「おはようございます」
サクラが元気に挨拶をすると、ぽつぽつとだが挨拶が返ってきた。その中で一人、きれいな赤髪を短く耳の辺りで揃えた女子が声を掛けてきた。
「一年生? ずいぶん早起きね」
「はい、なんだか目が冴えてしまったので、ちょっと学校内を見て回ろうかと思って」
「校舎に入れるのは六時半からよ」
「そうなんですね。じゃあ外を少し歩いてきます」
「森には入らないようにね。見つかったら厳しい罰が与えられるから」
「はい……」
既に昨日入ってしまったとは言えなかった。しかもそのときのことが気になってしまい、これからまた森へ行こうとしているとも、もちろん口にはできなかった。
寄宿舎の外へ出ると薄っすらと空が明るくなり始めていた。朝一番の空気は澄んでいて気持ちがいいが、やはり寒い。森の中で汚れたら嫌なので、制服ではなく自分の服を着てきた。
部屋から見えた桜は寄宿舎の裏手にあり、まずはそちらへ歩いてみる。
「わあ、すごい」
桜の木は六つある寄宿舎と森を隔てるように何本も植えられている。まだ咲き始めかと思ったが、日当たりの良い場所は花の開きも良く、既に見頃である。
誰かに見つかってはまずいので桜を眺める振りをしながら歩き、木の陰になり寄宿舎が見えなくなったところで森へと踏み込んだ。
木々が生い茂っているため、辺りがより暗く感じる。怖くないと言ったら嘘になるが、昨日追いかけてきた者の痕跡が残っていないか調べたかった。
不審者がいたかもしれないと教師に報告することも考えたが、昨日は遅刻に気を取られて忘れていたため今さらだろう。まずは自分で調べてみようと早起きついでに思い立ったのだ。
ヘキ村にも森はあった。春になると山菜が採れるため一人で出向くこともあったが、それは勝手の分かる場所だったからだ。この森にはどのような生き物がいて、どのような植物が生えているのかサクラは知らない。最大限の警戒をして森の奥へと進んだ。
それほど歩かないうちに、背後でがさりと音がした。風で草木が揺れる音ではなかった。それならば野生動物か人が潜んでいることになる。恐々と後ろを振り返ると、そこには何の姿もない。だけど絶対に何かがいるとサクラの勘が告げている。
「誰?」
問いかけても返事はない。
「出て来ないなら魔術を使うよ」
入学前から練習はしてきた。人を撃退する程度ならやってやれないことはない。
「出てきなさい」
サクラが再度促すとがさがさと茂みが揺れて、そこから一人の男子生徒が姿を現した。
「アスマくん?」
驚いたことにそこに立っていたのは、昨日おもいきりぶつかってしまった男の子だった。
「なんだ、びっくりさせないでよ」
知っている顔だったのでおもわず胸を撫で下ろした。逆にアスマは険しい顔をしている。
「お前、こんなところで何をしているんだ」
「アスマくんこそ」
「質問に答えろ」
ずいぶんと威圧的だが、べつにアスマになら隠すことでもない。
「昨日、追いかけて来た人の痕跡がないかと思って調べに来ただけだよ」
「一人でか?」
「うん」
アスマの視線は懐疑的だったが、サクラに嘘を言っている様子がないと判断したのか、一転して馬鹿を見るような目つきになった。
「昨日は追いかけられて逃げてたくせに、なんで今日は自分から探そうとしているんだ」
「だって何も分からないまま放っておいたら、もっと怖いじゃない」
「受付にいた教師にでも話しておけば良かっただろうが」
「昨日は間に合ったことにホッとして言いそびれちゃったし、もう一回森に入って何か見つけたら報告しようと思ったの」
「立ち入り禁止の森にそう何度も入ったことがばれたら、ただじゃ済まないぞ」
それはお互い様ではないだろうか。しかし昨日は、アスマは森の手前に居ただけだったと思い直す。
「アスマくんはどうしてここにいるの?」
「ふんっ、お前が言っていたことを確かめに来ただけだ」
つまり目的はサクラと同じらしい。
「じゃあ一緒に探してくれるんだ。良かった、一人でこの森を歩くのはやっぱり怖かったんだよね」
