166. 風が吹く
サクラの方もタケ達に気づいたようで小走りで近づいてきた。
「レモン先生、大丈夫ですか!」
「ええ。ツキユキさんこそ手当ては終わったの?」
「あんなの手当てじゃありません! ただ水で洗っただけ、しかもよく考えたら頭から丸ごと洗う必要なんて全然なかったし」
ぎりぎりと歯を食いしばっているサクラの髪はボサボサで、まさかこの寒い中、水にでも突っ込まれたのだろうか。いや、それにしてはどこも濡れていないな。
「それに汚いって何回も言われて……汚いどころか、汚らしいって酷くありませんか! しかも私の顔を見て!」
「そうね、それは酷いわね」
レモンがサクラの勢いに押されている。
「自分の話が終わったら追い出されるし、なんだかだんだん腹が立ってきて」
どうやらサクラの怒りは校長に向けられたもののようだ。
「あ、レモン先生も手当てをしないと。保健室へ行きましょう」
当たり前だが保健室には鍵がかかっていた。
「職員室から鍵を借りてきますか?」
「職員室もたぶん鍵がかかっているから、私が開けるわ」
そう言ってレモンは保健室の扉を両手でつかみガタガタ揺らすと、浮かすように持ち上げそのまま取り外してしまった。
「鍵は……」
「この学校の扉は、だいたいこれで開くわよ」
そんなことを生徒に教えていいのだろうか。と思ったらようやくレモンが微かに笑った。
「私がここの生徒だったときに見つけた方法だから」
どんな状況に陥ればこんな方法を見つけられるのか悩むところだが、どうやら先輩からの助言らしい。
レモンの笑顔は貴重なので、クラスメイトにこのことを話したら、ずるいと騒がれそうである。美人教師に憧れる男子生徒は少なくない。
消毒液や脱脂綿、傷薬は鍵のかかっていない棚にしまわれていたため、すぐに見つけることができた。レモンはサクラの手当てを優先させたが、その手つきは危なっかしく、まだタケ達の方が上手くやれそうだ。
「あいた! レモン先生、消毒液の量が多すぎますよ。あともう少し優しく当ててください」
「駄目よ、しっかり消毒しないと。傷がうんだら大変でしょう」
「わ、たれるたれる、だからってこんなにつけたらもったいないですよ」
「消毒第一」
「適量でいいんですよ。手当ても料理も」
さりげなく傷の手当てには関係のない言葉が付け足された。
「校長とはなにを話したんだ?」
ノウゼンに尋ねられ、またサクラの眉間に皺が寄った。
「私が総帥とどんな話をしたのか聞きたかったみたい。もしかして校長先生がすぐに現れなかったのは、総帥が私になら、なにかうっかり漏らすんじゃないかって思ったのかも」
「なにか漏らしたのか?」
「どっちかっていうと、校長先生が教えてくれたことの方が重要な気がするんだけど」
サクラが言いにくそうに言葉を切った。
「あの運動会の騒動は総帥の仕業だったみたい」
これにはタケ達だけではなくレモンも驚いていた。
「魔素を操るような装置を作ったとかで、フヨウさんが血を吐いて倒れたのもそのせいみたい」
「フヨウは総帥にやられたんじゃないのか?」
「違うよ、フヨウさんがそんな簡単に負けるはずないもん。魔術を使おうとしたところで、その装置に邪魔されたの」
「そんなに危険な装置なのか?」
総帥はいったいそんなものをなにに使うつもりなのだろうか。
「ううん……血を吐いたのはフヨウさんの体質的な問題なんだって。普通は魔術を使えなくなったり、コントロールできなくなるだけみたい」
言葉がどんどん先細ったと思ったら、サクラはレモンを見上げた。
「レモン先生、フヨウさんはどこに運ばれたんですか?」
「たぶん災害派遣遊隊の基地ね」
初めて聞く名称にタケやノウゼン、それにハナカイドウもきょとんと目を瞬かせると、レモンが説明を付け足してくれた。
「フヨウさんはその隊の隊長なのよ」
「災害派遣遊隊ってことは、災害が起きた場所に派遣される、要は本部にとって使い勝手のいい駒ってことですね」
「だが重要な仕事を任されているとも言える」
