242. 心と理性
仄暗い中を雪がちらほら舞っている。先程やみかけた雪がまた降りだしてきたようだ。アスマの出してくれた火は温かく、かまくらの中をも明るく照らしている。
入学当初に比べたらサクラもアスマも安定して魔術を操れるようになったものだ。
「フヨウからはまだ親の話を聞いていないんだろ?」
「うん」
院長の話ではサクラの母親が、サクラを託してもよいと思えるくらいには仲が良かったようだが、それならばフヨウはどうしてこれまでなにも話してくれなかったのだろうか。もし母親の一方通行だったならば、それはそれで悲しくなってしまう。
「お前がすべきことはまずフヨウと話すことだ」
「それはわかってるけど」
さっき酷い言葉を投げつけて出て来た手前、母親の話が聞きたいなんてもう言い出せそうもない。
「悪いと思ってるならさっさと謝ればいいだけだろうが」
「そうだね……」
アスマに話を聞いてもらったことで、少しだけ気持ちが落ち着いた。赦してもらえるかはわからないが、サクラはフヨウに謝らなければならない。
「もしフヨウさんが総帥のことを好きだったら嫌だなあ」
それにこの気持ちだけはきっと隠せないだろう。
「だからそれはお前の勘違いだと思うけどな」
「なんで? 女心のわからないアスマくんにそんなこと言われても安心できないよ。入学してすぐの頃も、私のペンケースを落とした女子に注意してくれたけど、その後すごく気まずい雰囲気になったし」
「いつの話をしてるんだよ」
呆れたように言われたが、アスマは言いたいことを言って、気まずい思いをしたのはサクラの方である。
「あれって庇ってくれたの?」
「見てて嫌だったから言っただけだ。そんなことより、そもそもフヨウに女心とやらがあるとは思えないな。あの雑な性格で」
「へーえ、アスマは私のことをそんな風に思ってたのか」
「フヨウさん!」
かまくらの入り口からフヨウとエビが顔を覗かせた。
「アスマには明日どんな仕事をしてもらおうかね」
「俺がしっかり監督しますよ」
珍しいことにアスマは言い返さず、ただ悔しそうに睨み返しただけだった。ここまで連れてきてもらっている恩もあるので、文句を飲み込んだのかもしれない。
しかしそれよりも今は謝罪が先だ。
「あの、フヨウさん」
サクラが呼ぶとフヨウは「うん?」と何事もなかったかのように答えてくれた。
「さっきは酷いことを言ってごめんなさい! 私、自分のことしか考えてなくて、フヨウさんがいなかったらここまで来れなかったのに」
フヨウは怒るでもなく、優しく見つめてきた。
「少しだけ、ナナミの話をしようか」
その前にかまくらでは寒いし狭いからと、先程まで院長と話していた部屋へ場所を移動した。
暖炉の火はまだ消えていなかったがエビがさらに薪を足してくれて、アスマから借りていた防寒着をお礼を述べて返した。
「俺ら先に風呂に入ってきましょうか」
「気を遣わなくていいぞ、エビ。聞かれて困る話じゃないから」
エビは迷った様子だったがアスマはフヨウの話を聞くつもりのようで、自ら暖炉の前に椅子を追加してさっさと座った。
「ナナミが死んだと聞かされてから、私も私なりに情報を集めたんだ。でも死ぬ前の半年くらいは誰もナナミがなにをしていたか知らなくて、院長の話を聞いて納得したよ。あいつは変わってしまった弟を切り捨てることができなかったんだな。憎んだ方が楽だっただろうに、それでも弟を救いたかったんだ」
そう言ったフヨウはどこか寂しく切なそうな表情だった。
「総帥を殺すことが救いだと思ったってことですか?」
サクラが問うとフヨウは首を横に振った。
「私はその場にいたわけじゃないから断言はできないが、争いごとの嫌いなナナミが最初からそんなつもりだったとは思えない。さっきの院長の話を聞いたらなおさらな」
母はサクラを迎えに戻るつもりだったと院長は言った。それが嘘でなければ、総帥を説得する気だったのだろう。でも、どんな風に? サクラの知る総帥は……偉そう、自信満々、人を傷つけても平気で、人の話をあまり聞かない。かなり迷惑なおじさんである。
「ナナミは争いごとに向かない性格でさ、魔力が強くなければ防衛軍に入ることもなかっただろうな。一軍のメンバーに選ばれたときも、サカイと同じ組に入れてホッとしてた感じだったし」
フヨウの総帥の呼び名がサカイのままだが、さっきまでよりは心がざわつかない。
「一軍の奴らは誰が一番強いかを常に競い合っていた。そんな中ナナミは一軍から落ちなければそれでいいって感じで、強さに関してはあまり興味を示してなかったんだ」
フヨウはサクラとアスマを見据えてきた。
「これがどういう意味かわかるか?」
「サクラの母親は戦闘の才能があったか、相当な努力をしたかだ」
問いかけられて答えたのはアスマだった。