「誰もお前と一緒に歩くとは言ってない」
「まあまあいいじゃない。二人の方が心強いよ」
「お前なんかがいたところで安心できるか」
アスマがサクラを追い越して歩き出したので、その後に続いた。
「朝の森って暗くて怖いよね。今にも何か出て来そうで」
「はんっ、ただの森に朝も昼も関係あるか」
強がりなのか本当にそう思っているのか、アスマはどんどん奥に向かって歩いて行く。
「そういえば昨日教えてもらった受付までの道、遠回りだったよ」
「どうせなら手続きに間に合わなければ良かったのにな」
「あ、やっぱりわざと遠くなるように教えたんだ」
サクラが頬を膨らませると、アスマは満足そうに笑った。
「責任転嫁も甚だしいな。お前が余裕をもって着いていれば、なんの問題もなかったんだ」
「だからと言って意地悪をする理由にはならないと思うんだけど」
「お前が道を教えろというから教えただけだ。あの時、最短の道なんて俺は言ったか、言っていないだろう」
なんという屁理屈だ。サクラの周りにはいろんな子どもがいたけど、ここまでひねくれている子はいなかったように思う。
「普通、遠回りの道を教える人なんていないよ」
「お前の普通を俺に押し付けるな」
しばらくそうして言い合いながら歩いていると、周りが靄で覆われてきた。
「ねえ、そろそろ引き返した方が良くない? 戻れなくなったら大変だよ」
「そこまで広い森じゃないだろう」
この養成学校はオリベの街の北に位置する高台にあり、その周りは森に囲まれている。森の更に奥には海や田畑があるだけで、街へと続く道は南側の通用路だけだ。
昨日サクラが近道をしようとしたのは、その通用路を目指すにはぐるりと森を迂回せねばならず、それならば道はなくとも斜面を覆う森を抜けた方が早いと思ったからだ。
「もう少し行けば海が見えるはずだ」
サクラはまだ海を見たことがない。引き返した方がいいのではと思う気持ちはあるが、アスマの言葉に好奇心を刺激された。
「アスマくんは海を見たことがあるの?」
「あるに決まってるだろう」
「そうなんだ、すごいね」
アスマは鼻で笑った。
「馬鹿そのものの感想だな。海を見ただけですごいのなら、海のある街に暮らしている奴らはどうなる。すごい人物ばかりだな。そもそもあんな物の何がすごいんだ。ただの大きな塩水だろう」
昨日から思っていたがアスマは口が悪い。しかも言葉数が多くどの部分に反論したものか、反論したら反論しただけ倍になって返ってくるので、とても面倒なタイプである。
「なんだ、何か言い返したらどうだ。それとも自分が馬鹿だと認めるのか」
いや、反論しなくとも面倒くさかった。
「今日の朝食はなんだろうね。昨日の夕食が美味しかったから、朝食も楽しみだな」
「ああ? 俺の話を丸っと無視するとはいい度胸じゃないか」
話題転換を狙ってみたが不発に終わったようだ。
そこでふいにアスマが立ち止まり、サクラの背後を睨みつけた。
「どうしたの?」
振り向くと靄の向こうにぼんやりと人影らしきものが見えた。いつの間に近づいてきたのか、迂闊にもまったく気づかなかった。やはりこの森には何かがいたのだ。
「勝手に動くなよ」
アスマはサクラの隣に立った。
「隠れる?」
「無駄だ。向こうも俺達の姿を見つけているはずだ」
アスマの言った通り、人影はこちらに近づいてくる。痕跡を見つけるためにここまで来たわけだが、まさかまた遭遇してしまうなんて運がいいのか悪いのか。
「人じゃなくて熊だったりしないかな」
「そっちの方が嫌だろうが」
サクラの願望はあっけなく否定された。
「それにこれは人の足音だ」
アスマは冷静に分析していて、この状況が怖くないのだろうか。
「俺達のような生徒という可能性もあるな」
ぼんやりとした輪郭がだんだん人の形となって近づいてくる。その人物は近くまでやって来ると風魔術の呪文を唱えた。
「ウィアツ!」
あっという間に靄が晴れてその姿が露わになった。