「そうだね。この国は戦争をしているわけじゃないし、国への貢献度は高いよね」
ハナカイドウの言う通り、暴動も戦争もない現在、防衛軍の活躍の場といえば、もっぱら治安維持と災害復旧活動になるはずだ。
「その基地はどこにあるんですか? オリベの中に?」
サクラの質問にレモンは困ったように眉根を寄せた。
「あの部隊の基地はちょっと特殊なところにあって、部外者は入れないようになっているの」
「レモン先生も?」
「入れてもらえないことはないだろうけど、フヨウさんに会えるかはわからないわ」
サクラが目に見えてしょんぼりしてしまった。
「食堂の職員さんに頼んだら会わせてもらえませんか?」
「断られるでしょうね。一人を許せばきりがないもの」
そこでようやくタケはフヨウを連れて行った男達が食堂の職員だと気づいた。いろんなことがありすぎて忘れていたが、彼らはフヨウを隊長と呼んでいた。サクラはそのことを知っていたようだが、ノウゼンやハナカイドウも疑問を抱いた様子はなく、知らなかったのはタケだけのようだ。
「ひとまずフヨウさんの容体は私から聞いてみるから、少し待ってくれる?」
「はい、わかりました」
サクラの手当てが終わると、今度はサクラがレモンの手当てをすることになった。
「ウォーダ」
サクラが呪文を唱えると水が出てきてレモンの傷部分を覆った。
「ツキユキ、魔術が使えるようになったんだな」
「うん……」
素直に喜ばないのはきっと、レモンもフヨウも総帥の前に倒れて、追い詰められたことで魔術を使えるようになったからだろう。
洗い流した水はそのまま窓から外へと捨てて、久しぶりに使ったとは思えないほど魔力のコントロールが完璧だ。
「お前、前より楽に魔術が使えるようになってないか」
「たぶん魔術が使えない間も、魔力のコントロールをずっと練習してたからだと思う」
「体内の魔力を動かすやつか」
「うん。体の中に均等に行き渡らせて、そのままの状態を保つの。最近は寝るとき以外はだいたい意識してるかな」
それはすごい。タケが同じことをしたらきっと数時間も経たずに疲れ切ってしまうだろう。
「これでまた魔術基礎の授業を一緒に受けられるね、サクラさん」
ハナカイドウの言葉がちくりとタケの胸を刺した。科の違うサクラと話せるのは校内で偶然出会ったときくらいだ。もしタケの魔力が豊富で同じクラスだったら、サクラが困ったときに相談に乗ったり、助けたりできるのに。
「あ、それがね」
しかしサクラの話によるとこれまで通り特別授業は継続され、しかも校長がその役を受け持つと聞いて一番驚いたのはレモンである。
「私の知る限り、校長が直々に教えるなんて初めてのことよ」
「校長先生って普段はなにをしているんですか?」
「……学校の経営や、問題が起きたときの対処とか?」
なぜかレモンは困ったように首を傾げた。こういう表情を見てしまうと、校長の言う通り新人っぽい頼りなさが垣間見える。普段から無表情に振る舞っているのは、生徒に侮られないためなのかもしれない。
「じゃあ問題が起きなければ暇な人なんですね」
「なんと浅はかな考え方でしょう。これから教えを請う者の台詞とはとても思えませんね」
取り外された出入り口の扉から校長が顔を覗かせた。まったく気配を感じとれなかったのはタケだけではなく、誰もが驚きに目を見開いている。最初に立ち直ったのはレモンだ。
「校長、どうかしましたか」
「話し忘れたことがありましてね。ツキユキさんが魔術を使えるようになったことは、しばらく口外しないようにしてください。スイセンがやって来たこともです。その方が面倒が少なくすみますので」
一瞬なぜと思ったものの、魔術を使えるようになったにもかかわらずサクラが特別授業を受けると知れば、やっかみのネタになりかねない。それを校長は気遣ってくれたのだろう。
「ただでさえ今年は次から次へと問題を起こす生徒がいるせいで時間を取られているというのに、これ以上足を引っ張られるのはごめんですからね」