「その通りだ。ナナミは才能もあったし努力もしていた。一軍に入るには魔力が豊富なことが第一条件だが、その他にも体術や魔術、戦術なんかも優れていなくちゃならなかった。ナナミはサカイと同じ場所にいるためだけに、苦手な争いごとに取り組み、その座を勝ち取っていた。一軍の方が待遇がよかったこともあるだろうけど、そんなのは二の次の理由だったと思うよ」
フヨウの視線が今度は暖炉に向けられた。
「ナナミはサカイを心配していたんだ。あいつはなんていうか、相手の気持ちを察することが苦手で、悪気なく相手を怒らせてしまう奴だから」
「世の中、悪気がないなら仕方がないってことにはなりませんからね」
渋い顔でエビが言った。フヨウのことが好きなエビにしてみれば、さぞ総帥のことが憎いだろう。
「それでもナナミが言い聞かせれば理解しようと努力はしてた。そんな感じだからナナミはなかなか弟離れができなかったし、サカイもその状況に甘えていた。でも、いつまでもそのままってわけにはいかなかった。ナナミはカゲツに恋をしたから」
総帥は姉を取られたと思ったかもしれない。
「カゲツの存在をサカイは警戒していて、嫉妬と嫌悪を抱いていたと思う。でもあいつはあいつでナナミの笑顔を守りたい気持ちもあって、二人のことを認めたくないけど我慢はしていたんだ」
フヨウは重くため息を吐いた。
「私達は魔物にそれぞれ奪われた。サカイが奪われたものは心だって言われてるけど、それにしちゃまだ人間臭さが残ってる。防衛軍をより良くしたい、サクラを手元に置きたい、そんな欲がある。私はさ、サカイが奪われたものは理性じゃないかなって思ってるんだよ」
「理性?」
サクラが聞き返すとフヨウは頷いた。
「人間生きてりゃ上手くいかないことがある。どんなにがんばったって悔しくたって悲しくったって、耐えなきゃいけない日もある。でもあいつは我慢することを止めた。邪魔なものは排除すればいいし、欲しいものは手に入れればいい。自分が思い描く通りの未来のためなら多少の犠牲も厭わなくなった」
そこまでして思い描く総帥の未来とはなんなのだろうか。
「程度の問題でそういう輩はそこら辺にもいる。でもあいつは少なくともそんな奴じゃなかった」
フヨウは昔を思い出しているのか、少しの間が空いた。
「あの姉弟が最後にどんな話をしたのかはわからない。サカイに聞いてみたこともあるけど、正当防衛の一点張りだ」
フヨウはどんな気持ちでサクラの母の死について調べていたのだろうか。
「ベニシダおじさんは、総帥が加減できないくらい母の攻撃は苛烈だったって言ってました」
「そりゃナナミに戦闘の才能があろうと、現実的にはサカイの方が強かっただろうからな。死ぬ気で立ち向かわなきゃナナミに勝ち目はなかったはずだ。喧嘩の果てにサカイが殺してしまったのか、ナナミが弟を殺すことで終わりにしようとしたのか、はたまた自分の死をもって諫めようとしたのか……もう誰にもわからないんだよ」
まるで自分に言い聞かせるかのようにフヨウは言葉を切った。
「ナナミは一軍だった奴らに、サカイを止めるのを手伝ってほしいと頼んでいた。でも誰も取り合わなかった。タイミングが悪かったなんて、そんな言葉で片づけていいものじゃないことはわかってる。それでもあの頃、ナナミを気にかける余裕のある奴はいなかったんだ。誰もが自分のことで精一杯だった。それぞれ失ったものと向かい合い、野心を抱くサカイに遅れを取らないために」
それはきっと、どうして母には頼れる人がいなかったのかという質問の答えなのだろう。フヨウはどこか困ったような顔で微かに口端を上げた。
「ごめんな、ナナミの側にいてやれなくて」
―なんでフヨウさんは、お母さんの側にいてくれなかったの?
「違うっ! フヨウさんが悪いわけじゃない! フヨウさんが、謝らないでください……」
サクラの心ない一言はどれだけ彼女の心に食い込んだことだろう。フヨウが母の死について調べてくれていたというだけでサクラは救われたのに。後悔と恥ずかしさに顔が熱くなる。
「お母さんのことを気にかけて、調べようとしてくれてありがとうございます」
サクラの言葉にフヨウはどこか寂しげに微笑んで、少なくともその友情が母の一方通行ではなかったことが嬉しかった。
「ただ一つ、これだけは言っておくが」
しかしフヨウはすぐ真顔になった。
「私がスイセンを好きなんてことはありえないからな」
どうやらアスマとの会話を聞かれていたようで、立ち上がったフヨウの影が暖炉の火に照らされて長く伸びた。
「おかしな勘違いをしないように」
「いたっ」
「なんで俺まで!」
フヨウは両手を使ってサクラとアスマの頭をぐわっと鷲掴みにした。結構な力加減だ。
「くそっ、お前のせいだぞ」
「ごめーん」
アスマに睨まれたが、これは謝るしかない。
「さて、それじゃあそろそろ風呂に入って寝るか。二人とも今日は疲れただろ」
「んじゃ俺、風呂の用意してきますね」
先程までの深刻さが嘘のようにフヨウとエビはいつもの雰囲気に戻っている。
その夜フヨウはサクラが寝るまで母と父の話をしてくれて、それはどれも笑える思い出ばかりだった。