気遣っている、はず。恐る恐るサクラを見たら真顔だった。
「ああ、それともう一つ。ヘキ村へ出していた遣いが帰ってきたので教えて差し上げようかと。結果として、あなたとスイセンは叔父と姪の関係でした。おめでとう。どうりで気に食わない顔をしているわけです」
誰もが反応できないでいるうちに、言いたいことを言って校長は保健室を出て行ってしまった。
「おいサクラ、ぼーっとしてないで追いかけて話を聞いてこい」
「え、あ、うん、そうだね」
ノウゼンの言葉に頷いたもののサクラは動かない。
「なにを聞けばいいの? え、だって校長がさっき、おめでとう? おめでたいことなんてある?」
「いいから走りながら考えろ!」
アスマに背を押されたサクラの足音はどこか迷いを含んでいたが、やがてそれも遠ざかっていった。
「アスマ、廊下を走ったら怒られるんじゃないの」
「べつにあいつが怒られようが俺には関係ない」
「ノウゼンって校長と気が合いそうだよな……」
それぞれの心配をよそに飛び出したサクラは校舎の中を三往復した後、さらに学校の敷地内を走り回ってもまだ校長を見つけられないでいる。
レモンは職員室へと行ってしまい、今さら朝練をする気にもならなかったので、食堂が開くまでサクラを見守ることにした。
「校長先生が言っていたことって本当なのかな」
「姉を殺したってやつか。もし本当だとして総帥が罪に問われなかったのなら、なにか理由があるんだろうが、あいつじゃ校長から聞き出すのは難しいだろうな」
「僕達が聞いても教えてくれないだろうし、こんなときサクラさんの側にフヨウさんがいてくれたらよかったのにね」
「あいつ、そのことについてはなにも言わなかったな」
「言う間もなくアスマが追い出したんじゃないか」
「サクラの性格なら、その前から騒ぎそうなもんだろ」
なんとなく会話に加わる気にもなれず、タケは二人の話を聞くだけに留めた。ここでなにを言ったところで、サクラの気持ちはサクラにしかわからないし、この中で一番サクラと接点が少ないのはタケである。
「ところでさっきの魔力を巡らせるってやつ、アスマどれくらい続けられる?」
「一日は無理だな」
「僕なんか半日も無理だよ。でもそれができたら、もっと強くなれるってことだよね」
「魔術の扱いは今よりましになるようだな」
羨んでも仕方のないことだとは思いつつも、自身の魔力量にため息を吐きたくなる。タケに魔術の伸びしろはないが、ノウゼンは体術も剣術もやる気次第で学ぶことができるのだ。その差は大きい。
防衛軍がわざわざ科を分けてまで生徒を募集しているのは、魔力のある者だけでは数が足りないからだとしか思えない。世の中はなんて不公平なんだろうか。
「犯人発見」
目の前に現れたコゴロウマルの顔に心臓が止まるかと思うほど驚いた。
少しぼんやりしていた自覚はあるが、それでもこんな至近距離に詰め寄られるまで気づかないなんて迂闊だった。
「あれ、君たちの仕業でしょ」
倒れたままになっている二本の木を指さしたコゴロウマルに、タケだけではなくノウゼンもハナカイドウも無言になった。
「どうしてわかったかって? もちろん勘だよ」
「いえ、俺達はなにも言っていませんが」
「走り回っているツキユキさんも関係してるのかな?」
校長から口外しないように言われているので答えようがない。
「ふーん、誰かに口止めされてるんだ。僕にも言わないってことは相手は教師か、フヨウさん? ああ、校長の線もあるかな」
なにも言っていないのに正解にどんどん近づいていくコゴロウマルの勘の良さが恐ろしい。
「もしかして総帥でもやって来た?」
その場の空気が一瞬で変わった。この人、本当はなにか知っているんじゃないのか。
「なるほどなるほど、それじゃ詳しいことはツキユキさんに聞いてみよっと」
「ちょっと待ってくださいコゴロウマル先生!」
嵐のような勢いで現れたコゴロウマルは去るのも突然で、タケの制止などなんの意味もなさなかった。




